【映画】「”敵”の子どもたち」感想・レビュー・解説
こんなことが世界で起こっているとはまったく知らなかった。凄まじい話である。日本もまったく無関係だとは思えないのだが、この映画で描かれているような状況に陥っている日本人は1人もいないのだろうか? 特にヨーロッパで今も未解決の問題として残っているらしいが、僕はこのような報道に触れた記憶がない。
映画の主人公は、スウェーデン人のパトリシオである。彼が置かれている状況は、次のようなものだ。
彼の娘の1人アマンダは外国人と結婚し、その後スウェーデンを出て他国で暮らし始めた。彼女はスウェーデンで3人、そして他国に移ってから4人、計7人の子どもを産んだ。その後、アマンダと夫は死亡、7人の子どもたちはとある事情から劣悪な環境に留め置かれた。その事実を知ったパトリシオが、7人の孫たちを救出しようと動き出す。彼は7人の孫たちがどこにいるのか突き止め、さらに自身がその孫たちの祖父であることを証明する書類も用意した。彼自身、孫たちが住む国の近くに出向き、孫を返してくれるよう日々主張している。
にも拘らず、パトリシオは孫を引き渡してもらうどころか、会うことさえままならない状況にいる。
これだけ聞くと意味不明だろう。パトリシオが7人の孫を連れ帰る障壁など何も無いように感じられるはずだ。しかし、事はそう単純ではない。この映画の最大の問題は、「アマンダがISISに参加した」という点にあるのだ。
それがどのような問題を生むのかは、なんとなくイメージ出来るだろう。スウェーデン政府は、「ISISに参加したアマンダの子ども」を「スウェーデン人」として救助すべきかどうか、その方針を出しておらず、世論も「ISISの子どもなどスウェーデンに連れて帰るな」という論調が強いのである。
この問題はスウェーデンだけではなく、世界各国が抱えている。映画の最後には、「今も多くの子どもたちが、各国政府の”英断”を待っている」と字幕で説明された。
それでは、アマンダがISISに参加したという事実を踏まえた上で、改めてパトリシオが置かれた状況について説明しよう。
アマンダはある日、母親と共にイスラム教に改宗した。パトリシオは後に、「娘がどんな宗教を信仰しようと、娘が幸せならそれでいいと考えていた」と語っている。これは、「娘がISISに入るのを止めるタイミングは無かったのだろうか」と後悔する流れの中で口にされるものだ。
そしてその後アマンダは、聖戦士主義者と結婚、そして父パトリシオに内緒で3人の子どもを連れてシリアへ向かった。そのままISISに入る。
ISISに入ってからも、アマンダからの連絡は途絶えなかった。映画の中でパトリシオは度々、娘から届くメールの内容を読み上げる。「パパのことを愛してる」「反対されると思ったから言えなかった」「私が悪いことをしているとはどうか思わないで欲しい」など、父親のことを愛しながらも自身の信念を曲げることは出来ないという決意が随所に詰まった文章である。それと共に、アマンダは、子どもたちの写真や動画もパトリシオに送っていた。これがあったから、7人の孫とパトリシオの関係が証明できたのではないかと思う。
その後、夫妻は戦闘の最中死亡し、子どもたちはアルホル難民キャンプに送られた。1歳から8歳までの計7人だ。9千人が収容できる広いキャンプだが、そこに孤児ばかり8万人が収容されており、飲み水とトイレが圧倒的に足りていない。死の間際のアマンダからの連絡には、「食料が足りない」とも書かれており、7人の子どもたちは栄養失調の状態にもある。一刻も早く助け出さなければならない。
しかしそこに立ちはだかったのがスウェーデン政府だ。スウェーデンに限らずだが、各国とも、自国からISISに参加した者たちの処遇について頭を悩ませていた。(確か)アメリカが、各国に向けて「自国からISISに参加した者を自国の法廷で裁くべきだ」という主張をしていたし、スウェーデンの議員の中には、「ISISに参加した者の市民権を剥奪すれば、子どもたちの問題もスウェーデンとは関係なくなる」と主張する者もいた。ネット上ではパトリシオに批判的な意見が多く、「ISISの子どもたちと同じ幼稚園には通わせたくない」など心無い書き込みが多くあった。
パトリシオはこのような状況にいる。
