【映画】「最後の決闘裁判」感想・レビュー・解説
凄い世界観だ。確かに、1386年という時代であることを考えれば仕方ないが、これが「史実に基づく物語」であることにやはり驚かされる。
映画を観て、改めて強く実感させられたことは、「真実は『共同幻想』によって決まる」ということだ。例えば僕たちが生きている世界でも、「お金」や「ダイヤモンド」に価値があると感じるのは、「みんながそれに価値があると感じている」という「共同幻想」によるものだ。
この映画を観て驚くポイントは多々あるが、個人的にはこの発言には一番驚かされた。
【強姦では妊娠しない。
これは科学的事実だ。】
この発言は、裁判の場で出てきたものだが、この背景にどんな「共同幻想」があるのか、少し説明していこう。
この映画には3人の主人公がいる。騎士のカルージュ、カルージュの親友で従騎士のル・グリ、そしてカルージュの妻のマルグリットだ。そして、マルグリットがル・グリに強姦されたと訴え、カルージュがル・グリを訴える、という展開となる。
マルグリットはカルージュと結婚して5年が経つが子どもには恵まれずにいた。マルグリットは医師に相談するが、その際に「夫との行為に絶頂を感じるか?」という質問をされる。
どうもこの時代には、「性行為において女性が絶頂を感じることで受胎する」と信じられていたようである。
そして、この「共同幻想」こそが、先ほどの発言に関係する。強姦で絶頂を感じるはずがない。だから、強姦では妊娠するはずがない、というわけなのである。
現代的な視点からすればムチャクチャだが、僕はそのムチャクチャさよりも、「どうしてこんな『共同幻想』が生まれうるのか」を考えてしまった。
映画を観れば、恐らく誰もがそう判断するはずだが、たぶんカルージュとマルグリットが妊娠しなかった原因は夫・カルージュの方にある。しかし、「女性が絶頂を感じなければ妊娠しない」という「共同幻想」が存在すれば、「男のせいで妊娠しない」という結論になることはまずない。
だからこそ、「女性が絶頂を感じることで受胎する」という考えが信じられていたのだと僕は思う。
また、「共同幻想」という点で言えばもう一つ、この映画のモチーフである「決闘裁判」についても同じことが言える。
「決闘裁判」とは、文字通り、決闘の勝敗で裁判の決着をつけるというものだ。勝者の主張が正しく、敗者の主張は偽証であると見なされる。
これも現代的な感覚で言えばまったく理解不能だが、当時の価値観では成立していた。何故なら、「真実を語る者を神が守る」という考えがあるからだ。
ある場面でカルージュは、
【国王に上訴するのではない。神に上訴するのだ】
と発言する。これは要するに、「人間が裁く裁判ではなく、神の裁定にかける」ということを意味している。
我々から考えれば、「決闘に勝つか否か」と「主張が正しいか否か」には何の関係性もないのだが、「神」という存在を信じ、「神が『真実を語る者』を守ってくれる」という「共同幻想」が存在するならば、この「決闘裁判」は確かに成立する。
そしてこういう映画を観て過去の事実を知ることの大事さは、「今自分たちはどんな『共同幻想』の中にいるのか」について考える機会を得られることだ。
僕たちの視点からすれば、「強姦では妊娠しない」も「決闘で勝ったものの証言が正しい」も、どちらもイカれた主張にしか思えない。しかしそれが多くの人に受け入れられ、「正しさの基準」として成立していた時代があるのだ。
となれば、今僕たちが生きている時代の「共同幻想」も、500年後、1000年後の未来には、「2021年にはこんな『共同幻想』が信じられていたみたいよ」と揶揄される可能性だって全然ある。
「科学」というものが社会の中で力を持つまで、「共同幻想」を生み出すものは「宗教」だっただろうし、現代においても「男性優位の考え方」が何らかの「共同幻想」の基盤となっているだろう。
「普遍的な正しさ」なんてものも探せばあるのかもしれないが、パッとは思いつかない。「人を殺してはいけない」というのも、戦争になれば判断が変わる。やはり「共同幻想」次第で「正しさ」は変わるのだ。
だからこそ、自分が「正しい」と感じる時、それがどんな「共同幻想」の上に成り立っているのかを意識することは、より俯瞰的にその「正しさ」を捉えることに繋がるだろうし、仮にその「共同幻想」が崩れてしまった時にも、自分が依って立つ場所を見失わずに済むのではないかと思う。
