【映画】「それでも私は Though I'm His Daughter」感想・レビュー・解説

凄まじい人生だなと思う。よくここまで生きてこられたものだ。本作中で彼女は何度も「死にたい」と口にしていたが、どうにか穏やかに生きてほしいものだと願っている。

本作は、オウム真理教の教祖・麻原彰晃こと松本智津夫の三女である松本麗華に密着したドキュメンタリー映画である。2018年2月にとあるきっかけから取材が始まり、そこから足掛け6年もカメラを回し続けている。そしてその間に、麻原彰晃ら幹部の死刑執行や、麻原彰晃の遺骨の返還裁判なども行われている。そういう6年間を切り取った作品である。

さて、本作についてあれこれ書く前にまず、「加害者家族」に対する僕自身の考え方について触れておこうと思う。

状況によって様々違いはあるものの、ベースとして私は、「『加害者本人』と『加害者家族』は何の関係もない。だから自由に穏やかに生きてくれ。以上」としか思えない。「加害者本人」に怒りや批判が向くのはまあ当然だと思うが、しかし同じような視線がその家族にまで向けられるのはマジで意味が分からない。もちろん、「加害者本人」が行った事件に「加担していた」とか「知っていて黙認していた」ということであれば責められるべきだろうが、そうであれば大抵の場合は刑法に引っかかるだろうし、逮捕されるなりなんなりするだろう。だから、刑法的な観点からお咎めがないのであれば、「加害者家族に罪はない」と判断していいし、だったら批判を向けられるべきではないとも思う。

もちろん、「加害者本人」が未成年である場合、ある程度は親がその責任を負う必要は出てくるかもしれない。しかしそうだとしても、「加害者本人」に向けられるのと同等の批判を浴びるのはおかしいと僕には感じられる。よほどのことがない限り(つまり、親が子どもを虐待していたとかでもない限り)、親の責任は限定的であり、未成年だろうがなんだろうが「加害者本人」がそのほとんどの責任を負うべきだと思っている。

さて、本作には原田正治という人物が登場する。本作の密着のきっかけとなった人物である。彼は、殺人によって弟を喪った被害者家族である。弟の勤務先の従業員が結託して保険金殺人を企て殺されてしまったのだ。そしてこの原田氏が松本麗華との対面を望んだことから本作の撮影が始まっている。

原田氏は当初、加害者らに死刑を望んだそうだが、後に加害者から謝罪を受け、「生きて償ってほしい」と死刑の撤回を求めたという。しかし結局はそのまま死刑が執行されてしまった。

そしてそんな原田氏が松本麗華に、「加害者の奥さんと子どもが謝罪に来てくれて救われた部分もある」みたいなことを口にしていた。それを受けて松本麗華が、「加害者家族からの謝罪は必要だと思いますか?」みたいなことを聞くと、原田氏は、「救われたことは確かなんだけど、でも加害者家族が謝罪すべきだとは思わない。被害者家族も加害者家族も、どっちも被害者ですよ」みたいなことを言っていたのだ。

これだけ聞くと、「加害者家族」である松本麗華に遠慮してそんな言い方をしたように聞こえるかもしれないが、恐らくそうではない。というのも、原田氏(と松本麗華)は共に書籍を出版しており、お互いに相手の著作を読んだ状態で対面しているからだ。ここからは僕の想像だが、原田氏は恐らく書籍の中で同じようなことを書いていて、あらかじめそれを知っていた松本麗華が確認のために質問をしたのではないかと思う。そうでなければなかなか、「加害者家族」から「被害者家族」に「『加害者家族』からの謝罪は必要ですか?」みたいなことは聞けないだろう。

もちろん、すべての被害者家族が原田氏のように考えているわけではないだろうし、僕は別に「被害者家族は加害者家族に怒りを向けてはいけない」みたいに思っているわけではない。やりきれない思いを抱える被害者家族が、自分の気持ちを落ち着かせるために、そしてどうにか前を向いて進んでいくために、加害者家族にその怒りの矛先を向けてしまうというのは、仕方ない部分もあるはずだと思っている。

僕がここで指摘したいのは、「ネットでウダウダ言っている奴ら」である。そして僕は、「お前らに『加害者家族』をディスる資格はない」と言っているだけなのだ。「加害者本人」を責め立てるなら理解は出来る。ただ、全然関係ない「加害者家族」を、事件とは何の関係もないネット民がクソミソに言うのは、僕にはさっぱり理解できないのだ。そこに「正義」など一切存在しないだろう。

