誰か殺してくれねーかな
割といつも考えている。
「誰か殺してくれねーかな」って。
(※誰もが読めるように公開しておいてなんですが、一応、自分の頭を整理する用の文章です)
昔は「死にたい」と思ってた。早く死にたいなーと。
でも段々と、それはちょっと不正確だと思うようになった。
というのも、「死にたい理由」が特別あるわけじゃないかだ。今後はともかく、とりあえず現状はお金に困ってはいない。いじめやDVや暴力にさらされてるわけじゃない。何か耐えきれないストレスを抱えているわけじゃない。親の介護やら子育てに携わってもないし悩んでもいない。
色々考えてみても、積極的に「死にたい」と思う理由は見つからない。
そう思うようになってから僕は、「死にたいわけじゃなくて、生きていたくないだけなんだろうな」と考えるようになった。
死にたいわけじゃないけど生きていたくない。それを表現するのに一番しっくり来る言葉が、「誰か殺してくれんねーかな」だ。
もちろん、実際に誰かに殺されそうになったら、脊髄反射で逃げたり、やっぱり死にたくないと意識的に拒絶するかもしれない。実際どういう反応になるのかは分からない。けど、積極的な理由がないから死ねないことは分かっている。実際に試そうとしたこともあるけど、やっぱり無理だった。今後、「死にたい理由」が蓄積される状況になれば自殺できるようになるかもしれないけど、当面は無理かなと思う。
だから、誰かに殺してもらうしかないよな、と思う。なんとなく漠然と、そんな瞬間をいつも待ちわびている。
それがなんであれ、「生きたい理由」がある人は羨ましい。もちろん、「生きたい理由」を持っている人だって日常の中で辛いこともあるだろう。そんな風に羨ましがられても迷惑だとは思うのだけど、僕はどうしても、まずその「生きたい理由を持つ」というステージに上がれないから、どうしても羨ましさが勝ってしまう。
昔から、「読書は暇つぶし」と発言してきた。「趣味は?」という質問に対しての返答だ。僕の中で「趣味」というのは、「生きたい理由」に分類されるものという印象がある。同じように「将来の夢」とか「人生の目標」とか「やりたいこと」などもすべて「生きたい理由」だろう。僕にはそんなものはない。だから、「本は読んでいるけど、それは趣味じゃなくてただの暇つぶしだ」という返答をいつもしていた。
子供の頃からずっと、「将来の夢」とかまったくなかったし(諦めたとかじゃなくて最初からなかった)、僕にとっての日常は「やりたくないこと」が蓄積されていくような印象の方が強かった。やりたいことは全然現れてくれないのに、日々、やりたくないことはボコボコと生まれていく。やってらんねーな、と思っていた。
子供の頃は、「自分がこんな風に考えてしまうのは、自分が子供だからだ。大人になればそうじゃなくなるはずだ」みたいに、将来の自分に対する期待感を持っていた。というか、そういう期待感を持ってなければ毎日を乗り越えられなかった。子供の頃だって別に、特段辛いことがあったわけじゃない。客観的に見れば、スポーツはともかく勉強は非常によくできる、友達もそこそこいる、中の中か上ぐらいのヒエラルキーの人間だったと思う。それでも、毎日をやり過ごしていくのはしんどかった。
もう十分に大人になった。つい先日、38歳になった。未だに、子供の頃とそんなに大差のない「やってらんない感」を抱えている。
もちろん、考え方・価値観は大人になって変わった部分も多くある。10代・20代の自分と比べて「成長したな」と感じる部分も無いでは無い。でも、だからと言って、「生きたい理由」が手に入ったわけじゃない。それどころか、「大人になったら変わるはず」という期待感を捨てなければならなくなったために、子供の頃よりも余計しんどくなっている部分もある。
