【映画】「少年の君」感想・レビュー・解説
これは凄い映画だったなぁ。
正直、完全にノーマークの映画で、元々はまったく観る予定はなかった。というか、この映画の存在を知らなかった。知ったのは、ヤフーニュースか何かで記事が上がっていたからだ。記事自体は読まなかったが、見出しだけでも「今注目されている」という感じが伝わるもので、一応観る候補に入れておいた。
これは観て良かった。
観る人によって、この映画のジャンルの捉え方は変わるかもしれない。恋愛・ボーイミーツガール的な要素もふんだんにありつつも、社会問題を鋭く突き刺す作品でもある。中国という国の現実の厳しさを如実に描き出しながら、その環境下でしか起こり得なかっただろう、「出会うことなどあり得ないはずの2人の邂逅」が、後半でまさかまさかの展開を見せていくことになる。
この映画の前景としてがっつり描かれる「いじめ」の問題は、日本でもずっと消えない問題として社会に残り続けているし、実際に、この映画の主人公たちのような厳しい環境で生きざるを得ない人も、日本にきっといることだろう。
日本以上にハードな競争社会である中国の「受験」事情も前景として描かれ、様々な意味で、学生が置かれている厳しい現実に苦しさを感じる。
僕はドキュメンタリー映画を中心に観ているので、あまりフィクションの映画は観ていない。だから、他と比べてどう、という話はなかなかしにくいが、物凄く惹きつけられる映画だった。
(というわけで、普段はあまりこういう注意書きをしないが、今回は、ネタバレを気にせずに文章を書きたいので、映画の内容を知りたくないという方は以下の文章を読まないでください)
冒頭のシーンが、まず印象的だ。同じシーンがラストで再び繰り返されるので、さらにその印象が増す。
年を重ね、英語教師か何かになっているらしい主人公のチェン・ニェンが、子どもたちに向かって、「『was』と『used to be』の違いが分かる人?」と質問している。子どもの一人が、「『was』は過去を表す」と答えるが、チェン・ニェンは、「どちらも過去を表す言葉です」と返す。
その後、「『used to be』は、『失った』という意味合いが強くなります」と説明し、子どもたちに、「This was a playground(ここは昔遊び場だった)」「This used to be a playground(ここは昔遊び場だったのに)」「This is a playground(ここは遊び場です)」を復唱させる。
しかもその復唱の繰り返しの過程で、「playground」が「paradise」に変わる。共に「遊び場」という意味で使われるが、字幕の「遊び場」の上の表記(日本語の場合のふりがなみたいな感じ)が、途中で「playground」から「paradise」に変わるのだ。当然「paradise」には「楽園」という意味も重ねているだろう。
だからこの冒頭の場面では、「英語を子どもたちに教える」という場面と二重写しにするようにして、「私は昔『楽園』にいたのに」というような、チェン・ニェン自身の実感を重ねている、ということなのだと思う。
冒頭でこの場面を観た時には、そこまでのことはよく分からなかったが、最後に同じシーンが繰り返されることで、改めてそう感じることができた。彼女は確かに、「私は昔『楽園』にいたのに」と言ってしまいたくなるような状況にいた。
そして、ここがとても皮肉だと思うのだが、客観的に見て、彼女がかつていた場所は決して「楽園」などではない、むしろ程遠い世界だ。だからこそ、「そんな環境でさえ『楽園』と呼びたくなるような、そんな酷い状況だった」という、さらに奥にある気持ちにも気付かされるのだ。
冒頭の、まったくなんてことのなさそうなシーンに、これだけのものを詰め込んでいて、しかもそれは、映画を最後まで観ると理解できるようになっている、というのは、メチャクチャ良いと感じた。凄いセンスあるなぁ、と。
そこから物語は過去に飛ぶ。2011年、チェン・ニェンは高校3年生。「高考」という、中国における「全国統一大学入学試験」まであと60日という時点から物語が始まっていく。
映画の趣旨とはまったく関係ないところで僕が驚いたのは、冒頭すぐに女子生徒が自殺する場面。映画では飛び降りた少女の死体が映る場面はないのだが、全校生徒が死体があるだろう方向にカメラを向けているシーンは、やはり衝撃だった。
もちろんこれは、映画でありフィクションで、実際に同じことがあった時、人々がどう行動するか分からない。ただ、今の時代なら普通にありえる、とも思う。
