【映画】「私たちの話し方」感想・レビュー・解説
これはメチャクチャ興味深い作品だったなぁ。ホントに、まだまだ知らない世界は色々あるものだなと思う。
本作は、「ろう者(耳が聴こえない人)」の物語である。僕はこれまでも、ろう者を扱った作品は色々観てきた。『無聲』は、「聴者」と「ろう者」の間の物語で、取り上げ方としてはシンプルである(内容はかなりハードだが)。『私だけ聴こえる』というドキュメンタリー映画では、初めて「コーダ」という存在を知って驚かされた。コーダとは「ろう者のコミュニティ(家族など)の中で、自分だけ聴者である人」を指す。コーダという存在も知らなかったし、そのコーダが色々と大変な想いを抱えているなんてことも知らなかった。
あるいは最近では、『みんなおしゃべり!』という映画も観た。どちらも「消滅言語」と呼ばれる「手話」と「クルド語」を使う2つのコミュニティが商店街の中で対立するという話で、これもまた、「ろう者」を違った形で取り上げる作品だったなと思う。
また、僕が観た回は監督のトークイベント付きだったのだが(全然知らずに観に行ったが、チケット予約の際に結構埋まってるなと思ったので、恐らくトークイベントがあったからだと思う)、監督が本作の音響で参考にしたと挙げていたのが『サウンド・オブ・メタル』だった。これは、元々聴者だったドラマーが突然難聴になりろう者のコミュニティと関わらなければならなくなる物語で、確かに監督が言っていたように、サウンドデザインが印象的だった(難聴者の聴こえ方を再現するような音響)。
で、本作『私たちの話し方』でも、また全然違った形でろう者が描かれていて、非常に興味深かった。本作では、「ろう者同士の断絶」が描かれる。
いや、「ろう者同士」と表現するのは、少なくとも表面上は正しくはない。何故なら、一方は聴こえるが、一方は聴こえないからだ。というわけで、その辺りの説明も含めて、まずは内容の紹介をしようと思う。
ソフィーは幼い頃に聴力を失い、そして6歳の時に人工内耳手術を行った。音量をただ大きくするだけの補聴器とは違い、人工内耳は音を電気信号に変換して蝸牛に伝えるものである。すべてのろう者に合うわけではなさそうだが、上手く適合すれば、かなり聴者に近い聴こえ方になる。ソフィーは手術後、母親と二人三脚で頑張って口語を学び、優秀な成績で大学を卒業した。また、人工内耳アンバサダーにも就任し、人工内耳を広める活動を行っている。
そして同じく人工内耳アンバサダーであるアランは、聴者の中でカメラマンやデザイナーとして働いている。しかしそんな彼は、聴こえるし口語も使えるのだが、今も手話が使える。そこには、小学校時代からの友人であるジーソンの存在があった。
メインとなる物語の舞台は2024年だが、本作では度々2005年を舞台にした物語が挿入される。アランとジーソンがろう者の小学校に通っている姿が映し出される。世界的になのか、あるいは香港でなのかはよく分からなかったが、2005年当時、香港では「手話禁止」という方針が取られていたという(その5年後の2010年に、手話を復権するという宣言がなされたようだが)。口語を学び、聴者の世界でも自立できるようにするためだ。2005年時点ではアランはまだ人工内耳手術を受けていなかったが、その予定は決まっていた。しかしジーソンは、手話が禁止されている学校で手話ばかり使っていて怒られていたし、当然、人工内耳手術を受ける予定もなかった。幼いジーソンは、家族とずっと昔から手話でコミュニケーションを取っていたし、だからどうして禁止されるのか理解できず苛立っている。そしてそんなジーソンが、アランにとっての「手話の先生」なのだ。
幼いアランはジーソンと約束した。人工内耳を入れても、手話を使い続けると。
ある日、ソフィーとアランがアンバサダーを務める人工内耳の集まりがあり、そのスタッフとしてジーソンも参加していた。登壇し、スピーチを行ったソフィーはそこで、「科学の進歩によって、ろう者をゼロにすることが出来る」と発言した。その発言が字幕表示された途端(当初は手話通訳者が配置される予定だったが、当日になって何故かキャンセルされた)、ジーソンは立ち上がり激昂する。手話が出来ないソフィーには何を言っているのか分からなかったが、その怒りは伝わった。ジーソンは、「ろう者であることに誇りを抱いている」と訴えたのだ。
こうして、「保険会社の数理士を目指してアシスタントとして採用されたソフィー」「ダイビングスクールを開くための資金集めと資格取得を目指すジーソン」「そんな2人の間にはいるアラン」の3人の「ろう者同士なのに分かり合えない関係」が始まっていく……。
本作で最も大きく変化するのはソフィーなのだが、彼女は当初「ろう者」という言葉を「聴こえない人」という意味で使っている。「聴こえない=手話を使っている=ろう者」「人工内耳を入れているから聴こえる=口語も使える=ろう者じゃない」というわけだ。しかし彼女は色んな経験をする中で、母親から「今さらろう者になるつもり?」と聞かれて「私もろう者なのよ!」と返す場面がある。ここには「『普通の人』になるハードルの高さ」への実感が関わっているのだが(「普通の人」という表現はソフィー自身が使っている)、要するに「聴こえようが聴こえまいが、『普通の人(聴者)』でなければろう者である」という認識に変わっていったのだろう。
