【映画】「水の中で深呼吸」感想・レビュー・解説
物語として凄く良かったというわけではないけど、全体の雰囲気を含め、なかなか良い作品だったなと思う。
本作を観ながら、「あぁ、そうか」と思ったことがある。「『好き』を確認する作業」についてである。
僕らは子どもの頃から、物語やゲームなどで当たり前のように「恋愛」的なものに触れる。そしてそれはやはり、子ども向けのものであれば特に、「男女間」のものが多いだろう。だからこそ、自分が「異性」を好きになった時には、意識することなく「これは今まで自分が物語とかで観てきたアレだ」と実感でき、大して戸惑ったりすることなくその「好き」を起点に行動出来たりするようにもなるだろう。
じゃあ、「同性」に対してそういう感情を抱いた場合は、どうなるだろう? 僕は今まで、自分にそういうことが起こったことがないので全然想像したこともなかったのだけど、確かに「この感情は一体何なんだろう?」という「確かめる作業」みたいなものが間に挟まるだろうな、と感じた。今まで自分が見知ってきた「好き」の形とは、どうも違うみたいだからだ。
その感情が「異性」に向けられていれば、疑うことなくそれを「好き」という気持ちだと確定できる。でも、「同性」の場合はそうはいかない。特に、今まで他者に「好き」という勘定を抱いたことがなければ余計そうだろう。それは、「リンゴ」という果物についてこれまで文字情報でしか接してこなかった人が、初めて「リンゴ」の現物を見た時みたいなものかもしれない。確かに、文字で学んできた「リンゴ」に近い形のものが目の前にある。でも、本当にこれが「リンゴ」なのかは分からない。もしかしたら、「リンゴ」に似た形の何か別のものかもしれないからだ。
そういうことが、「好き」という感情に対しても起こり得るだろうな、と本作を観て感じた。なるほど、という感じだった。
「同性」にそういう気持ちを抱いた場合、その人は、いつどんなタイミングでそれを「好き」だと確定させるのだろう? 自分が見知ってきた「好き」の形と確かに近いけど、でも「『同性』に向けられている」という点が圧倒的に違う。「好き」は「異性」に向けられるべきものじゃないのか? 「同性」に向いたこの感情も、同じ「好き」という感情として扱っていいのか? そういう葛藤を抱いてしまった場合、どこで折り合いやら決着やらをつけるのか。あるいはつけられないのか。
それにそもそも、「好き」にも色々ある。「恋愛」的な方向だけではなくても、「好き」的な感情はいくらでも生まれ得るはずだ。例えば、ペットに向けられる「好き」は、絶対に恋愛的なものではないはずだ。だから、「同性」に向いたこの感情を「好き」だと認めたとしても、さらにそれが「恋愛」を志向するようなものであるかどうかもまた別途考えなければならないだろう。
もちろん、この葛藤については、異性同士であっても生じ得るものではあるが、「同性」に向いた「好き」の場合は余計にこの点について慎重にならざるを得ないと思う。特に、「好き」を向ける「同性」が「友人」だとしたらなおさらだ。「『友人』であること」を強く望むような「好き」であれば、今のままの関係性を継続すればいいが、「『恋愛』になること」を強く望むような「好き」だと確認出来てしまったら、「友人」か「恋人」かみたいな選択をしなければならなくなるからだ。
いわゆる「同性愛」が描かれる作品には、色んなタイプのものに触れてきたつもりだが(それこそ「BL」と呼ばれるものにも触れている)、「『同性』に向いたこの感情が何なのかはっきり確定できない」みたいな段階に焦点を当てる作品はあまり記憶がない気がする。だから本作を観ながら、「なるほど、確かになぁ」と感じる場面が結構多かった。
と同時に、このような感覚はもしかしたら、ある程度の世代差みたいなものも出てきたりするかもしれないなぁ、と感じたりもする。
若い世代についてはよく、「『他人の評価』を気にする」という話を見聞きすることがある。「他人からの評価」ではなく「他人の評価」である。例えば、読んだ本だったり食べたモノだったりを評価する場合、「他の人がどんな評価をしているのか」を調べてしまう、という話である。例えばある本を読んで「面白かった」と感じたとしても、「他の人も『面白い』と感じているのか」が気になり、ある種の「答え合わせ」的な行動をしてしまう、というのだ。もちろんこれは、世代関係なくやってしまう人はいると思うけど、SNS世代である若者は特に、当たり前のように「他人の評価」を見れてしまうので、余計にそういう行動をしがちだ、という話である。
