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【本】宮下奈都「羊と鋼の森」感想・レビュー・解説

『僕は、ほとんどのことに対してどうでもいいと思ってきた。』

主人公が、そう述懐する場面がある。


僕も同じだ、と思う。その感覚は、とてもよく分かる。自分を湧き立たせるもの、それさえあれば生きていけるという杖のようなもの、その背中をずっと追っていきたいと思えるようなもの。僕には昔からずっと、そういうものが何もなかった。


僕が生きてきたそれぞれの時代で、何かにハマっている人というのはたくさん見てきた。スポーツだったり、ギターだったり、マンガだったり、野球の応援だったり。対象は、なんだって構わない。僕はそういう人を見る度に、羨ましいなぁという気持ちを拭い切れないでいる。そんな風に思えるものがあっていいなぁ、と。僕には、未だに分からないのだ。何かに執着し続けるということが。何かを追い続けるということが。いつだって手放せるもの。そういうものだけで、僕の人生は出来ている。


子供の頃は、好奇心や資質の問題だろうと思っていた。僕は、好奇心が人より薄かったり、あるいは、何かに没頭するという資質が足りないのだろうな、と。


でも大人になって時折考える機会があると、徐々にある結論に行き着くようになった。


たぶん、怖いんだろうなぁ、と。


いつだって手放せるものは、失ってしまったところで自分をそこまで大きく傷つけはしない。自分が本気にならなければならないほど、それが消えてしまった時の喪失感は最小限で済む。たぶん僕は、そんなことばかり考えている。その恐怖心が、僕の根っこをぎゅっと押さえつけているから、どれだけ好奇心や資質が僕にあったって、自由には羽ばたけないのだろう、と。
冒頭の主人公の言葉は、さらに続く。

『わがままになる対象がきわめて限られていたのだ。』

主人公も僕と同じように、恐怖心が先に立っていたのかどうかは分からない。単純に無関心だっただけかもしれないし、関心のあるなしではなく、視界に入るものがただ絶対的に少なかっただけかもしれない。しかし主人公は、ある瞬間までは僕と同じ世界にいたはずだ。物事に執着せず、何も追わないような世界に。


しかし主人公は、「それ」を見つけた。『わかりたいけど無理だろう、などと悠長に考えるようなものはどうでもよかった』と言い切れるほど、自分の中で絶対的なものを見つけた。考えるよりも先に、頭が働くよりも先に、心がぎゅいんと動いてしまうようなものに、出会ってしまった。


僕も、出会えるだろうか、と考えてしまう。『わかりたいけど無理だろう、などと悠長に考えるようなもの』にしか出会えていないような気がする僕にも、何か心が鷲掴みにされるようなものに出会えるだろうか、と思ってしまう。そういうものに出会える人生が、必ず豊かであるのか、それは今の僕には判断できないのだけれど。

その調律師に会ったのは、たまたまだった。


たまたま普段から何か頼まれることが多い人間で、たまたまその日教室に残っていて、だから担任が外村にたまたま用事を頼んだ。4時に体育館に人を案内してくれ、と。


そして外村は体育館で、森の匂いを感じることになる。


案内したのは、調律師だった。17歳だった外村は、調律というのが何なのか知らなかった。この人だろうという人を体育館まで案内したら、すぐ帰るつもりだった。実際に体育館から出る廊下に出ようとした。その時だった。
ピアノの音が聞こえて、そして、森を感じた。秋の日の、夜になりかける頃の森を。


ピアノを弾いたことはなかった。ピアノというものを格別意識したこともなかった。しかし外村は、触れてしまった。ピアノが奏でる広大な世界に。そして、その世界を司る調律師という職人に。