というのが、僕の基本的な考え方である。「加害者本人」と「加害者家族」は無関係だし、だから「加害者家族」が批判される必然性はない。謝罪なんてもちろんする必要はないし、堂々と生きていてほしいなと思う。

ただ、確かにこれは僕の本心なのだが、一方でまったく違った観点から少し逆の話もしておきたいと思う。それは、「『加害者家族』への批判が、ある種の『抑止力』として機能してしまっている側面はあるかもしれない」という話である。

誰かが何か罪を犯そうとした際に、「自分が犯罪者になったら、家族は『加害者家族』になってしまう」と考えて踏みとどまる人もいるんじゃないだろうか。この効果は実際には測定不可能だが(結局のところ、犯罪は起こっていないので)、一定程度あると考えるのが自然だろう。そして結局それは、「『加害者家族』に批判が向けられてしまう」という現状が生み出している現実だと言える。もし「『加害者家族』が一切責められない社会」が実現したとしたら、「罪を犯すハードル」が低くなったと受け取る人も出てくるんじゃないかと思う。それは結果として、社会全体にとってはマイナスの効果を生むのではないか。そんな風にも考えてしまった。

しかしたとえそうだとしても僕は、「『加害者家族』が一切責められない社会」を実現すべきだと思う。「社会全体の利益」のために「特定の個人への不利益」が発生するという状況はフェアではないと思うからだ。犯罪の抑止力はもちろん大事だが、それは「『加害者家族』が批判される」というのとはまた違った形で実現されるべきである。そんなことのために、何の罪もない個人が厳しく責め立てられるのは間違っていると思う。

だから、「『加害者家族』は責められるべきではないし、自由に穏やかに生きられる社会であるべきだ」と僕は考えている。

そしてその考えは基本的に、松本智津夫の三女である松本麗華に対しても当てはまると僕は思う。もちろん色々と特殊な事情はある。彼女は、父親が逮捕された当時12歳だったが(たぶん僕と同い年だと思う)、教団では「アーチャリー」と名前が付けられ指導的な立場を強いられていたそうだ。また、本人が望むと望まざるとに拘らず、「松本智津夫の娘である」という事実から神格化され、本人の意思に反して教祖的に祭り上げられてしまうなんて可能性もある立場の人だとは思う。そういう意味で、「ごく一般的な『加害者家族』(という表現も実に変ではあるが)」とは違うと言える。

しかしそうだとしてもやはり、「父親が松本智津夫だから、その娘はどんな扱いをしたっていいだろう」みたいなことにはならないはずだ。彼女は別に、犯罪行為に加担していたわけではないのだから。というか松本麗華は、「虫も殺してはいけない」という教団の教えをちゃんと信じていたので、教団での生活中は菜食主義者だったと言っていた。冒頭で映し出される原田正治との顔合わせの際、「生け簀が置かれている料理屋」の話になったのだが、松本麗華は先のような理由から「生け簀は苦手です」みたいなことを言っていた。

とまあ少し脱線したが、とにかく僕は、「父親が松本智津夫だからと言って、松本麗華が責められる謂れはない」と考えている。しかしそんな彼女は、やはり相当しんどい人生を歩んでいるのである。

まず僕が驚かされたのは、これは松本麗華ではなく、妹の聡香(本名だと思っていたが、調べたらペンネームらしい)のエピソードらしいが、学校で先生からもいじめられたというのだ。そしてその時に言われたという話に驚かされる。聡香は学校でのいじめが苦しくて自傷行為を行うようになったそうだが、それを受けて学校側(校長だったか担任だったかよく分からない)が、「あなたの命は1つです。でもあなたの教団は多くの人の命を奪いました」みたいなことを言ったというのだ。マジで気でも狂ってるんか。まあ、松本麗華にしてもたぶん伝聞情報だと思うので、正確な状況・言い方は分からないと思うのだが、それに類する発言があっただけでちょっと驚きである。

また本作では、松本麗華が銀行口座の開設を依頼する場面が映し出される。そして銀行側は、彼女の銀行口座作成を拒否するのだ。理由は、「総合的に判断した」だった。銀行側はそれ以上のことは何も言及しないが、明らかに「松本智津夫の娘だから」だろう。

しかし、この件で銀行を責めるのは少し酷かもしれない。というのも松本麗華は公安調査庁から、「後継団体(おそらく「アレフ」)の事実上の幹部である」と認定されているからだ。後継団体はたぶん「テロ集団」みたいな扱いをされているだろうから、つまり松本麗華は書類上「テロリスト」みたいな感じなのだと思う。これが彼女の社会生活を著しく妨げている。