そしてそういう感覚を持つ世代だとしたら、「この『感情』はなんだろう?」という評価をする際にも同様の発想を抱いてしまってもおかしくないように思う。つまり、「自分ではその『感情』の評価が出来ない」みたいに感じてしまう、というわけだ。ただ、「感情」というのは個々人のものでしかないから、自分の内側にある「感情」を誰か別の人が評価してくれたりすることはない。だから当然、「他人の評価」をチェックすることも出来ないのだ。それでモヤモヤを解消することが出来ずにいる、みたいな状況もあり得るな、と思ったりする。
「自分がどう感じるのか」みたいな感覚を手放して「他人の評価」とのハイブリッドで様々な評価を定めるみたいな振る舞いをすることで、ある種の「生きやすさ」を手に入れられているのかもしれない。しかしそのことによって同時に、「自分の内側にしかないもの」に対してさえも、「自分がどう感じるのか」だけで判断することができなくなっているとしたら、それは結構しんどいんじゃないかという気がする。そして、SNSのせいでそうなっているのだとしたら、本当に大変な世代だなって思うし、改めて、自分が子どもの頃にSNSなんかなくて良かったな、と思ったりもする。
というわけでざっくりと内容を。
高校1年生の葵は、同じ水泳部の日菜のことが気になっている。でも、その「感情」が何なのか、よくわかっていない。プールから上がる時に手を握って引っ張り上げてくれた時のあの感じは、一体何なんだろう?
水泳部では、レギュラーを固める2年生が1年生に理不尽な嫌がらせをしてきており、日菜に対する嫌がらせを見かねた葵は先輩に歯向かってしまう。結局、上級生とリレーで対決して決着をつけよう、という話になったのだが、1年生だけでは明らかに実力不足である。さらに、「先輩の嫌がらせなんか我慢してやり過ごせばいいじゃん」と思っている同級生も多く、どうも日菜もそう思っているようだった。葵は、正しい行動だったと思っているとはいえ、上級生に歯向かったことを少し後悔している。
そんな葵の部屋に当たり前のように上がりこむ幼馴染で水泳部の昌樹は、葵の噂を耳にして励ましてくれた。母親が「昌樹くんとなら安心なのに」と暗に付き合うように促すほど昔からよく知った相手で、葵としては異性としてどうこう思っている相手ではない。のだけど、日菜に対する感情のよく分からなさから、昌樹とも手を握ってみたりして、自分の内側にある感情の正体を探ろうとする。
そんな昌樹は、特に水泳部内で女子に声を掛けまくっており、興味を持って寄ってきてくれる人を食い散らかしている。しかし彼もまた、人知れず悩みを抱えている。自分の想いが叶わないことをはっきりと理解しているのだ……。
というような話です。
主演の石川瑠華を除けば、学生たちの演技がそんなに上手くなかったり(全員ではないけど)、「普通ってなんだろうね?」みたいなことをセリフとして口に出させちゃう感じなど、部分部分で「うーん」ってなる箇所もあるのだけど、全体としてはなかなか良い雰囲気だったなと思う。特に、葵を演じた石川瑠華はかなり良かった。映画『うみべの女の子』も凄く良かったけど、本作でも「なんとも言えないモヤモヤを抱えた少女」を演じていて、そういうのは結構上手くハマるなぁ、と思う。見た目的に、凄く女の子らしい風にも、そうではない風にもどちらにも出来る感じがあるので、その雰囲気も葵という存在のリアリティに寄与しているんだろうな、という気がする。
そしてそんな葵のキャラクターを引き出すために用意されている母親が、まあそこはかとなく嫌な感じの存在で、しかも「悪気がない」ことが伝わってくることもイライラさせるような人物だった。この母親は葵に、「女の子なんだから」「似合うと思って買ってきた(と言ってフリフリの服を渡す)」「将来どんな人と結婚するんだろうね」みたいなことを平気で口にする。ある種の洗脳である。「女性性なんだからこうあるべきだ」という価値観に加えて、「私の娘なんだからこうであってほしい」という願望もそこに加わっているので、余計にややこしい。そしてそんな風に母親からあーだこーだ言われる葵は、「自分の心が男になる瞬間もある」と自覚しているのである。まあ、やってられませんよね。