外村はやがて、板鳥という名のその調律師に弟子入りしようとし、彼に紹介された学校に入学する。板鳥氏の紹介もあって、彼と同じ楽器店に調律師として雇われるようになる。


目の前には、先の見えない世界が広がっている。学校で習ったことだけでは一切通用しない、正解の存在しない世界に外村は立つ。

『この仕事に、正しいかどうかという基準はありません。正しいという言葉には気をつけたほうがいい』


『ホームランを狙ってはだめなんです』 

板鳥氏がそんな風に表現する世界に、外村は自らの意志で立っている。
しかし外村は、立ち止まってはいられない。

『ピアノが、どこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう』

外村にはまだ、色んなことがはっきりとは見えていない。自分がどこに向いたいのか、何をしたいのか、どうありたいのか。様々なぼやぼやに囲まれながら、外村は、かつて感じたあの森の匂いを、その時に掛けてもらった言葉を頼りに、ゆっくりと歩み続ける。

外村は、基本的には自分に自信がない人間だ。外村が就職した江藤楽器には、優秀な調律師が揃っている。板鳥氏は別格としても、新人の外村について教育係をしてくれた柳や、ひねくれたような意見を言う秋野など、皆優秀な調律師だ。そんな中にあって外村は、自分の未熟さにもがき、その未熟さをみんなが慰めてくれることに歯がゆさを感じる。

『あきらめはしない。ただ、あきらめなければどこまでも行けるわけではないことは、もうわかっていた』

『でも、つらくはなかった。はじめから望んでいないものをいくら取りこぼしてもつらくない。ほんとうにつらいのは、そこにあるのに、望んでいるのに、自分の手には入らないことだ』

『怖がっても、現実はもっと怖い。思うような調律はぜんぜんできない』

しかし外村は、一方でとても強い。強いというか、どうにか踏ん張らなければやっていけない、というだけのことかもしれない。ピアノを弾いていたわけでも、耳が特別良いわけでも、手先が凄く器用なわけでもない。そんな外村が、調律師としてやっていくのは、並大抵のことではない。その強さが外村の元々の資質なのかどうかは分からない。山奥で生まれ育ったという経験が関係しているのかもしれないし、圧倒的な才能を持つ人たちに囲まれているという環境がそうさせる可能性もある。とにかく、外村が持つ強さみたいなものは印象的だった。


たとえば、著名なピアニストの公演用に板鳥氏が調律をする場に立ち会わせてもらった時。今の自分との差に圧倒されながらも、外村はこんな風に考える。

『そこにある、とわかっていれば、今はどんな場所にいてもかまわないのではないか』

恐らく板鳥氏との差は永遠に詰まることはないし、そこに近づくこともほとんど不可能だろう。しかし、それの存在を実感できさえすれば、それと今の自分との距離に関係なく、そこに向かって進んでいける。外村はそう実感する。絶望的な差に叩き落とされるような気持ちになりながらも、そこによろこびの予感を見いだす。


また、調律師と才能という問題について先輩と話していた時、当然才能も必要だ、という主張する先輩の言葉に、ほっとしたような気持ちになる場面がある。才能がないんだから仕方ない、そんな風に思うのは楽だ、と感じる場面がある。しかしそこで外村は考えなおす。


『でも、調律師に必要なのは、才能じゃない。少なくとも、今の段階で必要なのは、才能じゃない。そう思うことで自分を励ましてきた。才能という言葉で紛らわせてはいけない。あきらめる口実に使うわけにはいかない』

こういう強さが、外村にはある。


僕は、誰かの凄い話を聞く度に、「自分には無理だ」と感じる。「それはもう人間じゃない」という言葉を使って、諦めを表現することもある。特に最近は、そういう機会が多い。今僕は、ちょうど様々な環境ががらりと変わるタイミングにいる。そうした中で、様々な人と喋ることで、落ち込むような気分になることは多い。あまりにも高みにいる人、あまりにも遠くにいる人、そういう人たちの話を知れば知る程、自分がどうしていいのか分からなくなっていく。

『道は険しい。先が長くて、自分が何をがんばればいいのかさえ見えない。最初は、意志。最後も、意志。間にあるのががんばりだったり、努力だったり、がんばりでも努力でもない何かだったりするのか』

