【映画】「PASSION(濱口竜介監督)」感想・レビュー・解説

評価が難しい。

いち映画として観れば、かなり面白い作品だと思う。特に、これが東京藝術大学の卒業制作だというのだから驚かされる。もし、この映画が公開された2008年にこの映画を観たらぶったまげたのではないかと思う。

しかし、この映画を観たのは、2008年の私ではなかった。

私は、

『ドライブ・マイ・カー』

『偶然と想像』

『親密さ』

『ハッピーアワー』

『PASSION』

の順で濱口竜介を観た。しかも、2021年の年末に『ドライブ・マイ・カー』を観てから、今日4/5に『PASSION』を観るまで、たった3ヶ月程度という短期間に集中している。「基本的に、映画は映画館でしか観ない」と決めている僕には、なかなか起こり得ない状況と言える。

しかも、僕は『ドライブ・マイ・カー』も『偶然と想像』も、観る前からその存在や評判をなんとなく知っていたが、それでも「絶対に観ない」と決めていたのだ。色々あって観てみることにしたら、あまりにも凄すぎて、過去作にも手を出すようになった、という流れで濱口竜介作品に触れてきた。

つまり、僕にとって「濱口竜介作品」は『ドライブ・マイ・カー』であり『偶然と想像』であり『親密さ』なのだ(『ハッピーアワー』は個人的にあまりハマれなかった)。

さてそういう、僕が先に観てしまっていた「濱口竜介作品」と比較すると、『PASSION』はちょっと微妙かなぁ、という気がしてしまう。映画としては面白いが、「濱口竜介作品」としては物足りない、ということだ。まあ、僕が勝手にハードルを上げているのであり、作品に罪はないのだが、僕の感触としてはどうしてもそうなってしまう。

でも、そういう色んなことを総合した上で、「観てよかった」と感じる映画であることは確かだ。

個人的に一番印象的だったのは、映画のラスト。ちょっとここから、映画のラストについて詳しく触れてしまうので、内容を知りたくない人はこれ以上読まないでいただけるといいかと思います。

以下、登場人物の漢字表記が全員分分からないので、全員カタカナ表記にする(果歩、智也、貴子の3人はネットで調べて見つけたが、それ以外は分からない)。

ラストシーンに出てくるのは、同棲していて結婚間近のカホとトモヤの2人。まずこの2人の紹介をしよう。

恐らく大学時代からの友人で、10年ぐらい付き合っている。昔からの仲間に結婚報告をし、祝福されるが、仲間内ではトモヤは「女にだらしない」と思われている。また、同じく昔からの仲間であるケンイチロウは、以前からずっとカホのことが好きだとみんなに知られている。カホは、ケンイチロウには全然興味がなく、周囲から「トモヤはカホを大事にしていない」みたいに思われていることをなんとなく察しつつも、それでもトモヤのことが好きで一緒にいたいと思っている。

さて、映画の中ですったもんだ色々あって、トモヤはカホに別れを切り出すことになる。別れを切り出したのはある日の朝なのだが、その前夜、トモヤは「好きになった女性」の部屋にいた。タカコという名のその女性は、自分にはまったく興味がないと分かっているが、それでもトモヤは、もうカホとは一緒にいられないと考えて別れを切り出すのだ。

一方カホは同じ夜、家にやってきたケンイチロウと朝方までずっと散歩に出かけていた。トモヤがタカコの部屋にいることを知ったケンイチロウは、その足でカホの元へ行き、「トモヤは今日は戻ってこない」と伝え、散歩しようと誘い出すのだ。ケンイチロウはカホに好きだと伝え、キスもするが、何度目かのキスをカホは断り、トモヤのいる部屋に戻ってきた。

さて、ラストシーンはそんな状況下で展開される。

トモヤがカホに別れを切り出した後で、カホは「嬉しい」とトモヤに告げる。トモヤはもちろん、観客も「は?」となるが、そこには彼女なりの理屈がある。

カホがトモヤに喋ったその理屈をざっと要約すると以下のようになるだろう。

<私は(ケンイチロウとの散歩から)帰ったら、あなたに「私を好きになって」と言おうと思ってた。自分が、トモヤの人生を食いつぶしてるんじゃないかって不安だった。だって、誰かを好きにならない人生は虚しいでしょ? 私はあなたの人生に責任を持とうって思ったの。けど、もう私は必要なかったんだね。トモヤに好きな人ができて、ここを出られるのが一番良いと思う。それをしたのが私じゃないってのはとても悲しいけれど>

