「孤立」と「孤独」の違いから考える、「孤独」の難しさ
最近よく、「孤立」と「孤独」について考える。どちらについても、日常的によく感じることだからだ。しかし大事な点は、「『孤立』している時に『孤独』を感じるわけではない」ということ。少なくとも、僕の場合はそうだ。ここに「孤独」の難しさがある。
まず僕なりに、「孤立」と「孤独」を定義しよう。辞書的な定義は様々あるだろうし、人によっても捉え方は違うと思うが、僕が一番重視するポイントは「客観的に判断可能か」という部分だ。
「孤立」というのは基本的に、客観的に判断可能な状態だと考えている。外から見て、「あの人は孤立している」という風に捉えることができる、という意味だ。具体的に書けば、「大勢の中にいるのに一人ぼっちでいる」「人前にあまり出てこない」などの状態を指しているというイメージである。
一方「孤独」というのは、客観的に判断できない状態だと私は考える。つまり、「心の状態」を指しているというわけだ。あくまでも「内面」の話であり、外から見て「あの人は孤独である」と断言することに意味はない。非常に主観的な指標であり、客観的な状況が同じであっても、「孤独」を感じているかどうかは人によるとしか言えない。
このように、「客観的に判断可能か」という点で「孤立」と「孤独」は大きく異なると私は考えている。
さて次は、一般的に「孤立」と「孤独」がどのように捉えられているかに触れよう。あくまでも私の印象だが、多くの人が「『孤立』していると『孤独』を感じる」と認識しているのではないかと思っている。これは、当事者も支援者も同じだ。
「『孤立している当事者』が『孤独』を感じるかどうか」という点は、今僕が書いている文章においてはどちらでもいい。先程触れた通り、「孤独」は主観的な「心の状態」なので、どういう時に「孤独」を感じるかは人それぞれだからだ。世の中には、「孤立」から「孤独」を感じる人もいる。別にそれでいい。
しかし問題なのは、支援する側が「『孤立』状態を解消しなければ『孤独』を解決できない」と考えることだ。いや、この点についても「そうせざるを得ないだろう」という気持ちはあるのだが、「『孤立』している人は皆『孤独』を感じているし、『孤独』な人は皆『孤立』している」という発想しか前提に無いとしたら、それは困る。数学的に言うと、「孤立していること」と「孤独を感じること」を「必要十分条件」と捉えてしまうと、問題を正確に捉えられなくなる、と私は考えているということだ。最近は、「孤独・孤立対策担当大臣」なるものもできたそうだが、どこまでこの辺りの感覚を理解してもらえるだろうかと思ってしまう。
例えば私の場合、「孤立」している時に「孤独」を感じることはほぼない。むしろ、誰かと話をしている時の方が、「孤独」を感じてしまいがちだ。私のような人間も、多いとは言えないかもしれないが、一定数いるはずだ。「孤立」と「孤独」が負の相関を示している、と言えばいいだろうか。
何故そうなるのか。その根本には、「『感覚が合う人』と関われない時に『孤独』を感じる」という感覚がある。そして僕の場合、「感覚が合う」と感じるハードルがとても高く、世の中の大体の人が「感覚が合わない人」の分類されてしまう。ここに難しさがあるというわけだ。
私が誰かと話している時に「孤独」を感じるのは、話す相手のほとんどが「感覚が合わない人」だからだ。話せば話すほど、「やはり感覚が合わない」という思いばかりが募り、「孤独」感は強まっていく。
一方、「孤立」している時に「孤独」を感じないのは、「感覚が合わない人」と喋らなくて済むからだ。「感覚が合わない人」と喋れば喋るほど「孤独」を感じる僕としては、「感覚が合わない人」と喋らなくていい「孤立」状態の方がむしろ「孤独」を感じにくいのである。
「感覚が合う」という私のこの感覚はとてもハードルが高くて、例えば、趣味趣向が同じでも「感覚が合う」と思えないことの方が多い。私は本を読んだり映画を観たりするが、本や映画の趣味が合う人と関わりたいという気持ちがあまりない。同じ本・映画に触れていたとしても、「感覚が合う」かどうかは分からないからだ。