しかし、普通に考えて、常識的な感覚があれば、今まさに飛び降りて亡くなってしまった同じ学校の生徒の死体の写真をスマホで撮るなんてことが許されるだろうか? 許されるはずがないのだが、現実に同じことが起これば、同じ行動をする人間は多数いるだろうと思うと、背筋が寒くなる。そして冒頭のこの描写は、制作側にそんな意図があったかは分からないが、「この高校の生徒(あるいは同時代の高校生)がいくらでも無慈悲になり得る」ことを示す描写だと、僕は受け取った。
自殺した少女はいじめられていた。チェン・ニェンは、もちろんそれに気づいていたけれど、何もしなかった。「何もできなかった」のか「何もしなかった」のかは、ちょっと判断が難しい。というのもチェン・ニェンは、
【ここで友達は必要ないので】
と断言しているからだ。その後も別の場面で、
【彼女は私と友達になりたがってた。でも、私は気づかないフリをしたの】
という言い方をしている。自殺した少女の関係において、チェン・ニェンが何らかの後悔を抱えていたことは間違いないだろうが、それが彼女の人生にどれほど強い影響を与えたのかは、受け取る側の判断次第だろう。
僕はチェン・ニェンが、「彼女に対して何か出来たかもしれないけど、仕方なった」と考えているのではないか、と受け取った。
いずれにせよ、少女が自殺したことで、いじめのターゲットがチェン・ニェンに移る。
いじめの主犯格は3人だが、その中に1人、明らかにサイコパスなやつがいる。どこにでもこういう、表向き優等生のフリをして、その実他人の痛みをまったく感じないようなヤバいやつがいる。そういう人間に何か教え諭したり、価値観を変えようとしても無駄だ。
しかし本当に、相手がサイコパスかどうかはともかくとして、いじめのターゲットになってしまったらどう対処すればいいのだろう? 親や教師は今、子どもにどんな風に伝えているんだろう?
誰もが理解しているだろうが、「いじめられるかどうか」はほぼ運でしかない。サイコパスが1人いれば、そいつの気分次第だし、サイコパスじゃなかったとしても、個人や集団の気まぐれでターゲットは決まってしまう。もちろんいじめる側は、それらしい理由を用意するだろうが、たぶんそれは関係ない。誰だっていいのだ。
この映画では、2人の刑事が、学校内のいじめを刑事事件として追うことの難しさについて話す場面がある。映画の最後に出てきた情報からすれば、恐らく現在は多少改善しているのだろうが、その難しさは日本でもきっと同様だろう。学校の外で行われれば暴力・暴行・傷害事件として扱われるだろう事柄も、学校内の問題として処理される可能性がある。
チェン・ニェンは、基本的に一人で暮らしている。何故なら、母親が「出稼ぎ」に行っているからだ。よく知らないが、映画での語られ方的に、「親が出稼ぎに行き、年に1回しか帰らない」という家庭は、そう珍しいものではないようだ。
しかもチェン・ニェンの母親は、ビジネスで犯罪スレスレのやり方をしており、「詐欺」と非難されたり、家に借金取りが来たりと、穏やかではない環境だ。ちなみに、父親はいない。
これが、チェン・ニェンが置かれたかなり厳しい環境だ。
映画の中で、チェン・ニェンが何かスマホの画面を見ており、そこに「受験は唯一フェアな戦場だ」みたいな言葉が書かれている。これは日本でも同様のことを言われることがある。どれだけ格差があろうが、家庭環境が厳しかろうが、受験一発でのし上がることができる。チェン・ニェンは、膨大な生徒数を誇る高校で学年トップ10内に入る秀才であり、なんとか北京大学に入って、自分が置かれたクソみたいな環境から抜け出したいと考えている。
一方、もう一人の主人公であるシャオベイは、街のチンピラだ。具体的にはよく分からないが、アンダーグラウンドな世界で何か暴力なり強盗なりをすることで、仲間となんとか生き延びている。
この秀才とチンピラが、ふとした偶然から出会う。普通にはあり得ないが、チェン・ニェンがかなり特異な状況にいたからこそ、リアリティを損なわない出会いとして受け取ることができる。
さて、2人が出会うことで、ボーイミーツガール的な展開は確かにスタートするのだが、「ボーイミーツガール」と聞いて感じるようなウキウキしたような感じはまったくない。2人の関係は明らかに、チェン・ニェンの方からアプローチしなければスタートしないし、しかし普通であればチェン・ニェンにはそんな動機はない。チェン・ニェンは追い詰められるようにしてそのあり得ない動機を得てしまうことになるのだが、シャオベイと関わるのは苦渋の決断だっただろう。
そんな風にスタートした2人の関係は、少しずつ変わっていく。チェン・ニェンの「いじめ」「受験」という状況はもちろん変わることがなく、日々張り詰めるように、息を潜めるようにして生きる中で、シャオベイとの関わりだけが希望の光に見えていく。
チェン・ニェンはある場面でこう語る。
【私のことを助けたいと言う人はたくさんいる。