僕も、しばらくの間、外村のような状況に置かれ続けることだろう。自分に何が出来るのか、どうなりたいのか、そういうこともよく分からないまま、前だと信じる方向に進んでいくような日々。正解はないのに正解を追い求めたくなるだろうし、自分の実力のなさに落ち込むことだろう。『迷子だったことにも気づかなかった』という状況に、陥りさえするだろう。


外村は、それでも諦めない。それは、逃れられない世界を知ってしまったからだ。自分もそこにいたいと思わされる世界を知ってしまったからだ。
僕はどうだろう。

外村の人間性でもう一つ、印象的だった部分がある。ある種の盲目さが、外村という人間には眠っている。

『外村ががんばってるのは無駄じゃない』 

そんな風に先輩から声を掛けてもらった外村は、意外な反応を返す。

『よくわかりません。無駄ってどういうことを言うのか』

凄い答えだ、と思った。外村は、最短距離を疾走出来るほど、器用でも才能があるわけでもない。だからきっと、様々な回り道をしているはずだ。しかし外村は、無駄だと感じることがない。無駄という概念が、理解できないという。


他にも印象的な場面はある。事務の北川さんが「美人」であることを先輩に教わるまで気づかなかったとか、顔では見分けがつかない双子の、高校の制服が違うことにも言われなければ気づかないとか。


たぶん外村には、抽象的な概念も、物質的な物事も、意識されないのだろう。自分にとって大事なものしか意識されないから、「無駄」と感じることもないし、普通気づくはずの違いにも気づかない。対象を自ら選びとるという意味での「熱さ」は外村にはないように思えるのだけど、必要ではないものを無意識的に削ぎ落とすことによって必要なものに注力するという意味での「熱さ」は持っている、ということなのだろう。外村が江藤楽器に採用されるのには、板鳥氏の強い推薦があったようで、多くの人はその理由が理解できなかったようだ。調律師としてどんな風になっていくのかイメージが湧かなかった、とも言われた。しかし、板鳥氏はきっと、外村のその盲目さを見抜いていたのだろう。今では、外村みたいな奴が先に進んでいくのかもしれないな、と言われるほどだ。

本書は、ピアノの調律という、なかなか一般には馴染みのない人たちが描かれる物語だ。しかし、この中で描かれる「ある問い」は、ピアノの調律だけに留まらず、世の中のあらゆる場面で普遍的に議論され、誰も答えを見つけられないままでいる、そういうものではないかと思う。


その問いというのは、「ピアノの調律を、どこまでやるか」というものだ。これは、江藤楽器の調律師の間でも、意見は揃わない。だから時折、議論になる。

外村は、自身が調律するピアノを、最良と信じる状態に持っていくことが大事だと考えている。もちろん、お客さんの要望も大事なのだけど、しかしそのピアノの能力を最大限まで引き出してあげることこそが、調律師のあり方なのではないか、と。

『わからないだろうと思われて一律の調律しかしてもらえない人のことを思うと胸が重たくなる。もしかしたらわかるようになるかもしれない。秋野さんの調律した音を聴いてピアノに目覚める可能性だってあるのではないか』

『(お客さんが求めた通りに調律することについての話の後で)だけどそれは。だけど、それは、可能性を潰すことにならないか。ほんとうに素晴らしい音、心が震えるような音と出会う可能性。僕が高校の体育館で出会ったように』


一方で秋野は、お客さんの要望をベースに、お客さんの力量にあった調律をするべきだ、と考えている。それを秋野は、50ccのバイクとハーレーで例えている。確かにピアノを調律すれば、ハーレー並の能力を引き出すことは出来る。しかし、そうしたところでその持ち主はハーレーを乗りこなせない。ものすごく反応よく調整したら、技術のない人にはかえって扱いづらい。だから、50cc並の調律にするのだ、と。

『(ハーレ-も練習すれば乗れる、という外村の反論に)乗るつもりがあるかどうか。少なくとも、今はまだ乗れない。乗る気も見せない。それなら50ccをdけいるだけ整備してあげるほうが親切だと僕は思うよ』