もちろん彼女は、この事実を不服として裁判を起こした。しかし結果は覆られない。ただそれは実に奇妙な結論なのである。というのも公安調査庁は以前、「11歳当時の松本麗華は教団幹部ではなかった」とはっきり書類に記載しており、今回の裁判にもその書類を提出しているからである。「松本麗華が後継団体の幹部である」という認定には、「かつて幹部だった」と「現在幹部である」という2つの要件が必要なのだが、その内の1つが公安調査庁自身の報告によって崩れているにも拘らず、裁判所は「松本麗華は後継団体の幹部である」という認定を許容したのだ。

この状況を松本麗華は、「国からいじめを受けている」と表現していた。

ある場面で彼女は、「個人からのいじめだったら、引っ越して私の知らない場所に行けばどうにかなる」みたいなことを言っていた。それもそう簡単ではないとは思うが、しかし松本麗華に簡単に感じられて当然だとも思う。なにせ彼女は、「外国からも入国を拒否される」という状況にあるからだ。恐らくこれも、「後継団体の幹部」という認定のせいだろう。国はこのようにして、一介の個人を徹底的に弾圧しているのである。

それは、「麻原彰晃の遺骨の返却」の問題に関しても現れている。死刑執行後、「遺骨を誰に渡すか」が問題となった。というのも、松本家(母親と6人の子ども)は事実上一家離散の状態にあるからだ。しかし裁判所は、法務局が保管していた遺骨を、次女の宇未に引き渡すように命じた。のだが、国はどうも遺骨の引き渡しを拒んだようだ。恐らくだが、「遺骨を持つものが神格化され、カルト教団になっていく」みたいなことを恐れたのではないかと思う。まあ理由はともかく、国は遺骨を返さなかった。

これを不服として次女の宇未が裁判を起こす。本作には、その裁判の弁護を担当した弁護士が少し登場したのだが、彼は「遺骨を返さないことに法的根拠は一切ない」と言っていた。にも拘らず国は、「遺骨を引き取って手を合わせること」を「権利濫用」と主張し拒んでいるというのだ。意味が分からないし、その弁護士も意味が分からないと言っていた。こんな風に国は、こと「オウム真理教」や「麻原彰晃」に関しては、既存のルールを捻じ曲げてでも「麻原彰晃と関わるすべて」を排斥しようとするのである。

こんな状態で生きていくのは本当にしんどいだろう。よくもまあ生きてこられたものだと思う。大学に合格しても入学を拒否され(最終的には弁護士の助力もあり通えることになったらしいが)、働き始めても解雇されてしまう。すべて「松本智津夫の娘だから」である。本作中には、監督と松本麗華がオンラインで話をする場面が何度か映し出されるが、その中で監督が「『挑戦する』という権利さえ奪われてしまう」という表現を使っていた。あまりにもキツすぎるだろう。

そんな松本麗華の口から語られる話はどれも興味深かったが、やはり「死刑」に関する言及は重かった。

さて、これから書く話はどれほど一般に知られていることか分からないが、僕は以前読んだ『A3』(森達也)というノンフィクションでその事実を知った記憶がある。一般的にもニュース等で報じられていたはずだが、リアルタイムでは僕は認識出来ていなかったように思う。

それは、「松本智津夫は1審の途中で意味不明なことを口にするようになり、明らかに精神異常が疑われたが、その治療を行うことなく死刑判決を下し、そのまま死刑を執行してしまった」という事実である。ご存知だろうか?

本作の取材が始まったのは、たまたま、麻原彰晃らの死刑が執行される少し前であり、そしてその間に、宮台真司や森達也らの知識人が集まって「麻原彰晃に治療を行うべきだ」と記者会見をしている様子が映し出される。それは松本麗華がずっと昔から主張し続けていたことであり、「治療しても改善する可能性は低いが、動機を語れるのは麻原彰晃しかいないのだから、可能性は低くても治療を行い、彼に喋らせるべきだ」という主張には、僕も賛成である。

この点に関しては、監督が松本麗華に「もしも治療が施されて、奇跡的に回復したとして、お父さんの口からあなたが望んでいない事実が語られるかもしれないけど、それでも治療を望むの?」と問うていた。そして松本麗華は、「その点に関しては繰り返し考えてきたし、もし自分の望まない話が出てくるのだとしても、私は治療をしてほしいと思う」と断言していた。

