【映画】「行き止まりの世界に生まれて」感想・レビュー・解説
どういう感想を持ったらいいか、難しい映画だったなぁ。良かったと思うんだけど、思ったほどの満足感はない。
内容に入ろうと思います。
ビン(アジア人っぽい顔)は、幼い頃からビデオカメラで仲間たちを撮っていた。彼を含め、皆、スケートボードに夢中だった。夢中だった、という程度の話ではない。【家族のように気にかけてくれる存在は、他にいなかった】と、その内の一人は語っていた。
彼らは、イリノイ州のロックフォードに暮らしている。映画の中では、ロックフォードに関する情報は限りなく抑制されていて、ほぼ分からない。時折、テレビなのかラジオなのかのニュース音声が挿入され、ロックフォードが全米の中でもあまり良くない環境にあることが伝わるだけだ。公式HPにはこう書かれている。
<ロックフォードは、ラストベルト―鉄鋼や石炭、自動車などの産業が衰退し、アメリカの繁栄から完全に見放された<錆びついた工業地帯>にある。2016年の大統領選で、“夢を失った”ラストベルトの人々による投票がトランプ大統領誕生に大きな影響を与えた。>
ロックフォードの状況についてはあまり分からないまま話が展開するが、彼らスケボー仲間たちの境遇が一筋縄ではないということは、徐々に伝わってくる。ザック(白人)は、若くして父親になる。幼い頃父親から暴力を振るわれていたが、しかし、子供を可愛がるその姿は、良きパパという感じだ。しかし、映画の展開に従って、ザックの見え方が揺らぐ。妻であるニナとの関係がどんどん悪化するのだ。ニナの話では、悪化していく原因はザックの態度にあるのだが、スケボー仲間たちには、妻を殴るニックを想像できない。また、ニナはニナで両親から愛情を注がれた記憶がない子供で、出産やザックとの別居などを通じて、自分が愛情に飢えているという事実を改めて確認することになる。
キアー(黒人)は、スケボーのことを家族に理解してもらえず、疎外感を覚えている。黒人であるということもまた、キアーを苦しめる。今は亡き父の、【白人の仲間がいても、黒人だってことを忘れるな】という言葉は、キアーの中に根付いている。
そして、カメラを回しているビン自身もまた、家族との関係に苦しんでいる。ビンは映画の被写体として登場することはほぼないが、実の母親にインタビューをするシーンが挿入されている。そこでビンは母親に、継父の振る舞いについて問いただすことになる。彼にとってこの映画は、【前に進むため】のものだ。
ビンが幼い頃から撮っていた、スケボーを楽しむ仲間たちのはつらつとした姿を随所に挟み込みながら、否応なしに大人にならざるを得ない現実と、【ここにいたら心が蝕まれていく】と表現せざるを得ない故郷の惨状とが絡まり合い、そこに生まれてしまったが故に抜け出せないもどかしさを切り取っていく…。
というような話です。
確かに面白かった、と思う。けれどそれは、なんというか、「生涯で一度使えるかどうかという飛び道具に対する面白さ」なのかな、という気がしている。公式HPに「若者3人の12年間を描く」と書いてあるので、おそらくビンは、10代の前半から映像を撮り続けていたのだと思う。まず、その過去の映像が無ければ、まずこの作品は成立しなかっただろうと思うのだ。スケボーかどうかということは重要ではないが、ドキュメンタリーとして追うことが難しいだろう、「なんでもないごく一般人の、子供時代からの成長の記録」という、結果的に手にすることになった状況を実にうまく利用していると思う(「結果的に手にすることになった」と書いたのは、ビンが10代前半に撮影を始めた時点で、こういうドキュメンタリー映画の形で世に出すことを決めていたとは思えないからで、仮に最初からそう思っていたんだとしたら称賛に値すると思う)。
そういう、「狙って手にすることが出来るわけではない状況」を巧みに利用しているという点で、この作品は面白くなっていると僕は感じるし、それは、この作品単体で評価する分には何の問題もないと思う。また、きっとだけど公開されたタイミングも良かったんだろう。2018年に公開されているということは、トランプ大統領に期待して票を投じた人たちも、徐々に失望を感じるようになっていた時期なんじゃないかと思う。そういう中で、見捨てられつつある街を、その街の中でも見捨てられつつある若者たちを撮り続けることで切り取っていくこの映画は、非常に受け入れられやすかっただろうな、と感じる。
