【映画】「光」感想・レビュー・解説

喪失は、持っているからこそ感じる。
持っていないものを、失うことは出来ない。

『消えてなくなってしまうものにこそ美しさがある』

確かにその通りなのだろうとは思う。でもそれを「美しい」と感じられるのは、それが元々自分のものではない場合だけだろう。

自分のものであれば「消える」とはなかなか表現しない。「失う」となるだろう。「消える」と表現できるものは、元々自分のものではなかったのだ。だから「美しさ」を感じることが出来る。

あるいは、失ったものにも、「美しさ」を感じることは出来るものだろうか?

失いたくないから、何も持ちたくないと思ってしまう。
どうも昔からそう思うことが僕にとっては普通だった。
モノも人も概念も、あまり持ちたくない。
いずれそれらは、失われてしまうと思っているから。
その喪失に、自分が耐えられる気がしないから。

目が見えない人にも、色んな方がいる。
生まれた時から見えなかった人もいれば、途中から見えなくなった人もいる。
僕にはどちらの気持ちも分からない。
恐らく、両方の気持ちを同時に理解できる人はまずいないだろう。
その上で、こんなことを考えてしまう。
どっちの方が、よりダメージは少ないだろうか、と。

「喪失」という意味で言えば、生まれた時から見えなかった人は何も失っていないかもしれない。初めから持っていなかったのだから。
けれど、最初から見えない場合、「想像する」というのはどういう行為になるのか。
見えていた記憶がある人は、過去に見たものや見たものからの類推で「想像する」ことは出来るかもしれない。
しかし「見た」という記憶がない人は、一体何を想像しているのだろうか?

何に「美しさ」を感じるのだろうか?

内容に入ろうと思います。
視覚障害者向けに、映画の音声ガイドの文章を作る仕事をしている尾崎美佐子は、日々目に映るものを音声ガイドのように切り取っていく。モニター会で自分の考えたガイド文を映画に当てはめながら朗読する。そのモニターの中に、中森雅哉がいた。モニター会で、美佐子に厳しい意見を言った人だ。上司に見せてもらった写真集で、中森がかつて名の知られた写真家だったことを知る。
中森は、僅かに視野が残っている。公園で彼を見かけた時、美佐子は中森の手に二眼レフカメラを認めた。今もまだ、カメラを手放さないでいるらしい。
届け物をしたことをきっかけに中森の部屋に上がることになった美佐子。少しずつ、中森雅哉という人物の内側に触れていく。
美佐子には年老いた母がいる。認知症だ。面倒を見てくれる人がいて、すべてその人に任せきりにしてしまっている。時々顔を見せに行くが、母が何を見ているのか、美佐子には分からない。
中森は久々に、かつてのカメラマン仲間と飲みに出かける。「もう撮らないんですか―」そんな言葉にも、笑って返答する。その帰り道、吐瀉物に滑って転んだ中森は、地面に転がった二眼レフカメラが誰かに持ち去られたことに気付く…。
というような話です。

なかなか素敵な映画でした。たぶん色んな見方が出来る映画で、見る人によってどこに感じ入るかが変わってくるんだろう、という感じがしました。

僕はやはり、冒頭でも書いた「喪失」という部分に一番惹かれました。視力を失った写真家がどう生きるのか。

『一番大事なものを捨てなきゃいけないなんて辛すぎる』

という言葉は、想像するだけでも辛い現実を切り取るものだと思います。

また「喪失」は、記憶の喪失という形でも出てきます。美佐子の母もそうですが、美佐子が音声ガイドを付ける短編映画でも、認知症を患った妻とそれを介護する夫の物語となっている。この短編映画は、「光」本編のエンドロールの後に流れる。こちらの映画も、「光」以上に文学的という感じで、「喪失」とそれに抗うことを止めた者の緩やかな時間が描かれていると感じました。

『映画の音声ガイドは、彼ら(視覚障害者)の想像力を理解すること』

なるほど、と思うと同時に、それは激しく困難だ、とも感じました。目の見える人間が、目の見えない人間の想像力を想像する。そんなことが出来るのだろうか?

ただ、なるほどと思わされるセリフがあった。

『私たちは映画を観ている時、いつの間にか映画の中にいる』

僕たちにとって「映画を観る」というのは、「スクリーンを見る」というのと同じだろう。しかし視覚障害者にとっては、「映画の世界の中に入っている状態」なのだという。

『映画は私たちにとって、とても大きな世界なの。その大きな世界を言葉で小さくしてしまうこと程、残念なことはない』

なかなか厳しい言い方だが、非常に的確で分かりやすい表現だと感じた。

映画を観ていて感じたことは、登場人物たちが「セリフを喋っている」ような感じが全然しなかったことだ。主演の永瀬正敏と水崎綾女の二人はともかくとして、そうじゃない人たちは皆、映画の撮影などということとは関係なしに、普通に喋っているように見えた。特にそれを感じたのが、モニター会のシーンだ。本当に、実在するモニター会を見ているような感じがした。あのモニター会にいた人たちが本物の役者なのか、あるいはそうでないのか僕には分からなかったが、あの雰囲気を「演技」によって生み出しているとしたら、ちょっと凄まじいな、と感じた。

ちゃんと映画全体を捉えきれたか自信はないけど、なかなか素敵な映画だったと思います。

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