【映画】「前科者」感想・レビュー・解説
僕は「自分のために行動する人」が好きだ。
これは、「好き勝手生きている人」という意味ではない。一般的には「誰かのため」と捉えられる行動を、自分のためにしていると自覚している人が好きなのだ。
それが、弁護士や医者のような報酬を得る職業であっても、ボランティアや保護司のような無報酬の何かであってもいい。何にせよ、直接的に「誰かのため」になるような行動を、僕は「自分のため」にしているのだと自覚していてほしいと感じてしまう。
まあ、それは僕の勝手なワガママみたいなものだけど。
もちろん、本当に心の底から「誰かのため」という気持ち100%で行動できる人も、世の中にはいるのかもしれない。そういう人が本当に世の中に存在するなら、それは凄いことだし称賛したい。ただ、大体の人がそんなはずがないと思う。「誰かのため」という気持ちが0では無理だろうが、100%なんてこともないと思う。0から100の間のグラデーションがあり、「誰かのため」以外にも何か理由があるのが当たり前だと思っている。
そしてだからこそ、「『誰かのため』という気持ちは当然持っている、けどこれは『自分のため』にやっているんだ」と自覚している人の方が、僕は安心できる。
もし自分が前科者だったとしたら、なおさら。
映画で一番好きな場面は、女性2人がコンビニの前で話をしているシーンだ。保護司である阿川佳代が、かつて保護司として関わった元受刑者・みどりに、「更生を手助けするなんて大口叩いてきたけど、私には何もできない」と弱音を漏らす場面だ。
みどりは佳代の話を聞き、自身の子ども時代や刑務所にいた時のことを話す。親が男漁りに行く時は500円もらえる、でも一週間も帰ってこないことがあった、その時の私は世界一不幸な子どもだと思っていたけど、刑務所にはそんな人ばっかだった、罪を犯してから出会う人間は、弁護士とか検事みたいな真っ当な人間ばっかりで、世間を代表していますみたいな顔で「これからは真面目に生きろ」とか言うけど、あたしたちみたいな前科者がいるから世間の代表みたいな顔が出来るんだろ、って思ってた。そんなことを滔々と語った後で、みどりはこんなことを言う。
【でも、佳代ちゃんと会って考えが変わったんだ。私らみたいな人間以外にも、こんなに弱い人間がいるんだ、って。】
さらに、
【前科者に必要なのは保護司なんかじゃない。佳代ちゃんみたいな人だよ】
とも念押しするのだ。
とても良い場面だった。
阿川は、保護司としての自分に悩む。彼女には、どうしても振り解けない過去があり、その過去に導かれるようにして保護司になった。もちろん彼女の中には、罪を犯してしまった者たちの更生に真摯に向き合いたいという真っ直ぐな気持ちがある。しかし同時に、彼女の振る舞いからは、「私は私のために保護司をしているのだ」という雰囲気が凄く伝わってくる。
そしてきっと、だからこそ彼女は悩んでいる。前科を持つ者たちに寄り添いたい気持ちは確かだけど、私は自分のためにも保護司をしている。そういう中途半端さみたいなものが、取り返しのつかない事態を引き寄せてしまったのではないか、と。
みどりは、阿川が抱えている葛藤を具体的には知らない。しかし、「その弱さこそが武器なんだ」と背中を押す。「罪を犯してから出会うのはまっとうな人間ばっかだった」という話は、とても説得力がある。確かに、まともに生きてきた連中なんかに、自分たちの辛さが分かるはずもないだろう。でも、阿川はそれが分かる。分かるからこそ、前科者と同じ目線に立つことができる。罪を犯してしまった者たちにとって、そのことが救いになるという話は、とても良くわかる。
以前、『プリズン・サークル』というドキュメンタリー映画を観たことがある。島根県に実在する、新たな取り組みを行っている刑務所を撮影した映画だ。
その取り組みは「TC」と呼ばれている。希望者だけが参加できる、グループセラピーのようなものだ。
その中で、とても印象的だった言葉がある。受刑者の一人が、「確かに自分が加害者なのは分かっている。けど、そもそも自分は被害者だった。被害者であることを誰かが認めてくれないと、加害者としての立場に立つことができない」と言うのだ。
この言葉は、『前科者』という映画にも重ね合わせることができると思う。
世の中にはもちろん、一切同情の余地など存在しないような、まったくもって身勝手な犯罪も存在する。だから、以下の話はすべての犯罪者に当てはまるわけではない。ただやはり現実は、『前科者』や『プリズン・サークル』で描かれるようなものなのだろう。