でもじゃあ、「ビン・リュー」という監督の手腕が、この映画を面白くしているんだろうか、と考えると、どうなんだろう、と思ってしまう。僕の感想としては、あくまでも「ドキュメンタリー映画として使う予定じゃなく撮り続けていた大量の素材があった」「公開のタイミングが良かった」ということで高い評価に繋がっているんじゃないかなぁ、と邪推してしまう。
まあ、そうだとしても、繰り返しになるけど、この映画単体の評価としては問題はないのだけど。
映画はひたすら、ミニマムで個人的なところにフォーカスしていく。ロックフォードという街の現状とか、アメリカの政治とか、家庭内暴力の現状とか、そういう社会性はほとんど覗かせない。ひたすら、ザックの子育て、ザックとニナの喧嘩、キアーが低賃金で働かされるレストラン、スケボーの練習などなど、ビンの周辺で起こっている状況にカメラを向けていく。
そのやり方は、とても良かったと思う。この映画の核となる部分は、「撮影者も、被写体と同類だ」という点にあるからだ。普通ドキュメンタリー映画の場合、撮影者と被写体は同じ境遇にはない。まったく別の立場にいる者によって、撮る・撮られるという関係が生まれる。しかし、ビンは撮影者でありながら同時に、被写体であるスケボー仲間たちと境遇を同じくする者だ。そして、そういう撮影でなければ撮れない映像に溢れている。
ザックがマリファナを吸っていたり、キアーの母親に「新しい彼氏ができたのか?」と無遠慮に聞いたり、ザックがいない状況でニナと叔母さんのやり取りを撮影したりする。普通なら入り込めないだろうパーソナルな部分に入っていけるのは、撮られる側がビンを同類だと思っているからで、だからこそ、ひたすら個人的な描写が続くこのドキュメンタリー映画が、異彩を放ちつつ映画として成立していると感じる。
この映画では殊更に、特定の何かを悪く描き出すことはしない。現状をひたすら切り取り、そうなった原因について触れる箇所があっても、「結局自分のせいなんだろうな」という感じの独白をいくつか折り重ねている。たぶん本当は、もっと、彼らは怒っていいんだろう。彼らは、決して「真面目」というわけではないが、しかし、生まれたのがロックフォードでなければもっと真っ当にいられたんじゃないかと思う程度にはしっかりしていると思う。つまり、何かの犠牲者のはずだ。しかし、その「何か」を切り取らないし、彼らもその「何か」のせいにしない。
そういう描写に何を感じるのか、いろんな受け取り方があるだろうけど、僕が感じてしまったのは「諦め」だ。そして、割といつも笑顔でいる彼らが結果的に醸し出しているその「諦め」を、僕は非常に寂しく感じた。30代のオッサン(僕のこと)が諦めるのは別にいいけど、10代の若者が諦めなきゃいけない環境っていうのは、やっぱり違うよなぁ、と思う。
僕が一番印象に残ったのは、ザックにビンが話しかけている場面。ザックが、「子供の頃の暴力のことがあってこんな風になってるのかもなぁ」みたいなことを言った後、ビンが、「僕も継父から殴られてたけど、今こんな感じだよ」みたいに言う。それを受けてザックがこう返すのだ。
【ネガティブな経験をしても、それを力強くプラスに変えて生きられるやつもいる】
でも俺は違った、という感じの発言だった。
僕は、ビンのような発言、つまり「過去がネガティブでも、ちゃんとしてる人もいる」ということを、訳知り顔で口にする大人が嫌いだ(ビンは、ビン自身がそういう経験をしている人だから、発言する権利はあると思うし、不快ではない)。何故かこういう発言は、「辛い境遇を経た人間をより頑張らせる言葉」として機能しがちだけど、僕は普通に考えて、「辛い境遇を経た人間を褒め称える言葉」として機能すべきだと思う。つまり、「過去がネガティブでも、ちゃんとしてる人もいる」と言うのではなく、「過去がネガティブなのによくここまで頑張った」という方向性であるべきだと思う(そういう褒められ方が好きではない人ももちろんいると分かっているけど)。
遠く離れた場所から、なんとか生き延びてくれと願うくらいしか出来ないけど、こういう現実が知られることで、僕は、「不幸が連鎖・再生産されない環境づくり」を、世界全体で目指すべきだよなぁ、と伝わってくれるといいと思う。
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