【映画】「スティーブ・ジョブズ」感想・レビュー・解説
彼らにとって、“現実”というのは創るものなのだろう。
『僕はウォズと未来を作ってきた』
僕にとって“現実”とは、目の前にあるものだ。それは、自然と言い換えてもいい。もちろん、自然に介入することは可能だ。土砂崩れをせき止めたり、森林を伐採することは出来る。しかし、僕らに出来るのは、ただ介入することだけだ。自然を作り出すことは出来ない。風を起こすことも、北極の氷を作り出すことも出来ない。
それが僕にとっての“現実”だ。介入は出来るが、創り出すことは出来ない。
『僕は100%正しいし、君は大いに間違っていた』
しかし彼らは、“現実”を人工物のように捉える。ダムや線路と同じように考えている。作ろうと決めた場所に、それを作り出すことが出来る。街や空港のように、ここにこうあるべきだと信じる場所に創り出すことが出来ると考えている。
<現実歪曲フィールド>
ジョブズの側近の一人で、自らを“仕事上の妻”と呼ぶジョアンナが、ジョブズの現実認識をこう指摘する。現実を歪曲して捉える。目の前にあるものを、そのままの形ではなく、自分の望んだ形で受け入れる。そして、本来は妄想でしかないその歪曲した現実を、ジョブズは“現実”に作り替えてしまう。それをジョアンナは、<現実歪曲フィールド>と名付ける。
ジョブズもその存在を認めている。そして、その何が悪いのだとジョアンナに言う。ジョブズにとって“現実”とは、今目の前には存在しないものだ。常にジョブズにとっての“現実”は、彼の頭の中にある。
『100曲、1000曲、500曲。500曲から1000曲を、ポケットに入れてやる』
結局、“現実”は彼に追いつく。彼の頭の中にしかなかったものが、やがて“現実”として現れる。それを人々は魔術のように感じ、ジョブズを褒め称える。天才だ、と。
『君が何をやったというんだ。君はプログラムも書けない、デザインも出来ない、釘も打てない。Macは他人の業績だ。なのに何故ジョブズは、天才と言われるのか』
ジョブズは、自らをオーケストラの指揮者に喩える。バイオリンを弾くわけではない。ピアノを弾くわけでもない。それでもこのオーケストラは私のものだ、と。
『世界は永遠に変わる。世界の二大出来事だ。連合国の勝利と、今日の発表会だ』
ジョブズは、“夢”を見せる天才だ。いや、ジョブズ以外のすべての人間にとって“夢”でしかない世界を見せる天才だ。ジョブズにとってそれは“現実”以外の何物でもない。だって、俺がそれを創り出すんだから、と。
ジョブズは、成功していなければただのクズだ。会社に利益をもたらしたAppleⅡをB級とこき下ろし、発表会までに修理しなければプレゼンでお前をバカにするぞと脅し、そして、娘を認知せず、娘の母親をまるで娼婦であるかのように世間に印象づけた。娘とその母親は、生活保護を申請している。
『これで何をするの?これでみんな大騒ぎ。わからないわ』
ジョブズは、ジョブズが生み出した製品が世界を変えるという確信を持っていた。必ず受け入れられると。世界のすべてが変わると。
しかし、ここで言う“世界”とは、一体なんだ?