犯罪に走ってしまう人は、親から虐待を受けていたり、児童養護施設でいじめられていたり、苦しい環境の中で誰にも助けを求められなかった人たちが多い。もちろん、そういう境遇で育った人が全員犯罪者になるわけではない。だから、環境や境遇のせいばかりにするのも正しいわけではないことは分かっている。
ただ言えることは、罪を犯さなかった者たちが、「犯罪者は悪い。だから罰を与えるべきだし、そんな奴らに人権なんかない」と思っている以上、何も状況は改善されない、ということだ。問題の本質は、罪を犯した本人には無いことも多い。だから、罪を犯した者を刑務所に入れて隔離したところで、塀の外側には問題が残ったままで、それを放置することでまた新たな犯罪が生まれる可能性だってある。
『前科者』でも、まさにそのような状況が描かれる。具体的には触れないが、この映画で描かれる『犯罪』は、「塀の内側よりも、塀の外側にこそ『悪』の本質が残っている」ことを明確に示唆するものだ。
当然だが、罪を犯した当人は悪くない、無罪放免にすべき、などと考えているわけではない。どんな理由があれば、罪を犯したなら、法が定める罰を受けなければならない。しかし、それは個々の事件をどう終結させるかという話に過ぎない。社会全体としては、「犯罪が無くなり、安全な世の中である」ことが求められるだろうが、罪を犯した者を刑務所にぶちこむだけではその実現には至らない、と言いたいだけだ。
すべての人間が保護司のように生きることなど不可能だ。しかし、自分と犯罪者とを明確に区分し、自分には関わりのない存在だと捉えることもまた間違いだろう。「犯罪者が罪を犯してしまう環境」は、広く捉えれば我々自身も加担していると言っていい。安全な世の中を希求するのなら、まず、罪を犯してしまうような背景を持つ者をどう減らせるかを考えなければならないだろう。
内容に入ろうと思います。
阿川佳代は、コンビニでのアルバイトの傍ら、保護司として活動している。保護司とは、仮釈放中の元受刑者の更生を手助けする存在で、非常勤の国家公務員でありながら無報酬である。元受刑者たちとの関わりには、大変な状況に直面することもある。そんな保護司に自らの意思でなった阿川には、今も引きずっている過去がある。
阿川は半年前から、工藤誠という殺人犯の保護司を担当している。仮釈放中は月に2度定期報告が必要で、阿川はそれを自宅で行っていた。仮釈放期間は六ヶ月、その間問題がなければ晴れて出所できる、という仕組みになっている。
工藤は自動車修理工場で働き始め、社長もその腕前と人柄を買って、仮出所が終われば社員として向かい入れると言ってくれた。とても順調だ。工藤は、あと1回定期報告を終えれば仮釈放が終わるというところまでやってきた。
一方、彼らが住む周辺地域ではとある凶悪事件が発生していた。交番勤務の警官が襲われ、奪われた銃で撃たれたのだ。幸い一命はとりとめたが、奪われた銃はまだ見つかっていない。そしてその後も、その銃を使った犯罪が起きてしまう。
警視庁の刑事である鈴木と滝本は現場を回って情報を掴もうとするが、被害者同士の繋がりが見えず捜査は難航する。しかし、ある事件で物的証拠が取れ、仮釈放中の工藤誠が捜査線上に浮かぶことになる……。
というような話です。
様々な意味で「善悪」について考えさせられる作品だ。「保護司」という、決して馴染み深いとはいえない存在を中心にして、「正しい/間違い」の境界が突き詰められていく。社会的な「正しさ」は法が決める。それは法治国家に生きている以上仕方ないことだ。ただ、社会的な「正しさ」だけがすべてではない。状況が深く描かれれば描かれるほど、「正しさ」の軸がぼやけてきて、どう考えるのが正解なのかわからなくなっていく。
しかし、自身が抱え続けるとある後悔を遠因にして保護司となった阿川の振る舞いや言葉は、「それが彼女なりの正解だ」と感じさせる力強さがある。
冒頭からして、なかなか荒々しい。担当する元受刑者が仕事に行っていないと連絡を受けた阿川は、その人の家に向かうが、元受刑者は「あの職場は私に合っていない」と言い訳ばかりする。そこで阿川はとある強硬手段を取り、元受刑者を説得するのだ。
その説得の言葉も良かった。
【あなたは今崖っぷちなんです!このままだと、奈落の底に真っ逆さまです。そうなったらもう、助けてあげられなくなってしまいます】
初めて工藤誠に会った際には、こんな風にも言う。
【頑張りすぎないでくださいね。大切なのは、「普通」だと思うんです。頑張りすぎてしまったら、それは「普通」ではありません】
