【本】嶽本野ばら「ミシン」感想・レビュー・解説
たぶん僕達は、日々自分を騙しながら生きているのだろう。
気付いているのに、気付かないフリをしているのだ。
あるいは、本当に気付いていないこともあるかもしれない。
その時は、突然そのことに思い立って、驚くことになるだろう。
生きているということは、壊れ続けているということ。
そういうことを、僕らはどこかに隠したまま生きている。
僕らは、生れ落ちた時から、既にカウントダウンが始まっている。そこからの1秒1秒で、人間は刻々と壊れていく。
成長しているように見えるかもしれない。進化しているようにも見えるかもしれない。
しかし、それらは全部幻想だ。人間だけでなくありとあらゆるものは、生れ落ちたその瞬間が完璧なのであって、後は醜く壊れていくだけだ。
無機物を考えて見ればいい。例えばテレビは、買ってきたその瞬間が最も性能がいいはずだろう。使い続けることで、だんだんと性能が落ちていく。常に壊れ続けているのである。
有機物だって同じだろう。有機物だけ、時間が逆に進むはずがない。時間と共に、いつも壊れ続けているのである。
人間は、恐らくそれに気付いた時から、それはまずい、と考えたのだろう。
そんなわけがない。生きていることが壊れていることだなんて、壊れ続けることが生きているということだなんて。
だから、言葉や価値観を駆使して、人間は幻想を得た。
僕らは壊れているのではなく、成長しているのだと。進化しているのだと。いい方向に変わっているのだと。
それが生きているということなのだと。
幻想は、常に何かを歪めることで成立する。何かを歪めるという対価と共に幻想は存在する。
その歪みは、現実世界の汚濁という形で現れる。
自分は成長しているのだという傲慢。
自分は進化しているのだという楽観。
自分は壊れてなどいないという認識。
そういうものすべてが、現実世界を汚濁する。
その中で、きちんと自らを把握している人間も存在する。
自分は、時々刻々と壊れ続けていることを認識している人もいる。
しかし、世界はそういう人格に対して、優しくない。
幻想を抱く人間に真実を見せるのに、彼らの力はあまりに弱い。
壊れ続けていることを認識する者は、だからおかしな人間とカテゴライズされ、爪弾きにされたり、迫害されたりする。彼らの正当性は、彼らの中には存在するが、社会の中には存在しない。
高潔な人格という存在。汚濁にまみれたこの世界の中で、唯一自らの立ち位置を把握している存在。それでいて、正しさのなんたるかを歪められんとしている存在。
時に彼らは己を挫き、
時に彼らは己を貫く。
どちらにしても、壊れ続けているという認識をもち続ける高貴さを、僕は尊重したい。
その崩壊を、自らの外に求めようとしない高潔さを、僕は尊重したい。
もしユートピアが存在するとしたら、その世界は遍く退廃的だろう。何故なら、壊れ続けていることを認識できる者こそ、そこに住む価値があるのだから。
現実は厳しい。それは誰にとっても厳しい。だから、生きていくために幻想にすがるのは、仕方がないことなのかもしれない。
しかし、幻想にすがらずに生きている人も、恐らくは存在することだろう。
僕らはそうした存在を笑うべきではない。貶めるべきでもない。その高潔さを讃え、尊重すべきである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、嶽本野ばらの初の小説作品です。それまでは、エッセイをフリーペーパーに連載していたことはあったけど、小説はこれがデビュー作だそうです。
本作は、「世界の終わりという名の雑貨店」と「ミシン」という二編の短編が収録されています。それぞれの内容をざっと書こうと思います。
「世界の終わりという名の雑貨店」
フリーライターという仕事に嫌気がさした僕は、仕事を辞めた。事務所として使っていた物件も引き払おうとしたのだが、立ち退きを宣告されているという大家に、タダでいいから今の部屋にいてくれないか、できればそこで何か商売をしてくれないか、と言われる。
勧められるままに商売を始めようとするが、特に売るものもない。部屋を漁ってかき集めた雑貨と、近くで買いあつめた駄玩具をテーブルに並べ、ローソクの明かりだけという薄暗い店内にクラシックを流すという、奇妙な店が出来上がった。名前は、「世界の終わり」にした。
当初は開店休業状態だったが、雑誌にとりあげられたことがきっかけで少なからず知名度が上がった。そんな折に現れた一人の少女。全身をVivienne Westwoodブランドで包み込んだその少女は、ほぼ毎日来店しては、閉店までいることすらあった。僕らの間に会話はない。しかし、どこかそれを心地よいと感じている自分がいることも確かだった。