彼は、娘の死の直後から精力的に動き始める。赤十字やセーブ・ザ・チルドレンなど、ありとあらゆる支援団体に連絡したが助けてもらえず、政府に連絡を取っても「複雑過ぎて協力できない」と言うばかり。そんな中、協力してくれるという人権派弁護士と出会え、まず孫たちの無事が確認出来た。しかしそこからは、パトリシオの行動力でどうにかするしかない。具体的には、スウェーデン政府を動かさなければならない。
なぜなら、クルド人自治政府が「スウェーデン政府との合意が必要」と主張しているからだ。映画の中で、確かテレビから流れてくる音声だったと思うが、「難民解放前に、合意の適用範囲を拡大したいのだろう」みたいな説明がなされた。それ以上説明されなかったので具体的には良く分からないが、「クルド人自治政府は、何らかの交渉のカードとして『難民』を捉えており、各国政府との交渉無しに難民を解放するつもりはない」という風に理解した。
彼はイラクのアルビル(シリアとの国境付近)に滞在し、出来ることをやろうと決意するのだが、しかし、スウェーデン政府の許可が出なければ何も動けないという状況下では、やれることがほとんどない。
そんなわけでこの映画は、「イラクでひたすら『待つ』パトリシオの姿を映し出すドキュメンタリー」なのである。
本当に、こんなことが起こっているとは思っていなかったので驚かされた。確かに考えてみればこのような問題が存在することは分かるかもしれないが、ちょっとその辺りの想像が及んでいなかったと思い知らされた感じもある。
世界40ヶ国から4万人がISISに入ったと推定されるらしいが、これらが報道されていた当時からマジで意味が分からなかった。何をどう判断したら、「ISISに入ろう」という決断になるのだろうか。アマンダがパトリシオに送った文面からすると、「真っ当な思考によってISIS入りを決断している」という風に受け取れる。決して、狂気に支配されたとか、無理やり決断させられたみたいなことでは無さそうなのだ。そしてだからこそ、恐ろしいと感じさせられた。
日本人でも恐らく、ISIS入りした者がいるのではないかと思うのだが、パトリシオのように「遺された子ども」みたいな問題はなかったということなのだろうか? 日本では、そのような報道を見かけたことがない。スウェーデンでは、パトリシオがマスコミを巻き込み始めて以降、より大きく取り上げられるようにはなったのだが、それ以前の段階でも既に問題としては報じられていたと思う。アルホル難民キャンプにいる8万人の孤児の内、スウェーデンの子が80人ほどいるはずだという報道がされている。
「ISIS入りを決断した本人」に対する処遇は、まあ厳しいものであってもいいと思う。別に僕の中には、どういう処遇をしろという意見はないが、それが例えかなり厳しいものであったとしても、「ISIS入りを決断した本人」に対するものであるならば、まあ別に問題ないと感じるだろう。
しかし、その子どもたちは別だ。彼らは全然悪くない。パトリシオも、「ISISで闘った2人の男女の話ではないんです。何の罪もない7人の子どもたちの話なんです」と口にする場面があった。その通りだ。もちろん、「ISISの子どもたち」を受け入れたくないという感情的な気持ちも理解できるが、やはりその辺りは理性で抑え込んで、「子どもに罪はない」と判断すべきではないかと僕は感じる。
さて、ここからは、映画の結末に触れないとちょっと書けない話をしたいので、これ以上の展開を知りたくないという方はここで読むのを止めてほしい。まあ、結末を知った上で観ても、その衝撃は変わらないと思うが、念のため忠告しておく。
パトリシオは無事、7人の孫たちを救い出し、本国スウェーデンへと帰ることが出来た。彼は、「子どもたちを育てるのは、彼らを救出する以上に困難だろう」と口にしている。子どもたちは、年齢によって期間は様々だが、一定期間「イスラム教」の中で生活していた。アラビア語とスウェーデン語の両方が話せるようで、ある子は注射される際に「アッラーは偉大なり」と叫んでいた。また、長男は父親の死を直接目撃したようだし、シリアではかなり劣悪な環境で生活していた。そんな子どもたちを育てるのは確かに大変だろうが、パトリシオは「愛を注ぎ続ける」と決意していた。
とはいえ、法律上、パトリシオには養育権は存在しない。だから7人の子どもたちはそれぞれ里親の元に振り分けられ、パトリシオは彼らを定期的に訪ねる形で関わっているそうだ。
さて、僕が最も驚いたのは、子どもたちを救い出した後に現れた「アマンダの母親」である。もちろん、「パトリシオの妻(あるいは元妻)」なのだが、パトリシオは一度もそういう表現をしなかった。「アマンダの母親」あるいは「子どもたちの祖母」という風に紹介していた。