「普通の保護司」をそもそも知らないので比較のしようがないが、「犯罪者や元犯罪者と向き合っている人」が発する言葉っぽくはないと感じる。「現実は厳しいのだから、ガムシャラに頑張らないと」みたいなことを言うのが「普通」な気もする。頑張ろうと思っても、色々あって頑張れなかったから罪を犯してしまったという人が多いとすれば、「頑張ろう」という言葉はなかなか厳しいものとして響くだろう。自分がもし犯罪者になってしまったら、阿川のような保護司がいいなと思う。
映画を観ながらふと感じたことは、「分からない部分があることが魅力」というのは、元犯罪者に当てはめることは難しいだろうなぁ、ということだ。映画の本質的な部分とはまったく関係ない、僕の個人的な感覚なのだが、今まで考えたことのない視点が頭に浮かんだのでちょっと考えてみた。
僕は基本的に、「掴みきれない人」に興味がある。どんな言動をするのか、どんな発想・価値観を持っているのか、全然理解しきれない人ばっかりに関心がある。僕ほどではないにせよ、「ミステリアスであることが魅力に感じる」という感覚に共感できる人はいると思う。
あるいは、「好きな人のことは何でも知りたい」みたいな意見があったりするが、こういう意見を口に出したりするのは、「それが実際には不可能なことだと分かっているから」ではないかとも感じている。望んでもそれが叶わないと分かっているからこそ、「何でも知りたい」と口にせざるを得ない、という感覚を持っている人もいるのではないだろうか。
実際、「他人のことを全部知る」ことなど不可能だし、どうしても捉えきれない部分が生まれる。それを魅力と捉えるかは人それぞれだとしても、「分からない部分」は誰にでもあるということがある種当たり前のこととして認識されているように思っている。
しかし元犯罪者に対しては、「『分からない部分』があることを良しとはできない」という感覚になることが多いかもしれない。僕は、刑務所に入るような前科を持っている人と関わったことがたぶんないので、そういう人と関係性が生まれたら自分がどう感じるのかイマイチ分からない。ただ世間一般的には、元犯罪者については「『分からない部分』があることが不安」という捉えられ方になってしまうような気がする。
どうしたって他人のことをすべて知ることなどできないのだから、誰だって「分からない部分」を持っているのだが、元犯罪者の場合はそのことが許容されない現実があるとすれば、それはしんどいだろうなと思う。というか、どうしても元犯罪者を遠ざけたいという気持ちから、「『分からない部分』があるから怖い」という捉え方を意識的にしている、ということもあるかもしれない。
私も、普段は「『分からない部分』があるからこそ興味が湧く」と考えているが、同じことが、元犯罪者と関わる際にも言えるかと考えてしまった。元犯罪者だからという理由で排除するような振る舞いをするつもりはまったくないが、「分からない部分」をどう捉えるかで、自分の無意識の行動が変わってしまいそうな気がするなと感じた。
阿川がある場面でこう口にする。
【法律や福祉だけではあなたを助けられない。それが現実です】
映画の中では、ある人物は「殺人犯は人じゃないよ」と口にする場面があるが、恐らくこれは、過大に増幅してはいるかもしれないが、世間の声そのものだろうと思う。そしてだからこそ、法律も福祉も、元犯罪者を助けられるほどに充実しない。その現実に「仕方ない」と感じる自分もいるが、同時に、「だから何も変わらない」と感じもする。
先の言葉に続けて阿川が発する言葉からは、とても強い信念を感じる。実際の保護司が、どういう理由で保護司になり、何をやりがいに感じて続けているのか分からないが、阿川が別の場面で口にした、「人が”生き返る”瞬間に立ち会えるのって凄い」という言葉も含めて、阿川のような存在は本当に社会に必要だと感じる。
ある人物が阿川に、「恋してる?セックスしてるか?」と絡むが、確かに、自分自身のために保護司を続けているのだとはいえ、それが本人にとって幸せに感じられるのであれば、一般的な幸せも是非目指してほしいと思う。阿川に救われる人にとって阿川の存在はもちろん大事だが、阿川自身にとっても阿川はとても大事だからだ。
さて最後に。エンドロールを見て驚愕したという話をして終わろう。エンドロールを見ていたら、「石橋静河」の名前が出てきた。でも、僕は石橋静河が出てきた場面がパッと思い浮かばなかった。そこでしばらく考えて、「嘘でしょ……」と思ったのだ。
あの人、石橋静河だったのか。マジでエンドロール見るまで気づかなかった。
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