『リサという娘はいない』
ジョブズは、妄想を現実に変えたのではない。相手に見せた夢を実現させたのではない。ただ、自分の妄想が、夢が成立する“世界”を生み出したのだ。「アップル社が世界を変える」ことが成り立つ“世界”そのものを生み出したのだ。
『君は何年もの間記者を取り込み、情報を操った。悪いことを書かせないようにした』
確かにジョブズは、世界を変える革新的な製品を生み出したのだろう。ジョブズが、一歩も引かない決意で技術者に口を出し続けなければまず生み出されなかったような製品だ。生み出した物それ自体も素晴らしいのだろう。
しかし、僕はアップル社の製品を一度も使ったことはないが、こんな話を聞くことがある。アップル社の製品を好んで買う人間は、そこにどんな欠陥があっても、アップル社の製品だからという理由で買い、使い続けるのだ、と。
それこそ、ジョブズが“世界”を作ったことの証左であろう。彼は、“世界を変える製品”を作ったのではない。“自らが生み出した製品によって変わる世界”を生み出したのだ。
『改造はさせない。
ディランは作詞に、ファンの意見は求めない。スロットは二つで十分だ』
ジョブズがAppleⅡをB級と罵るのには理由がある。AppleⅡは、初期のアップル製品の開発者で、天才的なエンジニアだったウォズニアックが生み出したが、ウォズニアックはオープンシステムを強く主張した。誰もがコンピュータの中を開け、改造できる仕様にすべきだと。エンジニアであるウォズニアックは、そのオープンシステムこそが消費者のニーズであると訴えた。他の製品と互換性があり、自分の好きなようにカスタマイズ出来る。それこそが魅力なんだと。
しかしジョブズは、ウォズニアックのこの主張を一切聞き入れない。
何故ならオープンシステムは、“自らが生み出した製品によって変わる世界”を生み出すための障害にしかならないからだ。
『君の欠陥を反映させたマシンを作るつもりはない』
ジョブズは、自分の製品が受け入れられる世界を創り出すために生きた。ジョブズの目的は、人々が望んでいる製品を生み出すことではなかった。魅力的な製品を世間に受け入れてもらうことでもなかった。
ジョブズが望んだことは、人々が望んでいなかったことを、まるで望んでいたかのように錯覚させる魔法を掛けることだった。
『今日はMacの日だ。そしてMacは僕のものだ』
そう考えれば、何故ジョブズが娘とその母親を冷たくあしらうのかも理解できる。ジョブズは、あらゆる要素をすべてコントロール下に置いて“世界”を創造しようとする。会社の人間は、すべてコントロール出来る。出来るとジョブズは思っている。しかし、娘とその母親はコントロール出来ない。自分の思い通りにならない。それが、“世界”を生み出すのになんの関係もないものであれば、ただ無視すればいい。ウォズニアックが、再三ジョブズに対して、発表会でAppleⅡのチームに謝辞を述べろと言っても無視したように。しかし、娘とその母親の存在は、“世界”を生み出すのに支障を来たす。コントロール出来ない存在なのにコントロールしなければならない。その苛立ちが、彼女たちに向けられるのだ。
ジョブズは徐々に、コントロール出来ない存在である娘を受け入れていく。受け入れていくように僕には見える。『僕は出来損ないだ』 それは、ジョブズが、コントロール出来ない現実の存在を初めて受け入れた瞬間に見えた。
『Lisaで描いた絵を、よく覚えている』
僕が冒頭で“彼ら”と書いた理由に触れよう。
それは、僕の近くにもいるからだ。ジョブズのように、“現実”を創れるものだと思っている人物が。僕はジョブズを見ながら、その人物のことを強く連想した。
もちろん、様々な点で違う。だが、「“現実”とは創り出すものだ」という大前提が、その人の性格や人間性や行動のすべてを司っている、という点が共通している。どう発露するかという違いがあるだけで、根本的には同じ人種である。
僕は、「“現実”とは創り出すものだ」とは、どうしても思えない。一生、そう思えることはないだろう。僕は、その事実をきちんと認識した上で、前に進んでいこうと思う。
非常に面白い構成で作られている映画だ。
この映画は、3つの新作発表会の舞台裏のみで構成されている。
1984年。Apple社でのLisaの発表。
1988年。Appleを追われたジョブズが新たに設立したNeXT社でのCubeの発表。
1998年。復帰したApple社でのiMacの発表。
発表会でのプレゼンのシーンもない。あくまでも、発表会直前の舞台裏での、ジョブズの周囲の人間との関係性のみで構成されている。
舞台裏で主に関わるのは6人の人物だ。
ジョアンナ。前述した、ジョブズの側近だ。基本的には、ジョブズの調整役という形で登場する。発表会前で会うべき人物を差配し、ジョブズからの指示を他の者に伝え、時にジョブズを窘める。ジョブズがNeXTに移った時もジョブズの側近として働いている。右腕中の右腕だ。
ジョブズは、ジョアンナの言うこともほとんど聞かない。ジョアンナの方でも、そのことは分かっている。分かっていて言わなければいけないことはあるが、ジョアンナは基本的にジョブズに惚れ込んでいる。ジョブズのやりたいことを実現させるために奔走する。
