【本】早見和真「95」感想・レビュー・解説
僕は、”今を生きること”から全力で逃げてきたのだと思う。
現実から逃避するために学校の勉強をしたり、いつか役に立つかもしれないと資格を取ったり英語の勉強をしたりしている。いつ、どの時代のどんな瞬間を切り取っても、僕は、いつだって自分がいる”今”からの逃げ道を、まず確保してからでないと、その場所にいられないような人間だった。いつでも逃げられる、という安心感を確保してからでないと、”今”という場所にいられなかった。
”今”からは、ずっとずっと逃げ続けてきた。”未来”が”未来”のままでいてくれればいいのに、時間は無情にも進んでいく。”未来”が、少しずつ”今”に近づいてくると、それだけでもうしんどくなった。”未来”がずっと”未来”のまま変わらなければいいのにと、昔の僕はたぶん思っていたはずだ。まさに目の前にある”今”でさえ抱えきれないのに、その上”未来”までもどんどん”今”に変わっていくんだから、やってられない、と思っていた。
”今”を見たくなかったのは、”今”の自分は何も持っていないということに気づきたくなかったからだと思う。物質的にも、精神的にも、何も。熱中できるものがあるわけでもなく、特技があるわけでもなく、斬新な出生なわけでもなく、名前が特別なわけでもなく、無二の親友がいるわけでもない。僕にとって”今”というのは、「何も持っていない」ということを突きつけられる時間に他ならなかった。
だから、僕は”今”から逃げた。そして、不確定な”未来”に逃げた。”未来”の僕は、まだ確定していないが故に、何でも持っている可能性があった。”今”の自分が持っていない様々なものを、”未来”の僕は、少なくとも可能性の上では持っていてもおかしくはなかった。少なくとも、”今”の自分はまったく何も持っていないのだから、どう転んだって”未来”の僕の方が”今”よりは持っているはずだ。だから、“未来”の僕がもう少し良い物を持てるように、今は“未来”の僕のために頑張ろう。
きちんと言語化していたわけではないけど、たぶん僕はずっとそんな風にして生きてきたんじゃないかな、という気がする。
僕にはずっと、”やりたいこと”がない。
昨日テレビを見ていたら、モノマネ女王の清水ミチコが出ていた。天才ロボット学者と対談をしていたのだけど、その中で清水ミチコは、「誰かの真似をするのは楽なんだけど、自分がやりたいことは特にない」「人真似を見せることは全然平気なんだけど、自分自身を見せるのは恥ずかしくてしょうがない」みたいなことを言っていた。
なんか凄く分かるような気がした。
僕は、”今”から逃げるだけではなく、”自分”からも逃げていた。”自分”がどうしたいか、ということを考えるのが、億劫で仕方なかった。やりたいことも、食べたいものも、やりたくないことも特になかった。別に、何でも良かった。
だから僕は、”誰か”に合わせるのが楽だった。”場”に合わせるのが得意だった。
以前こんなことがあった。大学時代、サークル内であるトラブルが起こった。僕らの学年がその活動のトップだったのだけど、その活動のメインメンバーが、同じ学年の面々に散々非難に合う、という状況に陥ったことがあった。
その時、僕の学年の中心的な人たち(発言力のある人たち)は、ほぼ全員メインメンバーへの反対派に回ってしまった。僕は正直、どっちの立場でもなかった。いつものことだけど、僕には強く主張したいようなことが、その時もやっぱりなかった。
僕はそこで、その場にいる人間を見渡した。その結果、どう考えても、この場で何か発言できる人間がいるとすれば僕しかいない、という結論に達した。僕は、そこまで発言力のある存在ではなかったけど、でもその場には、メインメンバー・反対派に回った中心的な人たち・発言しなそうな人たち・そして僕しかいなかった。どう考えても、僕が発言する以外に、この場はどうにもならない。
だから、僕個人としてはどっちでもいいやと思っていたんだけど、その場をどうにか収めるために、僕は唯一、メインメンバーを擁護する側に回った。その結果、なんとかその場は収まったのだ。
その後僕は、メインメンバーの人たちから、あの時はお前がいなかったらどうにもならなかった、と褒められたのだけど、僕は別に英雄になろうとしてあんな行動をとったわけではない。あの時の僕の行動は、僕らしさのまさに極致という感じで、非常に僕の有り様を象徴するような行動だった。その場や、その場にいる人を観察し、最も足りない役割を補おうとしてしまう。そんな役回りを引き当てて後悔することもあるけど、大抵の場合、足りない役割を補おうと行動する方が、僕にとって楽なのだ。
一人でいる時ならともかく、”誰か”といる時に、”自分”がどうしたいかを考えるのはめんどくさい。それは、僕の役割ではない、と思ってしまう。僕は、”誰か”に合わせる方が楽だ。そんな風にして、”自分”からも逃げているのだ。
『”今”に悔いを残すなよ』
これが、彼らの三つのルールの内の一つだ。悔いを残すな。
もし子供の頃、近くに”渋谷”があったらどうだっただろう、と僕はずっと考えていた。彼らのように、”渋谷”という場所が、まるで庭のように、遊び場のように、日常の地続きにあったとしたら。
”渋谷”という存在に影響されなかったと、自信を持って言えるだろうか?
