【映画】「ミーツ・ザ・ワールド」感想・レビュー・解説
メチャクチャ良かった。そりゃあ良いよなぁ。杉咲花だもんなぁ。松居大悟だもんなぁ。そりゃあ良いに決まってる。
しかし、本作『ミール・ザ・ワールド』は、「そこら辺の若手俳優」(という言い方は失礼だが)が演じていたとしたら、絶対に面白くなっていないだろう。それぐらい、ストーリー的にはシンプルで、ストーリーそのものが持つ力はそう強くないように思う(ただ、原作が金原ひとみなので、小説で読めば受け取り方はまた変わるだろう)。だからこそ役者の演技が圧倒的に重要で、そこに杉咲花がスポッとハマることでメチャクチャ良い映画になっている。杉咲花以外にも成立させられる物語かもしれないが、本作をちゃんと成り立たせられる女優はそう多くはないだろう。そんなわけで、とにかくまずは何よりも杉咲花が素晴らしかった。
何が良かったのかというと、本作の場合、南琴奈演じるキャバ嬢のライに対して、「あなたみたいな顔に生まれたかった」「あなたのような人生を生きたかった」と口にするのが、杉咲花演じる由嘉里であり、そんな由嘉里をちゃんと成立させているところが素晴らしい。杉咲花だってもちろん綺麗な人で、だから「あなたみたいな顔に生まれたかった」みたいなセリフは、普通にはなかなか成立しないように思う。けど杉咲花はちゃんと「容姿を含めた自分自身にまるっと自信が持てない人」みたいな雰囲気を醸し出していて、だから「あなたみたいな顔に生まれたかった」みたいなセリフが違和感あるものに聞こえないのだ。これは結構難しいことだと思うのだけど、そんなの全然余裕で成立させられちゃうような人って感じがするし、だから安心しながら見ていられた。
で、演技に絡めて、全体の雰囲気としてもう1つ良かったところを先に挙げておくと、ライの「死にたい(生きていたくない)」という言葉を言葉通りに受け取る者たちの物語である、という点だ。
映画冒頭は、由嘉里とライが歌舞伎町(だよな)で出会うシーンから始まるのだけど、その直後ぐらいにはもう、ライは由嘉里に「私死ぬから」みたいな話をしている。当初由嘉里は、「美人なのにそんなこと言って」と、ライのことを「美人なんだから人生楽しいでしょ。だから『死にたい』みたいなのも、なんかそんな風に言ってるだけなんでしょ」みたいに感じていた。しかし割と早い段階でライのその言葉を真剣なものだと受け止め、そして思い悩むことになる。
そしてそれは由嘉里に限らない。彼女の周りにいる人たちも皆、ライの「希死念慮」を言葉通りに受け取っていて、そしてそれをある種「当然」のものとして受け止めている。まず大前提として、この雰囲気が凄く良かったなと思う。
僕も昔は結構「死にたい」とか思ってた人間で(今も別に、積極的に生きたいと思っているわけではないが)、で、そういう話を「なんてことない話」みたいな雰囲気で話してみることもあったのだけど、やはりその場の空気的に、ちょっと変な感じになってしまう。敢えて言語化してみると、「お前、そんなこと言うなよ」的な雰囲気だろうか。そういう話は昔友人からも聞いたことがあって、「私はただ『死にたいと思っていること』についてフラットに話したかっただけなのに、そういう話をすると『えっ、なんでそんなこと言うの?』『死ぬなんて言わないでよ!』みたいな反応になっちゃった」と悲しそうに話していた。
「多様性」って言葉が割と当たり前に使われる現代ではまた雰囲気は変わっているかもしれないが、とはいえやはり、「死にたい」みたいな話は「フラットに受け取ってもらう」のが難しいものだろうなと思っている。
だからそもそもだけど、ライの周りにいる人間のスタンスはとても良いなと感じた。由嘉里はちょっと違うスタンスではあるが、他の人は「否定するでも肯定するでもない」感じでその話を受け入れている。また、由嘉里は由嘉里で、彼女なりのやり方でライの真剣さに向き合おうとしている。個人的には、「『死にたい』って気持ちをこんな風に受け止めてくれる」っていうだけでちょっとだけ救われる感じがあるし、ライも、そういう人が周りにいたから生きていられた、なんてこともあったりするんじゃないかなと思う。
で、本作ではこの「ライが抱く希死念慮」がベースとなって、色んな人たちの人生観が炙り出されていくことになる。一番印象的だったのは、新宿ゴールデン街にあるBAR「寂寥」で出会ったユキだろう。彼女が語る人生や、その人生から導き出される哲学的な思考は、どれも決して楽しくも明るくもないのだが、しかし彼女の存在はどことなく「ある種の希望」に見えたりもする。それは、「それでも生きていられるんだ」みたいに感じられるから、かもしれない。
