【映画】「A」(森達也)感想・レビュー・解説
まさか森達也『A』を観る機会があるとは思わなかった。上映終了が23時、家に帰ってこの文章を書き始めたのが23時45分と言ったところだが、何にせよ観て良かった。
映画を観ながら、昨日やっていた「M-1グランプリ」の決勝で「さや香」が披露したネタのことを思い出した。ざっくり説明するとこんな感じ。冒頭で一方が、「男女の友情は成立する」と語り、長年友人関係にある女性がいるという話をする。もう一方が「大人の関係はないんだな」とツッコむと、「一度だけ」と答える。「いやいや、一度でもあったらもうそれは友情ではないじゃん」というところから、「『男女の友情は成立する』と主張する男」のおかしさを、もう一方があげつらうような展開になっていく。しかし面白いことに、ネタの展開と共にいつの間にか、糾弾していた側が糾弾されるような展開になる。そのスライドのさせ方は実に見事だったと思う。ごく自然に、今まで相手を馬鹿にしていた側が「気持ち悪い」風に見られるようになる、という展開を見せるのだ。「ルビンの壺」でも見ているような鮮やかさだった。
さて、どうしてこのネタのことを思い出したのか。それは、まさに『A』がそのようなこと、つまり「物事は、ほんのちょっとした見方の差によってまったく違った風に映る」ということを如実に示す映画だからだ。
映画の上映前、自著の出版に併せてドキュメンタリー映画の名作の再上映を企画した大島新と『A』の監督である森達也の25分程度のトークショーがあった。その中で大島新は、『A』に対する非常に印象的な「異なる」捉え方を提示していた。
1つは、まだ「ポレポレ東中野」という名前になる前、「BOX東中野」という映画館だった頃に『A』を観た大島新の感想だ。「大げさではなく、椅子から立ち上がれないほどのショックを受けた」と言っていた。決してそれだけが理由ではないが、『A』を観たことがフジテレビを辞めるきっかけの1つにもなったそうだ。それほどの衝撃を受けたのである。
一方、自身がドキュメンタリー映画作家となった視点で改めて『A』を観て、「実にオーソドックスな取材をされていますよね」と、トークイベントで森達也に言っていた。確かに、そのトークイベントを観た後で本編を観た僕の目にも、「とてもオーソドックスな取材をしている」ように映った。
「オーソドックスな取材」にも拘わらず「椅子から立ち上がれなくなるほどの衝撃」を受けた理由は何か。その間を埋めるものこそ、「オウム真理教」の異端さを物語っていると言えるだろう。トークイベントの中で大島新も森達也も似たようなことを言っていたが、地下鉄サリン事件が起こった当時は、「オウム真理教は絶対悪」「朝から晩まですべてのメディアがオウム真理教を取り上げるのが半年から1年ぐらい続いた」という状況だったのだ。
僕にもその記憶がちゃんとある。と、わざわざここで宣言するのは、今日劇場には若い観客が多かったらしいからだ(壇上からはそう見えたらしい)。また、大島新が客席に向かって、「『A』を初めて観るという方」と質問していて、僕も含めて多くの人が手を挙げていた。
個人的に、「オウム真理教が引き起こした社会の狂乱を知らないだろう若い世代」が『A』をどう観るのか聞いてみたい。
僕は、富士山の麓近くで生まれ育った。上九一色村や富士宮など、教団施設があった場所が物理的にかなり近い距離にあったので、そのこともあって報道合戦が凄まじかった。子どもの頃のことはほとんど覚えていないのだが、「地下鉄サリン事件が起こった日が小学校の卒業式だったこと」「麻原彰晃が逮捕された日が中学校の遠足の日だったこと」は、妙に覚えている。その後、「9.11同時多発テロ」「東日本大震災」と、メディアを埋め尽くすような大事件は度々起こるわけだが、僕にとって「地下鉄サリン事件」や「オウム真理教」は、別格の記憶として残っている。
恐らくそれは、「テレビの力がまだまだ強い時代だった」からということもあると思う。現代は、あらゆるメディアが世の中に存在する。それは、「世の中のほとんどの人が当然のように見ているメディアが限定的に絞られることがない社会」であるとも言える。「地下鉄サリン事件」が起こった1995年は、「Windows95」が出た年だからインターネットはあまり普及していなかったはずだし、当然スマホもなかっただろう。YouTubeもSNSもなかった。人々が何か情報を得たり娯楽に興じたりするツールとして、やはりテレビが最強だった時代なのである。