意味が分かるだろうか? これは「共感できるか?」という意味ではなく、「理屈としては理解できるか?」という問いだ。「トモヤの人生が素晴らしいものになるには、『誰かを好きになること』が大事で、だから私を好きになってもらおうと思ってた。でも、好きな人ができたんならそれは良いことだと思う」とカホは言っているのだ。

恐らく、この主張に共感できるという人はそういないだろう。それは、僕が男で女性の気持ちが分からない、みたいなことではなく、たぶんだけど、女性もこのカホの感覚はかなり距離を感じるのではないかと思う。それぐらい、結構ぶっ飛んだことを言ってると思う。「自分のことを好きでいてくれるのか不安」みたいな感覚に共感できる人はいると思うけど、カホの主張の根幹はそこにはない。あくまで「トモヤが誰かのことを本当に好きになる人生こそ望ましい」と言っているので、そこにカホ自身の幸せみたいなものは含まれていないのだ。

そこまで完全に「自分の存在」「自分の幸せ」を無視した主張ができることがそもそも凄い。

ただ、普通に考えれば、こんな主張「本心」とは受け取れないだろう。そんなこと、本気で言う人間なんかいるわけない、と感じるのが普通の感覚だと思う。

ただこの映画の凄いところは、「カホは本心からそんなことを言っているように思える」という点だ。もちろんこれは観る人によって感じ方に差があるだろうが、僕はそう思った。全編を通じてカホという人物の描かれ方を見た時に、「最後にああいうことを言っても不自然ではない人物だ」という気がしてくるのだ。

個人的には、この点に一番驚かされた。脚本や演技など、様々な要素が絡み合ってそのような雰囲気が生み出されているのだろうと思う。

しかし、「ここで終わりだろう」と思った後にもう一展開あったので驚いた。正直、トモヤのあの行動は上手く捉えきれない。僕が、こうだったら納得できるという設定は、「トモヤはこれまでにも、あのラストシーンのようなことをカホに対して何度もしている」ということだ。それなら、トモヤの最後の行動にも理由が付く。しかしそうでないとしたら、あの行動は一体何だったのだろう?

タケシがある場面で、「自分で金を稼いでいない女の子が、あんな良い家に住んだら、そりゃあダメになりますよ」みたいなことを言っていた。この意見の真偽はともかくとして、似たような感覚でこの映画全体を捉えれば、「人間を許容しすぎる女の子が、あんなダメな男と関わってたら、そりゃあダメになりますよ」という感じになるかもしれない。カホにはカホなりの「幸せ」に対する考え方があるのだろうし、それは誰にも否定できないが、ただやはり、「カホが、客観的には評価が低いトモヤを選んでいる」という事実が、結果として5人の男女の運命を揺さぶっているように感じた。

さて、カホに関してはもう1箇所、印象的な場面がある。画的にも映画全体の中で異質な、学校のシーンである。

カホは中学校(だと思う)の数学の教師で、担任も持っている。で、彼女のクラスで自殺者が出てしまった。数学のテストを切り上げたカホは、「あなたたちの時間を少しください」と言って、「暴力」についての話をする。

映画を観ている最中は、この「暴力」の話が、映画全体の中でどんな役割を果たしているのかイマイチ理解できていなかったが、後から振り返ってみて自分なりに解釈できた。それは、「恋愛を暴力で喩えている」ということだ。これはなかなか異質な主張に感じられる。

カホの主張は、非常にシンプルだ。それは、「外(他人)からの暴力を止める手段はないが、内(自分)からの暴力は自分の意思で止めることができる。だから、暴力は受け入れ、赦すしかない」と要約できる。彼女のこの意見には様々な反論が出るが、カホは、「外からの暴力を止めるための行為もまた『暴力』であり、暴力に暴力で対抗する以上この世から『暴力』が消えることはない」「たとえ殺されたとしても、暴力は受け入れなければならない」と、生徒たちの意見にさらに反論する。「たとえ殺されたとしても~」という意見はなかなか過激ではあるが、僕は全体的に、カホの主張には賛同できる。理想主義的かもしれないけど、確かに「暴力を無くしたい」と考えるのであれば、「暴力に対して暴力を返さず、自分が害を被っても受け入れるしかない」という主張には、その通りだなと感じる。