ユキはなんとなく「深い穴の底にいる人」みたいな感じがして、「社会のどこに立っていられる人」なのか全然想像もつかない雰囲気があるのだが、しかしそれでも生きている。もちろんそれはフィクションの世界の話であって、その「それでも生きている」は虚構なのだけど、でもユキの存在になんとなく励まされるみたいな人はいるんじゃないかと思う。
そして、そんなユキと関わりを持ちながらも踏ん張れないのがライであり、そしてそんなライにとっての「踏ん張り」になろうと奮闘するのが由嘉里なのである。
ユキがこんな風に口にする場面があった。
【永遠に見てる世界を共有出来ないって思った。】
これは、ユキが元夫からある言葉を掛けられた際の実感であり、元夫のその言葉は基本的には「良いもの」として受け取られるはずだ。由嘉里も、直接伝えはしないけど、ライに対してそう伝えたい気持ちを持っている。しかし、そう言われたユキは「永遠に見てる世界を共有出来ない」と感じたというわけだ。確かに、僕としてもその気持は分かるなぁ、と思う。
由嘉里とライもきっと同じで、「永遠に見てる世界を共有出来ない」関係だったのだと思う。ライがあまりにも「常識的なこと」から離れすぎてしまっていて、だからそれは全然由嘉里のせいではないのだけど、でも由嘉里はどうにかライの世界に近づきたいし、その世界で生きたいと考える。その切実さが印象的だった。
そしてそんな切実さを間接的にリアルに見せているのが、「由嘉里が腐女子である」という設定だ。正直、この設定は「由嘉里がこれまで恋愛したことがない」という事実に説得力を持たせるだけのためのものかと思っていたのだけど、割とそうではなかった。ある意味では、由嘉里の行動原理を規定するものだと言っていいと思う。
別に腐女子であることに意味があるわけじゃなくて、「2次元の対象を全力で推せる」というオタク的な側面こそ大事なのだけど、彼女はまさに昔から「永遠に見てる世界を共有出来ない」相手に自身の全力を注げる人だったのだ。由嘉里がどれだけ愛情を注いでも、推しが見ている世界が見れるわけではない。それらはすべて誰かの、あるいは由嘉里自身の妄想でしかないからだ。
しかしそれでも由嘉里は、そんな対象に全力を注ぐことが出来る。というかもはやむしろ、そういう人にしか全力を注げないのかもしれない。そしてだからこそ由嘉里は、ライに惹かれたんじゃないかと思う。
本作では、「27歳になって慌てて婚活を始めた」という由嘉里が、職場の同僚がセッティングしてくれた合コンで出会った男性と食事をする場面がある(その男役がなんと令和ロマンの高比良くるまである)。彼女は最初こそ男の話を聞いていたのだが、しばらくして目の前に推しのキャラクターを思い浮かべて、男の話を何も聞かなくなっていく。これは、「目の前の男に興味がない」という描写でもあるだろうが、同時に、「見てる世界がある程度共有出来てしまって余白がない」みたいに感じてるみたいなことでもあるんだろうなと感じた。だから、余白があって想像の余地がある推しの方が良く感じられるのだろう。
そして同じことがライにも言えるのだと思う。由嘉里はライと同じ部屋で住むことになったのだが、そうやって空間を共有していても、ライの世界をまるで共有出来ない。ある場面で彼女は、次のように話していた。
【ライの部屋が最近苦しいの。水の中にいるみたい。私は空気を求めているのに、ライは全然そんなもの必要としているように見えない。肺呼吸とエラ呼吸の違いみたいな。】
由嘉里は27年間恋愛をしてこなかったと言っていたし、それは恐らくだが、「惹かれるようなリアルの存在に出会わなかった」ということなのだと思う。とすれば、ある意味ではライが初めてそういう対象だと言えるかもしれない。そしてもしも、僕の想像通り、「由嘉里は『見てる世界が共有できない』からこそ惹かれている」のだとすれば、彼女は特段恋愛を必要としない人なのだという気がする。彼女自身もざっくりそういう結論にたどり着いてる感じがあって、だから紆余曲折あって結果としては良かった、みたいに言えるかもしれない。
さて、一方のライの方だが、本作でははっきりと明確には「何故死にたいと思うのか?」の説明はなされなかったと思う。ただもちろん、「きっとこれなんだろう」という理由的なものは提示される。そしてそれは、ある意味では由嘉里が抱えているもの、つまり「分かり合えない存在同士だから惹かれるし、でも辛い」みたいなことに近い感じがする。
そしてライはたぶん、一旦「ぶっ壊れてしまった」のだと思う。