SNSがある世の中では、良いか悪いかはともかくとして、ありとあらゆる情報が同じ土俵に乗る。政府が隠しているかもしれない真実も、命を救うのに役立つ情報も、誰かがテキトーに広めたデマも、同じように拡散される。良いかどうかは別として、「多種多様な情報から選択できる社会」と言える。
しかし、情報源がテレビや新聞だけの場合、情報は「テレビ・新聞が流したいもの」しか拡散されない。この違いはとても大きい。そして、まさにその間隙をついたのが『A』と言える。オウム真理教の報道が凄まじかった時代に、オウム真理教を「絶対悪」として扱わない捉え方は、確かに「椅子から立ち上がれないほどの衝撃」を与えるだろう。
さて、今の若い世代には、このような『A』の下敷きとなる土台が血肉化されていないはずだ。そもそもオウム真理教の報道が凄まじかった状況が想像できないだろうし、「ネットもSNSもYouTubeも存在しない世界での情報収集」もイメージできないだろう。もしかしたら、そういう人が『A』を観たら、「何が凄いのか分からない」という感覚になるかもしれない。
それは、私が『七人の侍』を観た時の感想に近いだろう。「不朽の名作だ」という情報以外何も知らないまま映画館で観たのだが(4時間もある映画だということさえ知らずに驚いた)、正直「何が凄いのか分からない」という感想になった。後で調べて、その理由は理解した。要するに、「私たちが今当たり前のように触れている『物語のフォーマット』みたいなもの」を生み出したのが『七人の侍』なのであり、そのフォーマットが存在しない世の中では衝撃をもたらしたが、そのフォーマットが当たり前になってしまった時代に生きる僕には凄さが伝わらなかったのだ。
そういう意味で、若い世代にももしかしたら『A』の凄さが伝わらないかもしれない、と思ったりする。どうなんだろう。
さて、どんどん脱線しまくっているが、何の話をしていたかと言えば、「さら香」のネタがどう関係するかだ。当時のマスコミは、「オウム真理教は絶対悪だ」という決めつけの元、そのような枠をあらかじめ嵌め込んでオウム真理教という対象を捉えようとした。それは、『A』を制作することになった森達也の経緯からも明らかだ。元々はフジテレビの番組の企画として始まった撮影なのだが、撮影が始まって2日後、フジテレビと、森達也が所属していた共同テレビジョンという制作会社で議論になったそうだ。森達也が撮っている映像はマズいぞ、と。
どうマズいのか。それは、「オウム真理教が悪く描かれていないこと」だ。そして、それを理由に、撮影の中止が決定した。しかし森達也は休みの日を使って独自に撮影を継続、それが会社にバレてクビとなり、仕方なく自主制作のドキュメンタリー映画として完成させたのが『A』なのである。
まさに『A』が生まれた背景にも、どっしりと「オウム真理教は絶対悪だ」という感覚が横たわっているのである。
さて、有名な作品だからざっくりした内容・設定は知っているだろうが、『A』はオウム真理教の内部を撮影する映画だ。しかしそれだけではない。森達也はメディアで唯一教団の施設内部に入り込むことを許されていた。そして必然的に、教団内部から「社会」と「マスコミ」を映し出すことにもなったのである。
森達也はトークイベントの中で、「マスコミの醜悪さを殊更に暴き立てるつもりなどなかった」と語っていた。森達也は荒木浩という信者に密着しており、彼は広報副部長として、逮捕された上祐史浩の代わりにマスコミ対応を一手に担っていた。つまり、荒木浩を撮ることは、必然的にマスコミを撮ることにもなるのである。
脱線しまくるが、森達也が面白いことを言っていた。大島新が「映画の中に映ったマスコミ関係者から文句を言われたことはないんですか?」と質問したのだが、「直接的にはない」と答えていた。しかし初対面の相手との会話で、ちょっとした雑談程度の話で「私、『A』にちょっとだけ出てるんですよね」と苦笑されたり、あるいは飲みの席で「身内(マスコミ)に刃物を突きつけやがって」と笑い話みたいに突っかかられることはある、とも言っていた。映画の中ではNHKの女性リポーターが「個人のプライバシーが明らかにならないように配慮しますので」と言いながら信者の1人にインタビューをする様が映し出されるのだが、その様子を信者も含めてモザイクなしで森達也は切り取っていく。書籍の方の『A』に書かれていたが、森達也は撮影に際して「モザイクはかけない」と最初から伝えていたそうだ。だからそんな変な状況が生まれるわけだが、とにかく「オウム真理教がマスコミに取材される様子」を森達也が撮影している、というわけなのだ。
