【映画】「百日紅~Miss HOKUSAI~」感想・レビュー・解説

1814年。葛飾北斎は既に名声を轟かせ、その娘お栄も父の仕事を手伝っている。そんな時代。
江戸の片隅で、「料理をしない」「掃除をしない」「汚れたら引っ越せばいい」という父と、女だてらに勝ち気に生きていくお栄。そんな二人の日常が描かれていく物語。
というぐらいしか内容紹介の書きようがありません。内容がないわけではありませんが、全編を貫くような芯のある物語はありません。「絵を描くことしかしたくない父」と「描けないとは言いたくない勝ち気な娘」が、日々を生きていく。そういう物語です。
個人的には、面白い映画だと思いました。芯になるような物語は確かにないのだけど、観ていて「飽きる瞬間」というのはありませんでした。最後まで、画面に惹きつけられた感じがします。どこにその魅力があるのか、きっちりと捉えられているわけではありません。才能の物語であり、歪んだ家族の物語であり、江戸の価値観の物語であり、それらがうまく融合されているのだけど、それだけではない何かがあるような気がします。観ながら何に惹かれているのか考えていたのだけど、うまく捉えきれませんでした。
芯のある物語はないのだけど、僕が観ていて感じた「全体を貫く感覚」があります。それが、「かつての日本人の身体感覚」です。
お栄と鉄蔵は、絵を描いて生計を立てますが、その過程で様々な経験をする。例えば、龍が天から降りてくるのを感じたり、お栄が描いた地獄絵から妖怪が出てきたり、首が伸びる花魁と会ったりと、不可思議なことが様々に起こる。
これらは、ただのファンタジーとして捉えることも出来るのだけど、僕は映画を観ながら、現代人との身体感覚の差に起因するのではないか、と考えるようになりました。
僕たちは、日々様々な情報にさらされています。それらはある意味「ノイズ」のようなもので、僕らは生まれた時からそのノイズの中で暮らしているから、それがない世界のことを想像しにくい。特に現代では、地球上のありとあらゆる場所がインターネットで繋がってしまうために、常にどんな場所にもノイズが転がっている状態だ。
そんな僕らは、「情報というノイズ」を感知する身体感覚は発達させてきたけど、その一方でそれ以外の身体感覚を失っていったのではないかと思う。

今よりもっと「ノイズ」が少なかった時代。その時代には、今の僕たちには感じ取れなかったものが感じ取れたのではないか。この映画を観ながら、僕はそんな風に感じました。
それはもしかしたら、「絵を描く」ことを生業にしている家族であるからの感覚だったのかもしれません(ある場面で、鉄蔵の弟子には見えないものが、お栄と鉄蔵にだけは見える、という場面がある)。才能の問題であって、時代の問題ではないのかもしれないけれども、この映画を観ながら僕は、その当時の(あるいは、この父娘の特殊な)身体感覚が描かれているように感じました。そう考えると、舟に乗っている時に有名な北斎の絵のシーンが踏襲されているシーンも、なんとなくそういうものとして描かれているようにも感じます。
お栄と鉄蔵は基本的に、「同じ絵師」として関わる。作中で、父娘を感じさせる場面は多くない。鉄蔵はお栄を、まだまだ未熟な絵描きと捉え、お栄は鉄蔵のことを、悔しいけど一枚も二枚も上手の絵描きとして捉えている。絵描きとしてのお栄の葛藤もまた随所で描かれていて、職人として邁進していくような力強さを感じる。
お栄は、どうも殻を破れないでいる。何を描かせてもうまく描く。それは誰しも認めることなのだけど、しかしそこで留まってしまう。お栄には、そこを突破するのにどうしたらいいのかわからない。なにせまだ、世の中に対する経験も足りない女の子である。仕方ない部分もあるのだけど、しかしお栄が「下手善」と呼んでいる、鉄蔵の弟子である善次郎と比べられた時には取り乱す。お栄には、善次郎の下手な絵は許せない。しかし世間はその絵に、何かを感じ取るのだという。前に出る力、迫力、艶かしさ。そういう何かを。鉄蔵もある場面で、善次郎の下手さを認めた上で、お前の絵には何かあるんだと言っている。
その「何か」が、お栄にはない。この「何か」を手に入れられるのではないかとお栄が行動する場面がある。しかし、お栄がそれを手に入れられたのか。それは描かれない。
それにしても、絵のことはわからない僕だけど、作中で描かれる「墨による絵」の繊細さというか巧さというか、それはちょっと凄いなと思った。アニメーションという器の中で、あれだけの「筆の質感」を表現できるんだな、と。エンドロールを観ていたら「筆作画」という役割の人がいたので、やはりそれ専門の特殊な作画能力を持った人がいるのだろう。
さて、基本的に「同じ絵師」として描かれるお栄と鉄蔵だけど、この二人が「父娘」として描かれる瞬間がある。それがお栄の娘であるお猶の存在だ。
お猶は、生まれつき目が見えない。そのため一緒には暮らしておらず、お寺のようなところに預けられている。お栄は時々お猶の元を訪れ、外の世界を感じさせてあげる。橋の上で、様々な売り物屋が通る音を聞いたり、雪の積もる海岸沿いを歩いたり。お栄にとってお猶は愛しい妹であり、事ある毎に関り合いを持つ。
しかし、父親である鉄蔵は違う。鉄蔵は基本的に、お猶に近づこうとしない。
普段この対立は、この父娘の間でも表面化することはない。お栄は、鉄蔵の父親としての(というか人間としての)能力を諦めているし、鉄蔵は柳に風と受け流すからだ。
作中で、鉄蔵はお猶に「三度」会う。
これは、何をどうカウントするかで人によって違うだろうが、僕は三度と捉える。「ちゃんと一人で来れたじゃないか」という言葉に、なんとなく救いを感じてしまうのは、ちょっとダメかもしれないけど、いいシーンだったと思う。
お猶はお猶で、父親である鉄蔵に対して遠慮がある。このお猶の感情は切ない。作中で最初に鉄蔵とお猶が「会う」シーンでお猶が言った言葉にはグッと来るし、「目が見えない」という設定を絶妙に活かした印象的なシーンだった。
物語に芯がない、という点をどう評価するかで作品全体の評価が決まりそうな作品です。ハリウッド的な映画が好きだという人にはちょっと合わないと思うけど、物語的な展開にさほど重きを置かずに作品を鑑賞できる人なら面白く観れると思います。少なくとも僕は、最後まで飽きることなく見続けました。当時のことは全然知らないけど、「江戸」という街の雰囲気が、絵や音なんかでうまく表現されていたように感じるのも良かったと思います。

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