しかし時に、これだけは譲れないと激しくジョブズに食って掛かる。ジョアンナのこの優れたバランス感覚がなければ、皆が崇拝する“スティーブ・ジョブズ”の伝説は存在しなかったかもしれない。
クリスアンと娘のリサ。ジョブズはリサを認知しない。裁判で決定した385ドルの養育費だけは払っている。資産価値4億1000万ドルの男の娘が生活保護なのよ、とクリスアンはジョブズを罵る。二人に何があって、どうして問題がこじれてるのか、その点は描かれない。ジョブズは常に自信過剰で他者を尊重しないが、特にクリスアンと対峙する時のジョブズはクズだ。どちらの言い分に理があるのか、それは二人にしか分からないだろう。しかし、ジョアンナはジョブズに、クリスアンにも問題はあるかもしれないが、どう考えても悪いのはあなた、と言っている。
リサとの関わりは、クリスアンのとはまた違う。ジョブズがリサをどう思っているのか、それはやはり最後まで分からない。しかし、リサには歩み寄ろうという姿勢が見える。ジョブズが問題にしているのはクリスアンだけであり、リサには恐らく恨みはない。とはいえ、ジョブズのリサに対する態度も、基本的にはどうしようもない。
ウォズニアック。コンピュータを作る会社をガレージで起業した時からの友人であり、天才的なエンジニアとして革新的な製品を生み出し続けてきた男だ。ウォズニアックは恐らく、この映画の冒頭、1984年時点で既に、Apple社を離れているかもしれない(正確なことはこの映画だけからは判断できないが、昔読んだノンフィクションの記憶では、ウォズニアックは早い段階でApple社から離れていたように思う)。ウォズニアックが発表会にやってくるのは、純粋に友人として、そして、ジョブズという“狂気の男”に忠告できる数少ない人物としてだろう。
ウォズニアックは徹頭徹尾、AppleⅡのチームへの謝辞を述べろと忠告する。AppleⅡは、アップル社の利益を稼ぎだした素晴らしい製品だ、と。しかしジョブズはそれを一刀両断にする。検討する余地もない。AppleⅡは過去のものだ。もう終わった、と。
スカリー。ジョブズが、パーソナルコンピュータという、当時で言えばまだ誇大妄想に過ぎなかったビジョンを実現させるために、コカ・コーラ社から引っ張ってきた人物だ。ジョブズとウォズニアックの背後からApple社を支え、そして“Apple社からジョブズを追い出した男”と記憶されている人物だ。彼もまた、手に負えないジョブズという怪物をなだめるために登場する。しかしスカリーがジョブズを追い出したことで関係は悪化。悪いのは自分以外のすべて、とい価値観の持ち主であるジョブズは、自分がApple社を追い出された理由をすべてスカリーの策略と断じてなじる。
アンディ。Apple社の中でも恐らく相当の技術者なのだろう。一番最初に描かれる発表会で、デモ機に発生する致命的な欠陥を、発表会開始までに絶対に直せと脅される人物だ。技術者としての関わりだけかと思いきや、後半で思わぬ登場の仕方をする。
発表会の舞台裏のみ、という制約の中で、これほどまでに見事にスティーブ・ジョブズという怪物の輪郭を描き出すのは見事だ。この映画は、恐らくフィクションだろう。3つの発表会の舞台裏で、実際にこの映画で描かれた通りのことが起こっていたとは、ちょっと思えない。それはあまりにも出来過ぎている。しかし、この映画が、ノンフィクションではなく創作であるからと言って、その価値が下がるわけではない。むしろ、フィクションとしてスティーブ・ジョブズを描き出したことで、よりスティーブ・ジョブズという人物の輪郭が浮き出る構成に仕上げることが出来たのではないかと思う。実在した人物を、実際にあったわけではない(だろう)出来事によって描き出すという試みは、斬新で魅力的だと感じた。
一つ気になることがある。この映画は、僕の受け取り方では、「ある程度はスティーブ・ジョブズについて知っている」ことを前提にしているように思う。この映画では、3つの発表会の舞台裏で起こる“今”に焦点が当たっている。だから、スティーブ・ジョブズがどんな生まれで、どう起業し、どんな人間の手を借りて成長し、何故会社から追い出され、そこからどうAppleに返り咲いたのか、ざっくりとでも知識がないと、“今”の描写で埋め尽くされたこの物語にうまくついていけないかもしれない、と感じた。もちろん、スティーブ・ジョブズについてさほど知らなくても楽しめる映画だろうが、作り手側がある程度、観客に知識があるはず、という前提で作っているように感じられた。
僕はこれまで、Apple社やスティーブ・ジョブズに関する本を三冊読んだことがある。「iCon Steve Jobs―スティーブ・ジョブズ 偶像復活―」「アップルを創った怪物 もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝」「アップル・コンフィデンシャル2.5J」 読んだのが大分昔だからきちんと覚えているわけではないけど、その三冊を読んだ経験が、この映画を見るに当たって補完的な役割を果たしたように思う。僕はApple社の製品を使ったことはないから、製品的な知識は必要ないと思うけど、スティーブ・ジョブズ本人については、多少知っている方が面白く見れるのではないかと感じた。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただけると励みになります!