ある日、大家の息子だという人に、出て行ってくれと宣告される。どうやら、かつてのあの大家は亡くなったらしい。この店を畳まなくてはいけなくなったとその少女に告げた僕は、一緒にどこかに逃避行しようと、まるで思ってもみなかったことを口にしてしまう…。
「ミシン」
新しいものにまったく興味の持てない私。テレビもファッションも好きな男の子の話も、まったくついていけない。私が面白いと思うのは、昔の文学。それも、女同士の恋を描いたような、そういう禁断の文学。「花物語」を読んで以来、自分がいかに乙女であるか気付いてしまった私。
私は、エス、つまり今の言葉で言えばレズみたいな性格がある。男の子にはまったく興味が持てない。ただ私は、ブスでチビでデブだ。どんなに憧れる女の子がいても、エスの関係になんかなれるわけがない。
そんなある日私は、衝撃的な出会いをすることになる。テレビを見ていた私は、死怒靡寫酢という名のバンドのボーカル・ミシンを見るまでは。
ミシンは、パンクバンドのボーカルらしく、過激な発言や無茶苦茶な行動で人気を得、それ以来バンドの知名度もどんどんと上がっていった。
私は願った。貴方ともっとお近づきになれますように。願いに願って、祈りに祈った。どうしても私は、貴方の側にいなくてはならない…。
どちらの作品も共通して感じるのは、社会と人間との関係についてですね。
どちらの作品の登場人物も、社会的にうまく生きていくことのできる人間ではありません。主張できなかったり、すべてを諦めていたり、そういった基本的な姿勢が、社会との適合を阻んでいるとはいえ、本作を読むと、彼ら自身が悪いのではなく、社会そのものが悪いのだ、ということが伝わってきます。
彼ら自身、そうした言葉を口にしたり、そういう態度を取ったりすることはないのですが、登場人物達の諦念の潔さというようなものが、逆に社会の醜さを強調しているようで、そんな中でも生きていかなくてはいけないという思いが、どこからともなくにじみ出ているような感じです。
「世界の終わり」の方は、壊れているということが形でわかる作品ですね。
壊れていく過程をダイジェストで見るというか。少女が抱えなくてはならなかった現実と、それを捨て去ることで残すことができたものの対比が、くっきりと浮かび上がっている感じです。
「ミシン」の方は、壊れているという形が見えにくい作品です。目の届かないところで着実に壊れているというような感じなんですが、それは次のようなセリフに集約されるような気がします。
『現在進行形のものなんて、私は信じないし、興味がないわ。レトロ趣味な訳じゃないの。只、今という時代がどうしようもなくやりきれないだけ。』
『停止した時だけは私を裏切らない』
これから壊れていくという未来を知っていながら、それにまっこうから対抗できる人は、なかなか多くはありません。これから壊れていくということに気付いているのが自分だけという状況ならなおさらでしょう。だからこそ、未来に期待しないという、そういう生き方を取らざる終えないのです。
どちらかといえば「ミシン」の方が好きですが、「世界の終わり」の方も結構いいと思います。
文章が結構独特で素敵で、自らを卑下するような一人称から生み出される物語は、なかなか新鮮でした。気になる文章も結構ありました。いくつか抜き出してみようと思います。
『本来、情報誌は、知らないことを知りたいという読者で支えられてきました。知ることによって得をすることはあります。しかし得をすることは知ることから派生する付属物でしかありません。が、今情報誌から情報を得ようとする読者は、単に得がしたいだけなのです。彼らの中で知ることは、イコール得をすることなのです。得をする為に必要なものは、情報ではなく情報量なのです。情報は眼に見えませんが、情報量なら眼に見えます。見えた気がします。僕はその即物的な考えを、とても下品だと思います。』
『よく、お互いの前では格好をつけずにありのままでいられるなんてことをいって、恍惚としているカップルがありますが、それは単にお互いがだらしなく、そのだらしなさを赦しあっているだけに過ぎないのだと思います。』
『自分の趣味嗜好なんて、そうすんなり変わるもんじゃないでしょ。趣味嗜好を時代によって変えて生き残っていくブランドや人って、私は大嫌い』
どこまでも諦めていながらも、どこまでも高潔であるという人格。そういう人格にとって、社会はどこまでも汚らしいものでしかないので、生き方をきちんと選び取らねばなりません。その過程で生み出される澱のようなものが、本作ではしっかりと描かれているような気がします。
デビュー作とは思えない作品です。短いですが、かなり読む価値はあると思います。是非読んでみてください。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートいただけると励みになります!