そして、そんな風に「オウム真理教の内部からマスコミを映し出す」という視点に立つことで、「さや香」のネタのように、「あれ? どっちの方がヤバいんだっけ?」という感覚になっていく、というわけだ。そういう感覚をもたらすという点が、映画『A』が内包する最大の異端さだと僕は感じた。
さて、誤解を受けないように僕のスタンスをざっくり書いておこうと思うが、僕は「日本犯罪史に残る凶悪事件を引き起こしたこと」に弁解の余地はないと思っているし、結局全体像は明らかにされなかったものの、「麻原彰晃を筆頭に、幹部たちが凶悪事件を計画・実行した」ことも間違いないだろうと考えている。彼らがどんな思想を持っていようが、何を目的にしていようが、「凶悪事件を引き起こした」という点において、擁護の余地は一切ないと思う。
ただ僕は、それを「オウム真理教」という全体に対して感じるわけではない。「オウム真理教の中の個人」が悪いのだと判断している。もちろん、違う状況では違う判断、つまり「組織全体が悪い」と考える場合もあると思う。例えば、トランプ元大統領を筆頭にした「Qアノン」については、「Qアノン全体が悪い」と感じる。その辺りの境界は、自分の中でも上手く説明はできない。ただ、オウム真理教が大バッシングされていた当時から、「『オウム真理教の信者だから悪い』という発想はあまりにも短絡的すぎやしないか」と考えていたような気がする。
ちょっと違う話だが、子どもが何か悪いことをした際に、その親が非難される状況も、僕には謎に感じられる。もちろん、親子で電車や公園など公共の場にいて、わが子の悪い振る舞いを親が目にしているのに注意や制止をしない、という状況は駄目だと思うが、親の目の届かない場所で子どもが何かした場合にも、大体親が責められる。それに意味があるのか、僕にはイマイチよく分からない。
とにかく状況次第ではあるが、大体において僕は、「個人がした行為」と「その個人が属する何か」は切り離して考えている。だから、「オウム真理教の信者だから悪い」という発想にはならない。
そしてその感覚は、『A』を観てさらに補強されたと言っていい。
カメラに映し出される人たちの印象は、「真面目な努力家」というものだ。確かに、彼らが信じている価値観は、簡単に共感できるようなものではない。あらゆる欲を手放し、修行によってカルマの解放を目指す、みたいなこと(なのかな?)は、一般的にスッと理解できるものではないと思う。ただ、「目指すべきところが明確に存在し、そのための努力を惜しむつもりがない」という意味でとても誠実な人たちであるように見えた。
僕がとても印象的に感じられたのは、「してはいけないこと」がとても少ないように見えたことだ。以前、カズレーザーが司会を務める教養番組でマインドコントロールが扱われていた際に、カルト宗教についても触れられていた。一般的な宗教とカルト宗教の大きな違いは、「社会と断絶させるかどうか」にあると専門家が語っていた記憶がある。家族と離れさせ、社会的な繋がりも断ち切らせることで、どんどんと孤立状態に陥り、それによって思考を硬直させていくというのがカルト宗教の特徴なのだそうだ。
一方、『A』を観る限り、オウム真理教の信者たちには「こういうことをしてはいけない」というような雰囲気を感じない。もちろん、「殺生はしてはいけない」など、大きなルールはあるだろう。しかし、そういうルールを守ってさえいれば、何をしてても問題ないと扱われているように見えた。
この辺りの感覚は上手く説明できないので、ある人物の発言をざっくりと引用してみようと思う。森達也がある信者に対して、「仮の話ですけど、(逮捕された)麻原彰晃が土下座して『自分だけは助けてくれ』と命乞いをしたって情報が入ってきたとしたらどうですか?」と聞く場面がある。それに対して信者は、概ね次のような答えを返していた。
『それでも、全然大丈夫ですね。
―それは、そういう情報を信じないということ? それとも、信じた上でも大丈夫ということ?