これはとても奥深い、難しい問題だと感じる。本を勧めるような場合でも、同じことを感じることはある。自分の中でとても良い本があったとして、でもこの本が良いと思えるのはかなりたくさん本を人だろうな、と思ってしまった場合。その本を、普段あんまり本を読まない人に勧めるのはどうなのだろう、とか。テレビにしたって、お客さんが見たいのだろうという情報を提供するのか、あるいはこれはテレビとして報じる価値があるものだというものを届けるのかという問題は常にあるだろうし、どんな業界でも同じような問題はあるだろうと思う。


外村の意見も、秋野の意見も、どっちも理解できてしまうから厄介だ。でも僕は、人間の認識には限界があると思っている。人間が認識できるその外側に、遥かに広大な世界が広がっていると思っている。だから、ある個人の枠の希望に沿うのではなく、より広い世界を見せてあげられる方が良いのかな、と外村を指示したい気持ちになる。しかし、使いにくい道具はやっぱり困る。理想的には、使う人間の上達度に合わせて適宜調律を変えることが出来ればいいのかもしれないけど、調律というのは大抵半年から一年ごとだという。そういう特殊さも、この問題をより難しくしているのだろうなと感じる。

調律の難しさはまだまだある。柳と一緒に顧客の家を回っていた外村は、柳がお客さんの要望通りに調律しなかった、という事実を知る。長いこと使っていなかったピアノを、「元の音に戻して欲しい」と依頼されたのだが、柳は敢えて、よりよい音になるように調律したのだという。

『あの人が欲しいのは、忠実に再現されたピアノじゃなくて、しあわせな記憶なんだ。どっちみち元の音なんてもうどこにも存在しない。だったら、あのピアノが本来持っていた音を出してやるのが正解だと俺は思う。やさしい音で鳴ったら、記憶のほうがついていくさ』

一方外村自身は、こんな経験をする。孫に絶対にいい音の出るピアノで情操教育をしたいというお客さんで、「絶対にいい音か」と聞かれた外村。そこで、「はい」とは言えなかったという。これが絶対にいい音なんだ、と言われて情操教育される孫の気持ちを考えてしまったから。

『絶対に、という言葉を使うなら、絶対にこの音がいいと僕は思っています、と答えました』

そして外村は、担当を変えさせられてしまう。
調律に正解はない。「調律師に一番必要なものはなにか」という外村の問いに、様々な回答が出るが、その中の一つに「あきらめ」というのがあった。秋野だ。「諦めなかったらどうなるんです?」と聞いた柳に、秋野はこう答える。

『いつまでもあきらめられなかったら、いつか気が狂うんじゃない?』

どこかで区切りをつけなくてはいけない。どれだけやっても完璧には届かない。これでおしまいだ、というあきらめを、自分でつけなくてはいけない。正解がないからこそ、どこかで自分っでピリオドを打たなければならない。自分でピリオドを打つからには、理由を言語化することが出来たり、自信を持っていなければならないのだろう。

「調律師に一番必要なものはなにか」という問いに、板鳥氏は「お客さん」と答える。板鳥氏は作中、さほど登場しないのだけど、こういうところで印象的なことを言うから憎い。

『俺たちにだって目指す場所はあるはずです』

調律師は、ピアニストの陰に隠れて、なかなか表舞台に上がることはない。良い演奏は、ピアニストの手柄になってしまうのだろう。しかし、調律師がいかにして音楽の世界を支えているのか、どれほどの技術でピアノを存在させているのか、その一端を垣間見ることが出来た。音楽とはほぼ無縁の生活をしてきたので、正直ピアノのことはよく分からない。けど、自分の仕事に真っ直ぐ向き合うこと、ピアノの向こう側にいる人間ときちんと関わること、自分に何が出来るのかと悩むこと。そういう普遍的なことが描かれている物語で、今の自分のいる状況も相まって、じんわり染みこんでくるような物語だなと思います。是非読んでみてください。


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