記事の最初の方で書いた通り、アマンダは母親と共にイスラム教に改宗した。母親はISISとは一切関わらなかったそうだが、それでもイスラム教を信仰していることには変わりない。
パトリシオが子どもたちを救助したことはマスコミでも大いに話題になっていたし、だから彼女の耳にも入ったのだろう。ある日パトリシオの元に連絡があった。パトリシオは、会わせることに不安を感じてもいたが、彼女が子どもたちと一時一緒に暮らしていたこともあり、「子どもたちには彼女が必要だ」と、滞在しているイラクのホテルに呼び寄せた。その後しばらく、パトリシオと共に、ホテルの一室で子どもたちの世話をする。
しかし、子どもたちのケアにボランティアで関わっている団体の人物は、「彼女の存在は子どもたちにとって脅威になる」と話す。それはその通りだ。彼女は未だにイスラム教徒であり、それは、いくらISISと無関係だと言ってもマスコミの格好の餌食になる要素だ。パトリシオ自身もそのことは理解しており、最終的に彼女はこの部屋を去らなければならないと考えている。しかし彼女は、自分が子どもたちの世話から排除されてしまう状況に納得がいかずに口論になる。
まだ、それは理解できなくもない。いや、僕もやはり「自分の見られ方を冷静に判断しろよ」と感じてしまうが、彼女も7人の孫たちの行方についてはずっと案じていたわけで、関わっていたいと思ってしまう気持ちは理解できなくもない。
ただ、問題はその後のシーンだ。
孫の1人が、祖母のスマホに入っていた「イスラム教のお祈り」みたいな音声を自ら選択し再生した。それをパトリシオは「絶対にダメだ」と止める。しかし彼女は、「私が選んだんじゃない、子どもが再生したんだ」「この子たちはムスリムよ」と、孫たちをイスラム教から遠ざけようとするパトリシオの行動を制するのだ。
まずこの行動には驚かされた。確かに彼女自身まだイスラム教を信仰しているわけだが、それにしたって、ある意味では「イスラム教のせいで娘のアマンダは死に、孫たちは苦境に立たされていた」わけだ。にも拘らず、「アマンダも子どもたちにはイスラム教を信仰してほしいと思っていた」と、それが正しいことであるかのように孫たちをムスリムとして育てようとするのだ。
この行動にもちょっと驚かされたが、100歩譲ってまだ良しとしよう。彼女自身がまだイスラム教徒なのだから、孫にもそれを勧めることは、彼女の理屈の中では正しいと判断できなくもない。
ただ、唖然とさせられたのはその後の行動だ。彼女は、その凄まじい奮闘ぶりによって7人の孫たちを取り戻したパトリシオに向かって、こう言い放つのだ。
【子どもたちを救ったのは誰だと思ってるの!?
神が起こした奇跡なのよ!】
うわぁ、と感じてしまった。さすがにこれは許容できない。100歩譲って、彼女がそう認識すること自体は許せても、それをパトリシオに向かって叫ぶのだけは無しだ。意味が分からない。
正直なところ、彼女がもう少し節度を持った振る舞いをしていれば、針の穴を通すような厳しい可能性だっただろうが、子どもたちとの関わりを持ち続けられる未来もあったかもしれない。しかし彼女は、自らのその可能性を潰してしまったと言っていいだろう。
そして彼女の振る舞いは、「イスラム教徒」全体の印象をも悪くしていると思う。僕自身は、イスラム教に限らず、「宗教」や「宗教的なもの」が全般的に好きではないのだが、一般的に言って「イスラム教」というのは、9.11やISISと直結するイメージもあって、どうしても「悪い印象」で捉えられることが多いはずだ。そういう中で、イスラム教徒である祖母がこのような振る舞いをすることは、その「悪い印象」を一層強調することにもなってしまうだろう。
「パトリシオを描く映画」だから当然と言えば当然かもしれないが、「神が起こした奇跡なのよ!」と言われても激昂したりせず、冷静な対話で物事を進めようと努力しているパトリシオの印象が一層良くなるような、そんな場面だった。
本当に、凄まじい現実が描かれる作品である。この問題はまさに現在進行系であり、こうして各国政府が決断を保留している間にも、難民キャンプで多くの子どもたちが命を落としているのである。
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