【映画】「アフター・ザ・クエイク」感想・レビュー・解説
ストーリー的には「???」って感じだったけど、でも面白かった。「自分には合わないかもなぁ」みたいな予想をしていたこともあって、これはとても良かったなと思う。
本作は、NHKで放送されていた『地震のあとで』という4週のドラマが元になっていて、僕はその内の一番最初の話だけ観たことがあった。とはいえ、家にいると「ながら」で観てしまう(なんやかんややることは色々あるので)こともあって、正直ちゃんと観ていたという感じではない。で、そんな第1話の感想は、「うーむ、よく分からん」だった。まあ、「ながら」で観ていたらそうなるかな、という感じではあるのだけど。
ただ、映画館でちゃんと観ても、やっぱり第1話の「1995」(4篇の話にはそれぞれ年号がついている)は「よく分からん」って感じだったし、それは他の3つも同様だった。一番現実的というか、「訳の分からなさ」が少ないのが第2話の「2011」だったかな。一番訳分からないのが第4話の「2025」で、第3話の「2020」は割とリアル寄りの話だったかな、という感じである。
基本的にはどの話も、何らかの形で「地震」と結びついている。「1995」はまさに阪神・淡路大震災が起こった年であり、物語のきっかけ(という表現で合ってるかは分からないけど)として震災が存在している。「2011」はもちろん東日本大震災なのだが、この話ではむしろ「予兆」が描かれていると言っていいだろう。本作の中で、唯一「地震そのもの」とは関係ない話と言えるかもしれない。「2020」はコロナ禍を舞台にしつつ、9年前に起こった東日本大震災のことが少し絡んでくる。そして「2025」では「結果的には起こっていない地震」の話になるというわけだ。
地震そのものは決して物語の中心には存在しないものの、誰もが無関係・無関心ではいられなかった「阪神・淡路大震災」「東日本大震災」は物語の背景として強烈に存在するし、そしてそのような世界線の中で「起こらなかった地震」の物語がどことなくリアルなものとして立ち上がってくる。「かえるくん」の存在など、第4話の「2025」は正直リアルとはかけ離れているのだが、しかし、この30年で2つの大地震だけではなく、様々な地震を経験している僕たちには、「完全な与太話」として一蹴出来るような物語でもなかったりする。
「否応なしに『震災』を『日常』に組み込まざるを得ない日本」に生きる僕らにとっては、本作の背景になっている「震災」は体感としてやはり前面に出てくる感じはあるし、それは、震災を直接的に経験した人にとっては余計そうなんじゃないかと思う(僕自身は結局、ここ30年ぐらいの様々な地震の直接的な被害を受けたことはない)。さらに言えば、「震災」という、人間には手に負えない、関与しようのない出来事は、本作で描かれる様々な「非リアル的なもの」の輪郭をどことなくはっきりさせている感じがあるし、それは結果として、本作が醸し出す「訳の分からなさ」みたいなものをある種中和しているような感じもした。
また、「震災」が物語の背後に回ることで、登場人物それぞれの人生の背後に染みのように広がっているみたいな感じがあり、それが「登場人物たちの理屈に合わない雰囲気」を成り立たせている感じもある。とにかく、「震災」に直接的に焦点を当てないことによって、登場人物たちの人生に漂う「諦念」みたいなものがより強く印象付けられていた気がして、そういう全体の雰囲気みたいなものが結構良かったなと思う。
というわけで、説明できるほどストーリーを理解できているわけではないが、一応それぞれの物語を紹介しておこう。
「1995」
阪神・淡路大震災が起こって数日間、小村は妻・未名が震災を報じるテレビをひたすら観続けている様を眺めている。山形出身の彼女は、関西方面に知り合いがいるわけではなく、だからどうしてこのニュースに釘付けになっているのか、小村には分からない。
そしてそんなある日、妻が1枚の手紙を残して姿を消した。後日、叔父だという男がやってきて、離婚届にサインを迫る。そんなこともあり、長期の有休を取ることにした小村は、職場の同僚から「釧路まで小さな荷物を運んでほしい」と言われて、自身の目的は特に何もないまま北海道へと向かうのだが……。
「2011」
スーパーで働く順子は、毎日朝昼晩と同じものを買いに来るおじさんがレジで外国人スタッフにあれこれ聞いているのを目にして、そのおじさんが探している牛乳をレジに置いてあげた。三宅というそのおじさんは、順子が帰り道にしている浜辺で毎日焚き火をやっていて、ある日順子の方から声を掛けて焚き火に混ぜてもらうことにした。