僕は、静岡県の中途半端な田舎町で育った。ど田舎ではないけど、栄えているわけではないという、中途半端な田舎。もちろん、近くに”渋谷”なんてないし、一番栄えている静岡市にも、電車で一時間ぐらい掛かったような気がする。
そういう環境では、劣等感を刺激されるようなものは視界に入らない。突出してオシャレなやつがいるわけでも、突出して文化的な香りを漂わせるやつがいるわけでもない。それぞれの文化的レベルには、田舎なりの差はあれど、都会に比べたら何ほどのものでもない。
でも、近くに”渋谷”があったら。
文化的レベルの差は、様々な要因で段違いになる。名門校に通っているか、家柄のいい家に生まれたか、金はあるか、ルックスはいいか、面白いか、度胸はあるか…。様々な要因が絡まり合って、人間同士の、特に若者同士の差を歴然としたものに変えていく。
そんな場所で生まれ育ったら、”渋谷”というものを無視して生きていくことは出来るだろうか?そこにのめり込まなかったとしても、逆の方向に触れすぎてしまうとか、そういう形で影響される可能性は十分にあっただろう。
だから僕は、彼らが『”今”に悔いを残すな』と確認しあうことを笑えはしない。
誰しもが、何かに抗おうとしていた。そんな時代だったと、登場人物の一人は語っている。きっとそうなのだろう。ランニングマシンの上では、走り続けなければ振り落とされてしまう。振り落とされて、困るわけではない。でも彼らは、振り落とされないことに決めた。そのランニングマシンが、たとえ誰かの掌の上なのだとしても、彼らはそこで、とにかく全速力を続けることに決めた。悔いを残さないために。それは、若者の社会への違和感さえも貪欲に飲み込み、さらにそれをエネルギーに変えてしまうような魔窟・”渋谷”が夢見る幻想だとしても、彼らは、その幻想を捕まえるために、とりあえず走り続ける。
内容に入ろうと思います。
SNSで高校生の少女から連絡をもらい、広重秋久は、「Q」と呼ばれていた高校時代に入り浸っていた渋谷に、久しぶりに足を運んだ。すっかり様変わりしているが、ところどころ面影がある。当時たまり場にしていたメケメケで彼女と会うことになった。
新村萌香と名乗った少女は、高校の卒業制作のために、星城学園のOBである秋久に、1995年のことについて教えて欲しいのだ、と話した。星城の卒業制作はちょっとした名物だ。
秋久は、1994年のことから話し始めた。そう、地下鉄サリン事件が起こり、秋久が”キレて”しまったあの日のことから。
その日秋久は、地下鉄サリン事件によって人生が一変することになる。直接被害を被ったわけではない。しかし、人生で初めて、人間は死ぬのだと実感したし、そんな日によくわからんオッサンと援助交際が出来る女子高生を目撃して、否応なしに憤ってしまう。いつもと対して変わらない反応をする両親にも、興ざめだった。
その日。クラスメートの丸山(すぐにマルコと呼ぶようになる)から電話があり、理由も分からないまま秋久は5人目のメンバーになった。元総理大臣を祖父に持つ翔を筆頭に、指定広域暴力団の組長の息子であるレオ、在日三世であるドヨンは、その日から仲間になった。秋久は、中学時代にごく少数の人間から呼ばれていた「Q」という名前で呼ばれるようになった。
彼らは、渋谷の街の有名人だった。Qは、どうして自分がこんなメンバーの一員の入れてもらえたのかよく分からなかった。しかも他の四人は、Qが主役だなどという。
なんだか分からなかったけど、とにかく毎日楽しかった。Qも渋谷ですぐに有名になった。出来ることが増えるに従って敵も増えていった。それでも、いつだって五人で笑い転げていた。
あの日が来るまでは。
というような話です。
かなり面白い作品でした。
正直初めの内は、この物語に馴染めるか自信はありませんでした。渋谷を根城にはしゃぎ回るキャラクターに、共感できるような気がしなかったからです。自分とは、住む世界が違う。しかも、住む世界だけじゃなくて、元総理大臣の孫だの暴力団の組長の息子だの、バックグラウンドも尋常ではない。
そんな彼らがハチャメチャする話なんて面白いんだろうか、と思っていた。
予想に反して、読み進めるにつれて、どんどん彼らを好きになっていった。
それは、次第に彼らが虚飾を脱ぎ捨てていったからだろうと思う。
渋谷という舞台、とんでもない出生。それらはある種、鎧のような存在に過ぎない。外界からの攻撃を防御し、体当たりすればダメージも与えられるような存在。しかしその中身は、似合わない鎧を着て苦しそうにしている少年に過ぎない。
彼らはきっと、”渋谷”が近くになければ、そして特殊な出生でなければ、ごく普通の少年だったはずだ。仲間を大切にして、ダサい大人にならないように誓い、法律は守り、道徳に悖る行為を嫌悪する。彼らの感覚は、比較的真っ当だ。
『こういう悲惨な出来事に直面したら、ちゃんと泣いていられる大人になってようぜ』