内容に入ろうと思います。
1386年12月29日。フランスで法的に認められた最後の決闘裁判が行われた。妻を強姦されたカルージュが、かつて親友だったル・グリと闘い、真実を争うのだ。
物語は、カルージュ、ル・グリ、マルグリットそれぞれの視点で描かれていく。ここでは、カルージュの視点での物語に触れていこう。
カルージュとル・グリは親友であり、戦場で共に闘う戦友でもあるが、ベルム城塞の城主である父の元で代替わりを待つばかりのカルージュと違い、ル・グリは領主であるピエール伯に重用され、従騎士の身分でありながら重要な役割を与えられていく。一方カルージュは、国王を裏切ったことで知られているティボヴィルの娘・マルグリットを妻に迎えることに決める。持参金として、オヌー・ル・フォコンと名付けられた土地を含む一帯を譲り受けるはずだったが、何故かその土地はル・グリの所有となる。カルージュはその裁定に納得がいかず、領主であるピエール伯に訴えを起こすのだが、その行動が逆鱗に触れ、カルージュが予想もしていなかった報復を受けることとなる。
このような様々な事情があり、カルージュとル・グリは、「親友だった」と語るしかない関係へと変わっていく。
カルージュにとっては屈辱的とも言える出来事から1年が経ち、久々にル・グリと再会する機会があった。そしてその後、遠征のためにしばらく城を空けていたカルージュが戻ってくると、妻から驚くべき告白を受けるのだ。
ル・グリに強姦された、と。
ル・グリは領主の寵愛を受けている者であり、普通に裁判に訴えても意味がない。国王に訴えても同じだろう。そこでカルージュは、自らの命を賭けて決闘裁判に挑むことにした。
もしカルージュが負ければ、「マルグリットが強姦罪を偽証した」と確定することになり、マグリットは生きたまま火炙りにされる、という事実を隠したまま……。
というような話です。
凄い映画だった。
この映画を観て考えた「共同幻想」の話は冒頭で書いたから、別の話をしよう。
まずこの映画の特徴は、同じ話を3人の視点で描写し直すことだ。もちろんまるっきり同じという箇所は少ないのだが、同じ映像を使っている場面もある。
それぞれ、「カルージュの真実」「ル・グリの真実」「マルグリットの真実」と題され、それぞれの視点から「何が真実であるのか」を描き出していく。
この構成によって、ミステリ的な展開が生まれる、というわけでは決してない。確かに、「なるほど、あの場面でのあれは、別視点から見るとこうなのか」と感じる場面は多々あるが、決してミステリ的な意味ではない。
今から700年以上昔の話であり、同じ出来事を3人の視点で描写し分けることができるほど資料が残っているのか、つまり、どこまでが事実で何が創作なのかはよく分からないが、視点が異なることで見えているものは変わる、ということが浮かび上がる構成は面白い。
さらに圧巻だったのは、最後に描かれる決闘の場面だ。僕があまりフィクションの映画を観ないからそう感じるのかもしれないけど、メチャクチャ臨場感があって、ちょっと怖さを感じたほどだ。肉弾戦と言ってもいいような、身体と身体のぶつかり合いの闘いの緊迫感が、非常に良かったなと思う。
あと、個人的に驚かされたのは、「マルグリットが強姦されたこと」が法的にどう扱われるか、という解釈の問題。これは、「男性後見人への財産の損害」と見なされるのだという。つまり、マルグリット自身が訴えを起こせるわけではなく、「『妻という財産』を『損害』された夫のカルージュ」が訴えなければならない、ということだ。
これもまた「共同幻想」の為せる世界観だろうが、凄いと思った。
もう一つ。これは現代でも似たような状況はあるだろうが、「女の敵は女」という状況も、マルグリットには辛いだろうと感じた。特に、マルグリットの義母(つまりカルージュの母)がマルグリットに対して「一族の恥だ」という場面は、なかなかの胸糞の悪さだと思う。
中世ヨーロッパが舞台だが、現代にも通じる話であり、色々と考えさせられる映画だった。
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