しかし最後にある生徒が、「それ(暴力)しか選択できない状況もあると思う」と言い、それに続けて、「◯◯君(前の席に座る生徒)をさっきトイレで殴りました。◯◯君である必要はなかったけど、僕には、誰かに暴力を振るうという選択しかできませんでした」と主張するのだ。

これに対するカホの反応を一言で表現すれば、「絶句した」となるだろう。彼女はそれまでの威勢の良さを一気に失い、動揺し、教室から出てしまう。

この場面、映画全体の中で非常に浮いていると思うのだが、映画を最後まで観てから改めて振り返ってみると、なんとなく言いたいことが分かるような気がする。つまり、

<恋愛は暴力みたいなものだ>

ということなのだと思う。

「暴力」を「恋愛(恋心)」に置き換えてカホの主張を改めて確認すると、

<外(他人)からの恋心を止める手段はないが、内(自分)からの恋心は自分の意思で止めることができる。だから、恋心は受け入れ、赦すしかない>

となる。

なんとなくこれは、映画全体におけるカホの行動原理に思える。「自分の内側から出てくるトモヤに対する恋心は自分の意思で止めている」「ケンイチロウからの恋心は受け入れ、望んでいるわけではないキスも赦した」というように、「暴力」のところで説明した行動原理と同じようなスタイルで「恋愛」に臨んでいる、という気がする。

しかしそこに、生徒からの「それしか選択できない状況もある」という反論がくる。まさにこれが、トモヤからの「相手は自分に興味はないが、どうしても好きになってしまった」という告白と重なるのではないかと思うのだ。

つまり、カホの主観に立ってみた場合、「『恋愛』という名の暴力」に対峙している、ということになるように思う。これは、他の人にとってはそうではないという意味ではない。トモヤやタケシ、タカコにとっても、恋愛は暴力だと思う。しかし最大の違いは、「恋愛は暴力であるという自覚」を元から持っているかどうかだ。トモヤ、タケシ、タカコは、元々「恋愛は暴力だ」と考えていただろうし、ある種それを前提に会話がなされているように思う。しかしカホは恐らくそうではない。まったくそう思っていなかったというわけでもないだろうか、「恋愛は暴力なのだろうか?」ぐらいの疑問形のまま29歳まで生きてきた、という感じではないかと思う。そして、その暴力性に、初めてきちんとした形で対峙することになった、ということではないだろうか。

僕の解釈が的を射ているとして、そうなるとやはり、カホという人物が色んな意味で映画の中心であり、ある意味で「歪みの発生源」である、ということになるのだと思う。

普通に考えれば、この教室での「暴力」の話は映画全体の中で違和感でしかない要素だが、捉え方次第では非常に興味深いものになる。この多面性みたいなものも、非常に面白かった。

あと、そもそも状況を上手く言葉では説明できないので詳しくは触れないが、「本音ゲーム」のシーンはなかなか凄まじい。何が凄まじいって、タカコが最初に指摘する通り、「ゲームとしてそもそも成立していない」のに、なんだかかんだ無理やり「成立している感」を生み出してしまうその展開の妙みたいな部分だ。ルールから破綻しているのだが、「破綻したままギリギリの細さで成立している」という際どいラインを上手く渡っていく感じが、絶妙な緊迫感を生み出すし、先の読めなさを生み出しものする。この辺りの「脚本・演技・演出の上手さ」みたいなものは、『偶然と想像』でも感じたもので、成立し得ないだろう状況が何故か成立してしまうマジックを改めて見せつけられた気がする。

この映画には、『偶然と想像』にも出てくる河井青葉、占部房子、渋川清彦が登場する。『PASSION』を機に、濱口竜介作品の常連になったそうだ。『偶然と想像』での、渋さを増した3人も非常に良かったが、『PASSION』での若さ溢れる感じもとても良いと思う。



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