本作にはこのような側面があるので、「ろう者同士断絶だが、そうではない」みたいな表現を使った。
個人的にそもそも驚かされてしまったのが、「手話が禁止されていた」という点だ。日本ではどうだったのか調べてみたのだが、どうやら状況はそう大差ないようで、「1990年代に少数のろう学校で手話が導入され、2000年以降全国に普及していった」のだそうだ。マジか。ちょっと驚きなんだけど。そもそも、本作の大前提となるような事実さえまったく知らなかったので、初っ端から驚かされてしまった。
さて、上映後のトークイベントの中で、「『ろう者のアイデンティティの確立』というテーマで作品を作ることになったきっかけは?」という質問に対して監督が、「ダイバーが海中で手話を使ってコミュニケーションしているシーンの脚本を読んだこと」だと話していた。この時に監督は、手話が「音声言語の代替」ではなく「状況に合った最適なコミュニケーション手段」だと感じたのだという。そしてそこからろう文化に興味を持ち、この映画が完成したというわけだ(ちなみに監督は聴者である)。
「手話が禁止されていた」という状況が存在するからこそ、「ろう者なのに手話が使えない」みたいなことが起こり得る(この記事では「ろう者」を特に定義しないので、状況に応じて適宜読み取ってほしい。ここでは人工内耳を使っているソフィーのような人も含め「ろう者」としている)。ソフィーは母親からも手話を禁じられていたようで、「人工内耳をつけた後は、テレビの同じ場面を繰り返し見せられ、その発音を正確に真似する」みたいな訓練をさせられたそうだ。「間違えるとハンガーで叩かれた」とも。
もちろんそのお陰でソフィーは大学へ進学し、高度な学問を学べ、トップクラスの保険会社に就職することが出来た。作中でジーソンが友達の話として、「大学に進学したが、通訳を付けなかったから授業についていけず退学した」みたいなことを言っていた。耳が聴こえず、手話も禁じられているとしたら、勉強や進学はかなり難しいだろう。
だからソフィーは、人工内耳手術をして母親から厳しい訓練を受けて口語を学んだことに感謝している(と思う)。人工内耳アンバサダーとしてメディアや公演で話す際、「人工内耳のお陰で、私は普通の人になれました」と語っている。
が、それは本心であり、そして本心ではないだろう。
「監督が、『サウンド・オブ・メタル』の音響を参考にした」という話は既にしたが、本作『私の話し方』でも、「各人の聴こえ方」を再現するような演出がなされている。ジーソンはまったく聴こえないから無音になったりするし、あるいはアランやソフィーが人工内耳を外した時にも無音になる。一方、アランやソフィーは人工内耳のお陰で聴こえるので、聴こえ方もそのままなのだが、しかしその中には「電子ノイズ」みたいなものが若干混じる。機械で電気信号に変換しているから、人工内耳がない場合とは少し聴こえ方が違うのだと思う。さらに、「周囲の雑音が大きい場合」や「人工内耳の調子が悪い時」などは、さらに聴こえ方が悪くなる。
で、ソフィーの場合は特に、あまり良い聴こえ方ではない。もちろん彼女は「聴者の普通」が分かるわけではないので、「そういうもの」として受け取っているかもしれないが、環境音が大きい場合の聴こえにくさはやはり強く感じているだろうし、「聴者と同じようには聴こえていない」ということは常に実感させられているのだと思う。
そういう意味で、やはり「普通」ではない。
しかしより深刻だったのは、就職した会社での扱いだろう。色んな場面で細かく「ソフィーが感じた違和感」が提示されるのだが、彼女はとにかく「どれだけ聴こえようが『普通の人』とは扱われない」という現実に何度も直面させられることになる。
これは、かなりキツかっただろうなと思う。彼女が「マスコットみたい」と口にする場面があるのだが、まさにその通りだろう。
そういうこともあって彼女は手話に親しむことになる。そしてそれによって彼女は「ろう者としてのアイデンティティ」を確立していくことになるのだ。
僕が昔何かで知って気に入っている「サピア・ウォーフの仮説」というものがある。これはざっくり言うと「言語が思考を規定する」みたいな話だ。例えば分かりやすい例だと「虹」がある。日本だと虹は7色だが、言語体系によって4色から8色まで様々存在するようだ。日本語では7色ということになっているから僕らは虹を7色のものとして見るが、言語が違えば物事の見え方も変わってくるというわけだ。
で、このように考えた場合、「口語」と「手話」とでは思考そのものも変わると考えられるのではないかと思う。別にどちらが良いという話ではない。ただ、自分に合う思考の言語世界で生きていられる方が幸せだろうとは思う。