順子は高校3年生の頃家出をし、この地に流れ着いた。父親との関係が決定的にダメになってしまったからだ。おじさんとは別になんてこともない話をするだけなのだが、いつしか焚き火を囲むのが日課になり……。
「2020」
善也は、お世話になった田端のお別れ会に顔を出さなかった。田端は新興宗教の教祖的な存在なのだが、その新興宗教の中で善也は「神の子」だとされていた。それで、東日本大震災が起こった直後に母親から「一緒に被災地に行って祈ろう」と言われるのだが、「自分が神の子であるはずがない」と考えていた善也は「自分はもう信仰を捨てる」と言ってしまう。
その後大人になった善也は、やはり教団からは距離を置いたまま生活していたのだが、ある日電車の中で、かつて母親から聞いたある人物の特徴を持つ人を見かけてしまい……。
「2025」
地下駐車場の警備員をしている片桐は、総白髪の身ながら漫画喫茶で生活をしている。かつて信用金庫で働いていたようで、移転前の店舗があった場所の近くにずっとい続けているのだ。
そんなある日、「片桐さんお久しぶりです」と声を掛けてきたかえるがいた。「30年前に一緒に東京を救ったじゃないですか」と、片桐の記憶にはない話をしてくる。かえるくんの姿は他の人には見えていないようだ。そしてかえるくんは片桐に、「また片桐さんの力を借りたいんです」と言うのだが……。
というような話です。
内容紹介を読んでもよく分からないだろう。そしてそれは、観ても同じである。よく分からない。ただ、物語全体が描こうとしている「何か」はなんとなく伝わってくる感じがある。そしてそれはやはり、「『震災』の脅威に常に晒されている日本人」だからこそかもしれないな、という感じがする。日本ほどの地震大国はなかなかないと思うので、日本以外の国の人が本作を観たらどんな感じになるのか、気になるところである。
個人的には、第2話の「2011」が一番好きだったかもなぁ。一番何でもない話というか、ホントに「ただ焚き火をしているだけ」の話なんだけど、「なんか良いな」と感じた。
僕は普段から「名前の付けようがない関係性」みたいなものがとても好きなのだけど、順子と三宅はまさにそういう感じで、どんな関係性にも押し込めることが出来ない感じがある。しかし、焚き火を前にした2人の関わりみたいなものは確実に存在していて、しかも何となくだが、「名前が付かないからこそ強い」みたいな感じさえする。必要条件も十分条件も最低条件も存在しないからこそ、一度結びついてしまえば関係性が終わる理由がない、みたいな感じだろうか。
しかも、ある意味では「強固」にさえ見える2人の関係性は、実は「焚き火」を前にしないと成立しないように感じさせるものであり、だからある意味では「虚ろ」でもある。共に足場が不安定な場所にいる者同士だからこそお互いを支え合っている感じもあれば、一方で、焚き火の火が消えてしまえばすべてが漆黒の中に溶け込んで「無」になってしまうような儚さみたいなものもあって、なんか凄く良い関係性に見えた。だから、物語らしい物語がなくてもずっと見れてしまうんだろうなと思う。
そういう意味で言うと、第3話の「2020」は、「2011」の次の物語だったこともあり、「関係性が分かりやすい」みたいに感じられてしまった。だからダメなんてことではないのだけど、「2011」の2人の関係性が個人的にはあまりに良く見えすぎたために、「2020」にはちょっと惹きつけるものを感じなかったかな。でも、渡辺大知と黒川想矢の雰囲気は良かった。ってか、黒川想矢、マジで色んなところに出てくるな。
冒頭の「1995」は、テレビで観た時の印象と同じく「良く分からん」という感じだったのだけど、でも「ながら」で観ていた時と比べるとちゃんと観れたなと思う。村上春樹の物語っぽく、奇妙な、でも奇妙すぎるわけではない展開によって少しずつ日常からズレていく感じは面白いし、ずっと意味不明な状況に置かれ続ける小牧を演じた岡田将生の佇まいも良かったなと思う。「結局何も始まってないし終わってもいない」みたいな物語なのだけど、その奇妙さは悪くなかったなという感じである。
「2025」は、まあ一番意味不明な話ではあるのだが、かえるくんの声をのんが演じていたこともあり、結果的には「なんか良いよなぁ」みたいな感覚になった。しかし、「完全に違和感しかない存在」であるかえるくんが画面に出てきても、「リアルな世界観」がそこまで崩れない感じは凄いなと思う。不思議な映像だったし、物語だったなと思う。
というわけで、思ったよりも全然好きな感じの物語で良かったなと思う。
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