『っていうかさ、当たり前にがんばっている人たちが、当たり前に幸せになれないってことに対する気持ち悪さかな。何か価値のありそうなものに対してばかり金が集まって、一部の人間ばかりいい思いしてるわけじゃん。それって歪だと思わない?』
『これからたぶんすさまじく退屈なんだろうな。俺たちの人生。でもさ、Qちゃん。周りに絶対に退屈なところ見せない方がいいからね。高校時代は楽しかったとか、絶対に口にしちゃダメだよ。ウソでもいいから、今が一番幸せだって笑ってられる人間になってようぜ』
”渋谷”という、欲望の増幅装置が近くにあったが故に、彼らは、普通の高校生とはまったく違う日常を歩むことになった、というだけに過ぎない。どこにでもいる、と言うと少し言い過ぎだけど、特別な高校生ではない。
そんな中にあって、Qの変化は異常なほどだ。
ずっと優等生で過ごしていて、突然翔たちと不良をやってるわけだから、それだけでも十分な変化だが、翔たちの仲間になってからの変化も凄い。外見だけでなく、度胸や価値観までもが変わる。初めの内は、慣れない環境の中で右往左往するだけだったQは、やがてメンバー全員が制御出来ないほどの感情の昂ぶりを見せるまでになる。
その過程でQは、様々な感情に翻弄される。
『その僕がなぜか充たされた気持ちにさせられている。自分が欲していたことすら知らなかった何かを、僕は手に入れてしまったのだと思う。あの頃よりも心強い仲間がいる分、僕はたぶん繊細になった。失うもののあることの恐さを知ったのだ。』
『彼らと話していると、いい大学に行って、いい会社に就職してという父に叩き込まれてきたはずの真っ当な道がひとくつまらないものに思えた。
なのに一方では、少しでもいい大学へ進み、いい会社に入って、一日も早く力を持った大人になって奪う方の側に回らなければという焦りも生まれた』
『地下鉄サリン事件のあった日からずっとそうです。あの事件が起きた瞬間から、僕はずっと非日常を生きている気がします。(中略)だって俺、はじめて見ちゃったんですよ。あの地下鉄の事件で、はじめて人間は死ぬんだっていうことを直視させられたんです。自分もあれに乗っていたかもしれなかった、。明日いきなり命が消えてしまうかもしれない現実を突きつけられたし、そんな世界で生きているのなら、今日を保留しちゃいけないんだって思わされた。そうしたら、あいつらが手を差し伸べてくれた。あいつらが生きていることを感じさせてくれたんです』
僕も、何かきっかけさえあれば、Qのように今日を保留してはいけないという気持ちになれたかもしれない。9.11とか東日本大震災がそういうタイミングであってもおかしくなかったと思うけど、結局僕は、未だに、”今”から逃げ続けている有様だ。
物語はもう一人、セイラという少女が中心に存在する。Qの初恋の相手であり、物語全体の骨格に位置する登場人物であり、渋谷で打ち上げ花火をするという計画もセイラの存在あってのものだ。
珍しく、僕はセイラというキャラクターにはそこまで惹かれなかった。僕の好きな感じのタイプのキャラクターなのに。たぶんこれは、セイラに問題があるわけじゃなくて、男五人の関係性がなんだか羨ましく見えていたからだろうと思う。そっちに気を取られて、セイラにあまり目がいかなかったのだろう。それぐらい、Qたち五人の関係性は魅力的だ。自分がその中に入ってうまくやっていける自信はこれっぽっちもないけど、でも、なんかいいなと思うのだ。
ノストラダムスの大予言、地下鉄サリン事件、エヴァンゲリオン。”崩壊”をキーワードにした様々なものが世に溢れていた時代。渋谷も今とは違って、まだ雑然とした退廃を内包するゴミゴミした場所だったという。そんな1995年を、少年たちは駆け抜けていく。無謀さを、意地とプライドだと勘違いして、大人や未来を拒絶しながら、全力で”今”を疾走し続ける。意味なんかなくたっていい。理由なんて知らなくたっていい。仲間がいて、仲間を大切にする気持ちがあって、常に全力でいれば、それでいい。
そういう潔さみたいなものが、僕自身にはまったく欠如しているが故に、なんだか輝いて見えてしまうのでした。まあ、潔さと無謀さを、勘違いしているだけかもしれませんけどね。
仲間がいるということは、逆に言えば一人にはなれないということ。仲間に安堵するということは、一人が怖いということ。若い内は、”仲間”という単語の響きだけで、その事実に目を瞑ることが出来る。弱さを隠すことが出来る。『何かを証明するために』遊び続けるしかない彼らの弱さを、結局大人の掌の上で転がされているんだという彼らの諦念を、僕は愛おしみながらこの本を読んだ。
その輪に入りたいわけではないのに、彼らの関係性を羨ましく感じてしまう、そんな作品でした。大人になっても、そんな風にバカみたいに振る舞えるのって、いいなって思います。羨ましいな。
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