僕はいつも、ガス欠の自動車を連想している。もしかしたら車体は非常に高性能かもしれない。僕は、「やれば割となんでも出来ちゃうタイプ」の人間ではあるので、そういう意味ではスペックの高い車と言っていいかもしれない。でも、ガソリンがない。常にガソリンがないから、スペックがどれだけ高かろうがまったく性能を発揮できない。たまに、ふとした拍子にちょっとだけ給油されることがある。そういう場合は、瞬間的にちょっと楽しさを感じたりはする。でも、長続きしない。継続的にガソリンを補給する手段が分からないからだ。砂漠で運良くオアシスを発見するみたいな感じでしかガソリンが手に入らず、そのせいで大体いつもノロノロ進むか止まるかしかできないでいる。
困るのは、「止まっててはいけない」というなんとなくの圧みたいなものを感じてしまうことだ。「働かざる者食うべからず」とか「諦めたらそこで終了ですよ」みたいな、直接間接に「価値を生み出さない人間は不要」みたいな雰囲気がどうしてもあって、そういう高波が押し寄せる海で日々溺れそうになっている。
本来的には、人間が生きていく上で「価値を生み出す」なんて要素は必要ないと思う。けど、「生きるためにはある程度お金が必要」→「お金を得るためには社会に何か提供できる価値が必要」という背景がある以上、そういう無言の圧力から逃れるのはなかなか難しい。
僕は、「お金を稼ぐのが不得意であること」に劣等感を抱くことはあまりない。それは、個人の能力だけに比例するのではなく、時代背景やテクノロジーの進化などと無関係ではいられないと思うからだ。今稼ぎまくってるYouTuberやインスタグラマーが江戸時代に生きていたらまったく稼げないお荷物かもしれないし、現代において無農薬農業をしている人は江戸時代で稼ぎまくっているかもしれない。
だから、お金を稼ぐのが不得意なことで落ち込むことはないのだけど、でもやっぱり現実的にお金はある程度ちゃんと必要だ。
「やりたいことは無い」と書いたけど、決して無いわけではない。例えば、僕は割と本当に「困っている人を助けるような活動」はやりたいと思う。自分のために何かをするというのはあまり気力が湧かないけど、困っている誰かのためになることならたぶん頑張れる。
ただこれは、そもそも僕がちゃんと安定して生活を成り立たせられなければできないことだ。僕は、将来に渡って自分がちゃんと安定的に稼いで自分の生活を成り立たせる自信は全然ない。そんな状態で「困っている人間を助けたい」みたいなことを言っててもなかなか上手くいかないだろう。
お金がすべてではないけども、お金があることで解決することも多い。僕の場合であれば、お金が潤沢にあれば生活が安定して成り立ち、それによって困っている人を助ける活動に従事できるようになり、それが「生きたい理由」になるかもしれない、と考えることはできる。
ここまでで書いたような話をざっくり誰かに話してみると、「チャレンジしてないから人生つまんないんだよ」とか「失敗を恐れてたらもったいないって」みたいな反応になることもある。そういう時、「問題の伝わらなさ」に絶望する。
そんなことを言ってるんじゃない。
それは、ガソリンが入っていないのに車に乗っているっていうだけの理由で、「車があればどこにだって行けるじゃん」「こんなところで停まってるなんてもったいないよ」って言ってるみたいなものだ。いやいや問題は、動いてないこととか停まってることじゃなくて、ガソリンが無いことなんだよ、ということが伝わらない。
そういう人の中にはきっと、「ガソリンが無いという状態」が想像できないという人も多くいるんだろうと思う。別にそれは仕方ないと思う。実感できないものを、理解したり共感したりすることは難しい。でもだからと言って、「車に乗ってるんだからガソリンなんて当然入ってるでしょ」的な扱いに苛立ちを覚えることは結構ある。
38年間、ずっととは言わないけどほとんどの期間ガソリン無しで生きてきたので、これからもきっとガソリン無しで生きるしかないのだろう。めんどくさ。
だからどうしても考えてしまうのだ。
誰か殺してくれねーかな。
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