もし自分の目の前で土下座したとしても、僕の考えは変わらないです。最終的な解脱に導いてくれるのは、尊師しかいないと確信しているので』
これは、とても狂信的な主張に感じられるかもしれないが、僕が気になったのは「もし自分の目の前で土下座したとしても」という発言だ。なんとなくだが、特にカルト宗教においては、こういう発言は許容されないように思う。つまり、「尊師は土下座などするはずがない」と、強く否定しなければならないような雰囲気があるのではないか、と想像しているのだ。カルト宗教というのはそういう風に、「してはいけないこと」を明文化、あるいは暗黙の了解の内に浸透させることで、人々の思考を縛り付けているように思う。
しかしオウム真理教の信者からは、あまりそういうことを感じない。
もう1人、麻原彰晃が逮捕された後に代表代行を務めた村岡達子の発言も興味深いと感じた。こちらも森達也から、「(地下鉄サリン事件などの)事件に(教団の関与が)あったんだって想いますか?」と聞かれて、こんな風に答えている。
『今は「あったかもしれない」ぐらいにしか言えない。ただ、林さんの証言なんかを聞いているとかなり具体的で、だから林さんはきっとそういう行為を実際に行ったんだろうなと』
これも、普通にはなかなか発言できないことのように感じられる。もちろん、先の信者にしても村岡達子にしても、「カメラの向こうの大衆」を如実に意識し、「聞こえの良いこと」を言っている可能性もあるかもしれない。ただ、「聞こえの良いこと」を言うのなら、もう少し良い方はあるように思う。彼ら彼女らの発言は決して、「カメラの向こうの大衆」を納得・安心させるようなものではないはずだ。だからなんとなく、「聞かれたことに本心で答えている」みたいな感じがする。
村岡達子は、自身の信仰についてもこんな風に語っていた。
『人間の社会っていうのは矛盾があるわけじゃないですか。(戦争に勝てば人を殺しても裁かれない、みたいな事柄に対する違和感を口にする) そういうことに、子どもの頃から疑問を抱き続けてきたんですけど、それに納得の行く答えをくれたのは、これまで尊師しかいないんです。
まあ、こういうことを言うと『マインドコントロールされてる』なんて言われちゃうんですけどね(笑)
ただ、(尊師が逮捕されたからと言って)自分の体験・経験として体得してきたことがあるから、そういう信仰が揺らぐことはないですね』
旧統一教会の法整備において「マインドコントロールの定義が難しい」みたいな話が出てきたし、映画に映し出された人たちがマインドコントロール下にあるのかどうか、判断は難しいだろう。ただ、映画に出てくる何人かの人が、同じようなことを言っているのが印象的だった。ある人物は、「グルがどんな人物であっても構わない」と断言していた。それは、「どんなことがあっても麻原彰晃についていく」という狂信さというよりは、「依って立つものは自身の内部にもうあるから、麻原彰晃の存在に頼る必要がない」という宣言のように感じられた。
ただ、やはり「これはちょっと狂信的だなぁ」と感じる場面もあった。その1つが、「麻原彰晃が逮捕されたことをどう捉えているのか」についての話だ。ある信者は、「弟子たちがあまりに修行しないから、修行を促すために演技をしているのだ」と言っていた。つまり、世間からオウム真理教が猛烈に批判されるような状況を作り出すことで、「それで諦めてしまうような人間」をあぶり出そうとしている、というのだ。あるいは別の信者は、「世間から批判されているこの状況は、自分がオウム真理教の教えをどれだけ体得しているか、どれだけ体得し得るかの実地訓練のようで、良かった」みたいにも語っていた。さすがにそれは、なかなか無理のある解釈だなぁ、と感じてしまった。
映画のラスト付近で、森達也が荒木浩に問い掛ける場面がある。「確定はしていないが、事件にオウム真理教が関わっていることはほぼ間違いない。そして、どんな形であれ社会の中で生きているのだから、社会の規範は守るべきだ。だから、『社会の規律を蔑ろにした』という点で、社会は君たちに謝罪を求めているというのが現状だと思うがどうか?」というようなことを聞かれた荒木浩は、長い沈黙の後こう答える。
『1つ受け入れると、オウム真理教に対する世間のイメージすべてを受け入れることになりませんか?
「色々あったけど云々」みたいな中途半端な対応は私には出来ませんよ。「じゃあなんでまだ教団に留まってるんだ」って聞かれたら、答えられなくなるじゃないですか』
荒木浩は映画の中で、大体の場合平静のまま対応している。しかし森達也にこう問われた場面では、振り絞るようにして言葉を返していた印象がある。彼は、「オウム真理教に出家する前より『社会』に深く関わっているから、今からさらに出家したい」とも言っていたが、広報副部長としての難しい立ち位置を感じさせる場面だったと思う。
街中で刑事と揉め、最終的に「転び公妨」で逮捕に至るという一連の流れは凄いリアリティだなと思うし、リアリティという意味で言えば、服装に頓着しない荒木浩がスーツ姿なのにサンダルで来てしまい、公の場に立つ直前に隣に人から革靴を借りるシーンなんかは結構好きだなと思う。そういう、普通ならなんでもない些細な場面が、「オウム真理教は絶対悪だ」という強烈な土台の上に乗るととても奇妙なものに感じられる、その「視点の変遷」みたいなものを感じさせられる作品だった。
いやはや、観れて良かった。
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