でも、実際に誰が助けてくれた?】
この叫びは、この映画の本質を衝くものだと感じた。
辛い境遇にいる人に、「気持ち」が届くことで、報われたり明るい気持ちになれることは確かにあるだろう。しかし、そんなことよりも「行動」がほしい、と感じてしまう気持ちも分かる。
さらに難しいのは、善意から「気持ち」を届けようとしてくれる人を、無碍にはできないということだ。「弱者」でも「被害者」でもなんでもいいが、「与えられたものは喜んで受け取らなければならない」というような圧力があるように思う。僕は、「弱者」や「被害者」のような立ち位置になったことはそこまでないので、僕自身の実感というわけではないが、犯罪被害者にせよ、災害の被災者にせよ、「善意は受け取って、拒否してはならない」みたいな雰囲気を感じることはきっとあるだろうと思う。
「そんな気持ちなんかどうだっていいから、行動をくれよ」と言いたい人だって当然いるだろうし、それは当たり前の感情だと僕は思うのだけど、恐らく「弱者」や「被害者」がそんなことを言ったら、メチャクチャ叩かれるだろう。
チェン・ニェンの叫びからも、彼女が「気持ちより行動をくれ」と感じているのだろうと思ったし、それは、「弱者」や「被害者」とどう関わるべきかという、僕たちの問題でもあると感じた。
そして、暗いトーンながらも「ボーイミーツガール」だと思っていた物語は、後半のある時点から一気に転調する。ここからの展開もまた、息苦しさと清々しさを同時に感じるような、不思議な体験だった。
2人が共に丸坊主にした辺りから、一気にミステリ色が強くなっていく。時系列を巧みに前後させながら、「何が起こっているのか?」で引っ張っていく。しかもそれは、チェン・ニェンの受験当日を含む前後で展開されるものであり、チェン・ニェンの受験がどうなるのかという緊迫感も同時並行で進んでいくことになる。
この後半の展開は、本当に「息詰まる」と言っていい。まさに「覚悟を決めた」2人が、自分たちが信じる未来に向かって、すべてを駆けて向かっていく。出会ったばかりで、境遇もまったく違う2人が、お互いを強く信頼し合わないと成立しない展開が、最後までずっと続くのかという緊迫感にのめり込んでしまう。
チェン・ニェンにしてもシャオベイにしても、自分がその立場にいたら同じ決断ができるだろうか、と考えさせられた。
つまりそれは、「相手のことを想う気持ちが、逆に相手を傷つける可能性がないだろうか」という葛藤とどう闘うか、という話だ。
2人は、最悪しかない選択肢の中から、それでもまだマシな未来を共に歩むために、辛い決断をする。その決断を貫き通すのは、本当にかなりの胆力を必要とするが、それぞれが信じる未来に進んでいるのだと、己の意思を貫き通そうとする。
それを客観的に観ている観客は、とても辛い。
何もかもすべては、いじめを行っていた奴らが悪い。そんなやつらのために、どうしてこんな苦しい環境に追い込まれなければならないのか。あまりの理不尽に、苛立ちも覚えてしまう。
彼らの決断や行動を「美しい」と呼びたくなる。しかし、そう呼んではいけないとも思う。何故なら、重要なことは、彼らがそんな決断や行動に追い込まれないようにすることだからだ。その決断や行動を賞賛してしまうことは、僕に「敗北感」を植え付ける。
チェン・ニェンも、ある場面で、
【私の負け】
と口にしていた。
この「負け」という言葉の意味は重い。要するに、「相手にしないこと」が「勝ち」なのであり、受験まであと僅かなのだから、それぐらい我慢できる、というのがチェン・ニェンの自覚だったわけだ。
しかし、結局彼女は、自分の意思に「負け」てしまった。そのことを他人がとやかく言えはしないだろう。彼女は、自分の自覚として「負け」たのだが、本来は、彼女がそんな土俵で闘わずに済むのが最もベストな状況だったのだから、他人が勝ち負けに言及するわけにはいかない。
チェン・ニェンとシャオベイは、「負け」が確定しているかに見えた人生をどうにか変えようと奮闘する。そして、そう呼ぶべきではないと分かっていながら、彼らの奮闘はとても「美しい」。
僕は、それがどんな状況であれ、何か辛い境遇にいるすべての人に対して、なんとか生き延びてほしいといつも願っている。僕には願うという「気持ち」しか届けられないから、「弱者」や「被害者」からすればクソみたいな話だろうけど、それでも僕は、とりあえずそう願っている。
社会がどうあれ国がどこであれば、真面目に一生懸命頑張っている人間が報われない世の中は、やはりおかしい。
【復讐するのが当たり前なの?
復讐するのが当たり前の世界で、安心して子どもを産める?】
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