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マルハラはとても興味深い

いつの頃からだったか忘れたが、「マルハラ」という言葉を聞くようになった。「文末に『。』がつくと怖いと感じる」みたいな感覚のことだ。

この感覚、僕も分からないではない。「マルハラ」という言葉が生まれるずっと前から、「『。』ばっかりの文章は嫌だな」と思っていた。なので今も、仕事が絡まない場合は「!」とか「~」とかを文末に付けるようにしている。

で、「マルハラ」という言葉が出てくるようになってから、タイミングがある時に年下の友人に「マルハラ」について聞くようにしていたのだが、やはり「『。』がつく文章はちょっと怖い」と言っていた。若い世代にかなり共通した感覚みたいだ(「ハラスメント」と感じるかどうかはまた別の話のようだが)。「記号や絵文字も選べるのに、その上で『。』で終わらせるの!?」みたいな感じなんだろうか。

とにかく若い世代は、「。」1つからも意味を汲み取ろうとする、実に繊細なコミュニケーションを取っている(さながら俳句的ではないだろうか?)。「相手を不快にしたくない」という感覚がとにかく強いのだろう。これに関して、以前読んだ『現代思想 <友情>の現在』の中に、「Zenlyという位置情報共有アプリを使った関係性」に関する文章があり、その中に書かれていたことが印象的だった。該当する箇所を引用しておこう。

こう考えると、先に述べたBさんのアプリの使い方にも、空気を読んで「察する」配慮が見てとれる。まず相手がどこに何時間滞在しているかをアプリで確認し、相手の状況を推測する。そしてゲームや遊びに誘える状況にあると判断したら、そこで初めてLINEを使って相手にアプローチする。相手に直接打診する前に位置情報共有アプリで相手の現状を読み取り、誘うタイミングをうかがっているのだ。このように、位置情報共有アプリでは情報の受け手が能動的に働き方、配慮に基づく簡略化したコミュニティが行われている。

鈴木亜矢子 位置情報を交換する若者たち

とにかく「配慮する意識」が強いというわけだ。あるいは、以前観た映画『きみの色』の山田尚子監督が、『きみの色』を制作するに当たって作った企画書に書いた文章が公式HPに載っていたのだが、それも印象的だった。

思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、
すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。
すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、
今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほどよく考えているな、と思うことが多いです。
「自分と他人(社会)」の距離のとり方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。
表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、
目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。
ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。
彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。
「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。

「清潔」という表現が実に絶妙だなと思う。若い世代の感覚を「繊細」と捉えるとマイナスな印象にもなるかもしれないが、「清潔でいたい」と解釈するととても健全なものに感じられる。

何にせよ、「マルハラ」という捉え方で「若い世代が問題だと感じていること」が可視化されたのは良いことだと思う。世の中にはとにかく、コミュニケーションが雑な人もかなり多くいるからだ。「『。』さえも怖いと思われてしまうのか」みたいな認識が広まることは、そういう「雑な人間」をある種牽制することにもなるだろうし、そういう意味でも興味深いなと思う。

何にせよ、「本質的には『。』が嫌われているわけではない」と認識することがまずは重要だろう。より本質的なのは、「若い世代なら当然のように出来るコミュニケーションが、それ以外の世代には『高度』に感じられて、どうにも通じない」という点だろう。この点にこそ、嫌悪感を抱かれているのだと思う。

さて、興味深いのは、「欧米でも同じようなことが起こっているらしい」ということだ。英文の最後に「.(ピリオド)」をつけることをZ世代が嫌がっているというのだ。どうやら世界的な潮流らしい。

全然関係ない話だが、この話を知って思い出したことがある。「サピア・ウォーフの仮説」と呼ばれるものがあり、これは「言語が世界観や思考に影響を与える」という考え方なのだが、その具体例が興味深かった。欧米には元々「肩こり」に該当する単語は存在しなかったそうだが、日本語(というかアジアの言語)に「肩こり」があると知ったことで、欧米人は「肩こり」を感じるようになった、という話である。「マルハラ」ももしかしたら同じように、「どこかの国(日本かどうかは分からない)で生まれた感覚を知った他の国の人が、『自分もそうだ』と気づいた」みたいな状況なのかもしれない。しかしホント、世界的に同じような感覚が広まっているのは不思議である。

ただ、1つ考え得る背景としては「コミュニケーションツールの変化」があるのかもしれないとは思う。現在42歳の僕は、子どもの頃から「メール」が基本だった。メールは、送ってから戻ってくるまで相応のタイムラグがあるのが普通なので、「一度にたくさんの情報を書いて送る」のが当たり前だし、だから文章にも区切りとしての「。」がどうしても必要になる。

しかし、LINEのような「1ブロック毎に文面を送れて、しかもそれが即時反映される」みたいなコミュニケーションツールの登場によって、「『。』を書かずとも、『1ブロック1文』というやり方で文章を区切れる」ようになった。これによって「『。』は別に必要なものではない」という感覚になり、しかし上の世代からの連絡には必ず「。」が含まれるため、「なんかちょっと嫌だ……」みたいな風潮になっていったのかもしれない、みたいな推測は出来るように思う。

一方で、僕ぐらいの年齢の人間はむしろ、「ビジネスメールで『!』や『~』を使うのは非常識」みたいに教わっているので、それもあって文面が「。」ばかりになってしまう、みたいな側面もあるだろう。僕は仕事で関わる人とのやり取りでも、なるべく自分から「!」「~」を使って崩すようにしていたが、まあ普通は許容されにくいはずだ。この辺りも「マルハラ」と受け取られる背景として絡んできそうだなと思う。

さて最後に。「マルハラ」について考える中で、「若い世代が電話を苦手だと感じる理由」も少し想像できたような気がした。繰り返すが、若い世代は「。」1つにさえ意味を見出そうとする。つまり、情報が増えれば増えるほど「気を配る要素」も多くなっていくというわけだ。で、電話というのは「話す内容」に限らず、「声のトーン」や「(自分が電話を掛けた側であれば)相手が今どんな状況であるか」などにも神経を尖らせる必要がある。しかも、まさにコミュニケーションを取りながらそういう配慮にまで気を配らなければならないのだ。つまり、「気にすべき要素が多い」「事前に考えたり確認したりしにくい」みたいな点が嫌われる理由なんじゃないかなと思う(まあ僕も、また別の理由で電話は得意ではないのだが)。

何にせよ、個人的には、コミュニケーションに対して繊細(清潔)であろうとするスタンスはとても好ましいと感じるし、そういう繊細(清潔)なコミュニケーションと関われたらいいなとも思っている。

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