極め付きは、葵が母親に「もし私が男の子だったら、そんなに心配しなかった?」と質問するシーンである。まあこれも酷かった。この日は上級生と喧嘩して、葵を含む何人かが服のままプールに落ちたので、葵はずぶ濡れで家まで帰った。そしてそれを母親が心配してあーだこーだ言ってくるのに対して、葵が「男の子だったら」と口にするのである。
これに対して母親は、「うん、そうだと思うけど」と返す。物語的にそういう返答である必然性は理解できるから作品としては全然いいんだけど、実際にそんな返答をする母親がいたらマジでクズだなと感じるだろう。
仮に本当に「男の子だったらそんなに心配しなかった」と考えていたとしても、そう返答すべきではないだろう。なにせ、葵は明らかに何かを訴えかけたくて母親にそう質問しているからだ。それを汲み取らなきゃいけない。いやもちろん、「男の子でも同じように心配するよ」が正解の返答だったかどうかは分からない。分からないが、ただ、「男の子だったらたぶんそんなに心配してないと思う」という返答は、この時の葵にとってはかなり最悪なものだったんじゃないかなと個人的には感じる。
何故なら、葵はこの時、「母親にとって私は『女であること』に価値があるんだ」と理解したはずだからだ。
母親が「自分の子どもである」ことに価値を置いているのであれば「男の子でも同じように心配するよ」という返答になるだろうし、それなら葵としても「性別でどうこうじゃないんだな」と思えたかもしれない。しかし母親の返答は葵に、「あんたは『女』だから私にとって価値があるんだぞ」という「呪い」を植え付けている。最悪だなと思う。
「女であること」に価値があるとしたら、自分の内側にある”かもしれない”「男の部分」は、少なくとも母親に対しては封印せざるを得ない。もちろん母親は、娘がそんな葛藤を抱えていることを知らないわけで、殊更に責めるのも酷かもしれないが、ただやはり、こういう想像力の無さみたいなものが浮き彫りになるとちょっとうんざりさせられるなと思う。
さて、それとは別に、個人的に凄く良かったなと思うのは、学生たちの「ベトッとしていない関係性」である。これは、捉え方次第で良し悪しの感覚が変わる気もするのだが、個人的には「人間同士の関係性はこういうのが良いよな」と思ったりする。
彼女たちの関係性は、「去る者追わず」「他者に踏み込まず」みたいな印象がある。「部活辞める」と口にする同級生に「いいんじゃない」と言ったり、「嫌われたかもしれない」と感じている相手に特段のアクション(謝るとかそういうこと)をしなかったりする感じが随所に描かれている。人によっては、「もう少し他者と踏み込んで関わるべきだ」みたいに感じるかもしれないような関係性なのだが、僕はこれでいいんじゃないかなと思う。
あくまでも僕の勝手な解釈だが、今の若い世代は「他者に自分の感覚を押し付けること」をかなり恐れているような気がする。その対比を鮮明にするために、葵の母親を「他者に自分の感覚を押し付けまくる人」に設定している、なんてこともあるかもしれない。自分が何に対してどう感じていても、「相手がどう感じるか」は自分には関与出来ないことなんだから、そこがたまたま重なった時には関わろう、みたいな感覚が結構強いんじゃないかという気がしている。だから、相手の決断を否定したりしないし、相手の気持ちを無理やり変えるような行動も取らないのだと思う。
「話せば誰とだって分かり合えるよ」的なマインドの人には理解できないかもしれないけど、個人的には彼女たちのスタンスの方がしっくり来るし、いいなと思う。まあ、そういうスタンスであるが故に、恋愛に限らず「深い関係性」を築くことへの恐怖・躊躇みたいなものも大きくなっているような気がするし、それは凄く大変だなとは思うのだけど。でも、僕は、今の若い世代のコミュニケーションの取り方の方が「健全」な気がしているし、観ていて気持ちいいなとさえ思う。
というわけで最後にどうでもいいことを1つ。エンドロールを観ていて、「エグゼクティブプロデューサー:King Guu」と表示されたので、「えっ? King Gnuがプロデューサー?」と思ったのだけど、「King Gnu」じゃなくて「King Guu」だった。ややこしい。いや、ホントにどうでもいいことだけど。
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