私は、そういう「感覚が合う人」のことを、私目線で「友達」と呼ぶようにしているが、私は友達とほぼ趣味が合わない。あらゆる意味で「客観的な共通項」が少ないと言っていいと思う。ただ、感覚は合う。そして、想像してもらえると思うが、そういう人と出会うことは本当に難しい。
世の中には、「相手がどんな人であれ、よほどのことがない限り『関わっていて楽しい』と感じられる」という人もいるだろう。つまり、「話したり関わったりしている状態が楽しい」ということだ。それはそれで、ある意味で羨ましさを感じる。そっち側で生きていられれば、もう少し楽だっただろうなぁ、とも思う。
私が「英会話」に関心が持てないのも、理由は似ている。日本人と日本語で会話したって、「感覚が合う」と感じる人にほぼ出会えないのだ。外国人と外国語で話して「感覚が合う」と感じる人に出会うことなど、ほぼ不可能だろう。英語には興味があるし、読んだり書いたりできるようになったらいいなと思うことはあるが、「英会話」にはほとんど興味が持てないのはそういう理由からだ。
「孤立・孤独」に対処しようとする場合、どうしても「孤立の解消」に目が行ってしまうことは仕方がないことだと思う。何故なら、それは「客観的に判断可能な指標」だからだ。何か対策を行う場合、「その対策に効果があったのかを客観的に判定する」必要があるだろうし、「孤立」の場合はある程度それが可能だとも思う。「孤立」状態をどう具体的に定義するかにもよるが、いずれにしても「対策が功を奏したかを客観的に判断できる」と言えるはずだ。
しかし「孤独」の場合、なかなかそうはいかない。主観的な気分の問題だし、対策が利いたかどうかを判定するのも困難だろう。だからどうしても「孤立」の方に重点が置かれるだろうし、それは仕方ないことだと思う。
ただ僕のような人間が世の中にもいるとした時、「孤立の解消」が「孤独」を生む可能性は十分にある。非常に難しい問題だと自分でも思う。
僕は基本的に、自分が抱えるこの「孤立」「孤独」問題は、外部からの支援で対処できるようなものではないと理解している。自分でどうにかするしかない。誰かが手を差し伸べてくれたところで解消されるようなものではない。
例えばそれは、「銀座の高級店の料理しか『美味しい』と感じられない呪いを掛けられた人」みたいなものだ。その銀座の高級店以外の料理は、すべて「マズい」と感じてしまう。この場合の解決策は、「銀座の高級店で料理を食べ続ける」しかないが、お金的にそんな生活が可能な人間など世の中にほとんどいないだろう。こういう呪いを掛けられた人を、外からの支援で救うことはなかなか困難だ。
僕も大体同じ状況にある。「感覚が合う人」以外のコミュニケーションはすべて「孤独」を誘発するのだから、どうしようもない。厄介な性格だ。
僕は、何かあるとすぐ「SNS」を悪者にするクセがあって、自分でも良くないと思うが、結局のところ僕のこの感覚は「SNSが発達したこと」に原因があると思っている。
「あまりに簡単に他人と繋がれるツール」が存在するという事実を喜ばしく感じる人もいると思う。しかし僕は、「『あまりに簡単に他人と繋がれる』からこそつまらない」という感覚を抱いてしまう。つまりSNSは僕にとって、「人との繋がりをつまらなくさせたツール」と言ってもいいのだ。
もしも、富士山の山頂まで5分でたどり着けるエレベーターが設置されたら、あなたは富士山山頂まで行きたいと考えるだろうか? もちろん、「そんなに簡単に頂上にたどり着けるならむしろ行きたい」という人もいると思うが、私はどちらかと言えば「そんなにあっさりたどり着ける場所に行く価値なんかあるのか」と考えてしまうタイプだ。人間関係も同じ。ハードルが低くなればなるほど、それに対する面白さが減っていき、逆説的に「関わりたいと思う相手に対する要望」みたいなものが増大してしまったのだろうと思っている。
もう少し、人並みに「他者との関わりを『楽しい』と感じられる人間」でありたかったなという気持ちもあるが、今の自分も決して嫌いではない。しかし、そのややこしさに「めんどくさいな」と感じることは日々ある。
これが私の「孤立」と「孤独」の話である。
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