以前何かで、「未来とか過去という概念が存在しない言語を使う部族」が紹介されていた。時間の概念もないそうで、我々の言葉でいう「今」しか存在しないのだそうだ。だから「悩み」もないという。悩みというのは結局「未来に起こり得る不安」や「過去の後悔」である。そして未来も過去もないのだから悩みも生まれ得ないというわけだ。
これは極端な例だが、どの言語体系にいるかによって思考も感じ方も価値観も変わるだろうし、そしてその差は恐らく「口語」と「手話」の間にも存在するのだろうなと感じた。
ソフィーにはもちろん「人工内耳がなければ聴こえない」という機能的な問題が存在するわけで、そういうこともあって「手話」に馴染んだという側面ももちろんあるだろう。しかしたぶんそれだけではないはずだ。作中で彼女は「昔は手話を粗暴な言語だと思っていたけど、今では素敵だと感じる」みたいなことを言っていた。やはり「手話」という言語が持つ特性や、それを使う人たちが生み出す世界がソフィーに合っていたということなのだろう。
そしてそのように考えると、「聴者であっても、手話でのコミュニケーションの方が向いている人もいるかもしれない」とも考えられるだろう。「手話」は「聴こえないから仕方なく使うもの」というわけではなく、「独自の利点を持った1つの言語体系」というわけだ。そういう視点で捉えると、本作もまた違った見え方になるのではないかと思う。
正直僕自身も、手話を「聴こえないから仕方なく使うもの」程度に認識していたので、自分の中のそういう認識がガラッと変わったという意味で、非常に興味深い作品だった。
さて、もちろん手話にも限界はあるだろう。作中で印象的だったのは、まだ手話を学ぶ前のソフィーがアランに「手話って何でも表現できるの? 例えば『インフレーション』とか?」みたいに言っていたことだ(僕は宇宙論的な話かと思っていたのだが、恐らく経済用語の方だろう)。普通に考えて、「音声言語に存在するすべての単語」について逐語的に手話が存在するとは思えない。どうしてもカバーし切れない部分はあるだろうなと思う。
ただ一方で、「手話にしかない概念」があったりするのかな? とも思う。例えば「ろう者同士なら誰でも共感できる出来事・感覚・価値観」みたいなものは、音声言語に当てはまる単語が存在しないケースもあるだろう。例えば、映画『PERFECT DAYS』の中で「『木漏れ日』という言葉は日本語にしかない」みたいな話が出てきた気がする。こんな風に「ろう者同士にしか伝わらない単語」みたいなものがあるとしたら、それはそれで面白いなと思う。
ちなみに僕は、日本語以外の言語には興味はない。というのは、「日本語での言語化能力が高い」からだ。英語でも何でもいいが、今僕が日本語で思考出来るのと同じレベルまで何かの外国語を習得することはまず不可能だろう。そしてそこまで達することが出来ないなら、学んでも仕方ないという感じがする。日本語での言語化能力がもっとずっと低かったら「外国語でも習得しようか」みたいな発想になっていたかもしれないが、恐らく僕は今後も日本語だけで思考しコミュニケーションを取るだろう。
さて、トークイベントの中で「メインの3人の内、少なくとも1人はろう者を入れたいと考えていた」という話が出てくる。ただ香港には長編映画に出演したことのあるろう者の役者がいなかった(少なかった)そうだ。で、本作ではアランを演じた役者がろう者なのだが、彼は本作で演技初挑戦なのだそうだ。ちょっとこれは驚いた。全然そんな風に見えなかったからだ。いや、お見事だった。
ソフィーを演じた役者は最初から少し手話が出来たそうだが、ジーソンを演じた役者はゼロからだったそうで(しかし作中では「最も手話が上手い人物」でなければならないから大変だ)、よくやったものだなと思う。
あと、トークイベントの中で「監督は実は日本とも縁が深くて」と言って紹介されたのが、「映画『風立ちぬ』の広東語吹き替えの声優を担当した」という話である。恐らく主人公の声を担当したのだろう。日本語だと庵野秀明が主人公の声をやったわけで、それもあって「主演の声をやるのは各国の映画監督」みたいな感じだったのかなぁ。詳しい話には触れられなかったのでよく分からないが、何とも変な経歴である。
あと、マジでどうでもいいことだが、光合成の授業が行われている際の字幕で「緑葉体」という表記があったのだけど、「葉緑体」じゃないか? と思った。ただ、そんなわけ分からん誤植もないだろうから、「香港では『緑葉体』って表記」みたいなことだったりするのだろうか?(僕の見間違いではないと思うんだよなぁ) まあ、マジでどうでもいいけど。
そんなわけで、非常に興味深い作品だった。「ろう者同士の間にも断絶がある」という現実はちょっとビックリだったし、そういう現実を踏まえた上で、様々な考えさせる物語になっていたのはとても良かったなと思う。
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