本作では「実験」というフレーズが印象的だったが、この言葉を使えば、ライは「自分の中の壊れてしまった部分を、どうしたら修復出来るか色々実験していた」と言えるかもしれない。キャバ嬢として働くのも、ホストのアサヒと遊ぶのも、出会ったばかりの由嘉里を住まわせるのも、すべて「実験」。現実に存在する「何か」が、ぶっ壊れてしまった自分の「何か」(何が壊れたのかもちゃんとは捉えきれなかったんじゃないかな)を直してくれるんじゃないかと思って日々行動していたんじゃないかという気がする。
「実験」という言葉で捉えるなら、ライの「由嘉里が推してるアニメと関わってみる」みたいな行動も理解しやすくなるだろう。ライは、「日常系焼肉アニメ」という触れ込みの「ミート・イズ・マイン」(肉の部位の擬人化アニメ)を観たり、2人で朝日を眺めている時に「ミノさん」と口にしたり(朝日の形が、「ミート・イズ・マイン」の「ミノさん」というキャラに似ていたそうだ)と、由嘉里が愛する世界のことを学んでいく。ただ、別に楽しそうにそうしているわけではない。また、由嘉里のことを理解しようとして触れているみたいな感じでもないのだ。だから、やはり「実験」という言葉がしっくり来る。その「実験」によって、自分の中の何かが変わってくれることを期待してたんじゃないかと思う。
そしてそうだとすれば、逆説的に、ライは死にたくないと思っていたんじゃないか、という想像も出来るだろう。
ただ残念なことに、ある瞬間を境に「ライの中の何か」が壊れてしまったと同時に、「ライがいた世界そのもの」も壊れてしまったはずで、ライはきっと、そっちの世界も壊れる前の状態に戻ってくれないと「生きる気力」に繋がらないんだろうな、という感じがする。「実験」によって仮に「ライの中の何か」が修復されたとしても、結局「ライがいた世界そのもの」は壊れたままだ。それじゃあ意味がないんだろうな、という気がする。
「じゃあ、どうして『ライがいた世界そのもの』は壊れてしまったんだ」みたいな部分は、ちょっと取っ掛かりがなさすぎて想像も難しいが、1つヒントになりそうなのは「双子みたい」という言葉だろうか。なんとなくだが「あまりにも近づきすぎてしまえた」みたいなことが、崩壊のきっかけだったのかなという気もする。
本作では「たこ焼きの片割れ」が割と重要なアイテムとして出てくるのだが、それぞれがある意味で「壊れてしまった世界を開ける鍵」みたいな存在なのかもしれない。そしてそう考えるなら、「1つしかない」と言っていたその片割れを由嘉里に渡した時点で、ライは自分の行動を決断していたのかもしれないな、という気もする。まあ、僕が今ここに書いていることは「砂上の楼閣」「屋上屋を架す」みたいな話で土台は脆弱だが、まあ受け取り方なんて観た人の自由だし、別にいいだろう。
というわけで、具体的な内容に全然触れなかったが、書きたかったことは割と書けたので満足である。というわけであとはいくつか蛇足を。
まず本作では、「ミート・イズ・マイン」という漫画・アニメが割と重要な要素になっているのだけど、言ってしまえば「小道具」と言っていいこちらにもかなり力が入っていた。アニメも作っていたし(作中の随所でアニメの一部が流れる。エンドロールによると、こちらの監督も松居大悟が務めたようだ)、グッズもメチャクチャあるし、主題歌も流れる。また、エンドロールに「同人誌制作協力」とクレジットがあったように、「ミート・イズ・マイン」をモチーフにした同人誌も大量に出てくるのだ。凄いこだわりようである。マジで、「アニメ作品1つ丸ごと作る」ぐらいの労力を費やしたんじゃないかという気がするし、そこまでこだわってるのは凄いなと思った。
あと、エンドロールに「菅田将暉」と出てきて、「???」となった。僕は映画を観ていて菅田将暉に気づかないことが結構あって、今回も、結局家に帰った時点でも「菅田将暉、どこに出てたんだ?」みたいなことは分からないままだったのだけど、今書いているこの感想を書きながらふと「あっ!」と思った。完全な確証はないが、たぶん分かったと思う。恐らく、姿は出てこないんじゃないかな。その想像を踏まえてあのシーンを思い返してみると、なるほどしっくり来るな、という感じがする。
そんなわけで、メチャクチャ良かった。っていうか、良くないわけがない。杉咲花はもちろん圧倒的に良かったのだけど、板垣李光人も結構好きなんだよなぁ。本作でも良い雰囲気を出していたなと思う。
本作では「生きること」っていう割とストレート過ぎるテーマが扱われているし、それが「希死念慮」っていうこれまた分かりやすい形で描かれていて、普通ならそういう物語にはあまり惹かれないのだけど、本作は凄く良かった。しかしホント、杉咲花は素晴らしい。
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