作中で森達也が口にしていたように、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした時というのは教団にとっては絶頂期であり、麻原彰晃にも教団内に愛人がいるなどとても良い状態だった。にも拘らず、麻原彰晃が部下に「サリンを撒け」と指示したのであれば、その動機は一体どこにあったのか? 確かにこれは、治療したとて難しいかもしれないが、しかし解明されるべき事柄だろう。

しかし国(あるいは裁判所)は、世論に押されるような形で死刑判決を下し、そして結局何も明らかにならないまま彼らの死刑を実行してしまった。果たしてそれは正解だったのか? 僕にはやはり、ちょっとそうは思えない。国家はある意味で、オウム真理教に屈したと言ってもいいんじゃないかとさえ思う。

さて、今僕は「世論に押されるような形で」と書いたが、この点に関しては、マスコミ志望の学生向けのセミナー(みたいなものだと思う)に松本麗華か登壇したシーンでの発言が印象的だった。こちらもまず、死刑に関する話から。

大学の法学部で学んでいるという学生が、死刑には反対だという松本麗華に対し、「ではどういう刑罰があるべきか?」と問うと、彼女は「終身刑」と即答していた(恐らくだが、仮釈放のある「無期懲役」ではなく、仮釈放がない「終身刑」という意味だと思う)。そして彼女は、「もしも父が死刑でなく終身刑だったら私の人生は全然違っていた。もしかしたら、結婚だってしていたかもしれない」みたいに言っていたのだ。

彼女がこう口にした瞬間には、その意味するところが分からなかったが、その後の説明を聞いて納得した。死刑というのは「いつ執行されるか分からない」ものである。だから松本麗華は、「会える時に会っておかないと後悔する」と考えていたそうだ。一般的にも伝わりやすい例として「介護」を挙げていたが、「例えば親の介護をしていて、いつ亡くなってもおかしくないとしたら、会える時に会っておかないとって思いますよね?」みたいなことを言っていた。そしてそのせいで、プライベートがかなり犠牲にされたというわけだ。

これがもしも終身刑だったら、「突然父親の命を奪われる」みたいなことはないわけで(病死などに可能性は残るが)、もしそうだったら今とは違う人生を歩んでいたはずだ、と話していた。「親族に死刑囚がいる」という状況はあまりにも特殊なので、そういう想像をしたことがなかったが、彼女の話を聞いて「なるほど」と感じさせられた。

そしてその学生向けのセミナーではもう1つ興味深い話をしていた。同じく学生が、「松本さんは『マスコミ』と一括りにしている印象ですけど、マスコミも個人の集まりなわけで、そういう個人に対してプラスの印象を抱くことはないんですか?」みたいな質問をしていたのだが、それに対しての返答にも「なるほど」と感じさせられた。

松本麗華はマスコミの知り合いがたくさんいるそうで、個人的に会ったり食事をしたりするようになれば、その人は確かに「個人」になる。けど、じゃあその人を信頼できるかというと、そういうことはほとんどないそうだ。マスコミの人で信頼できるのはごく僅かだと言っていた。

その理由は、「仮に目の前の個人を信頼できても、その上にたくさんの人が関わっているから」である。彼女は伝聞情報として、「私の映像の編集に副社長が立ち会ったことがある」みたいな話を聞いたことがあるのだそうだ。直接取材をしてくれる目の前の個人が仮に信頼できる人物だとしても、組織の中にいる以上、その個人の思いが反映されないような状況はいくらでも存在する。だから私は、マスコミのことは信頼しない、という話だった。これも、彼女自身の経験を反映した、実に説得力のある話だなと思う。

というわけで、絶対に書いておきたいと思っていた話には触れたので、後は思いつく限りのことを書いて終わりにしよう。

まず、これは松本麗華だけではなく「父親(松本智津夫)との記憶がある家族」は全員同じ感覚らしいのだが、「父を憎んでいる人はいない」のだそうだ。妹の聡香は松本麗華の6歳年下だそうで、だから麻原彰晃が逮捕された時は6歳。父親とのまともな記憶がないこともあり、彼女は父親を憎んだり父親と対立したりする道を選んだそうなのだが、父親との記憶を持つ家族は松本智津夫のことを恨んでいないという。

それもあって彼女は、やはり父親を治療して動機を喋らせてほしかったと願っているのだ。仮にそれが、自分たちには意味不明な話だとしても、父親の口から聞きたかったと言っていた。やはり、娘として接していた父親と、世間が捉えている「麻原彰晃」との間には相当の隔たりがあるようだ。そのこともまた、彼女を苦しめる要素になっているという。

一方で、本作では、松本麗華と次女の宇未が、松本智津夫の生まれ故郷に行き親族に会う、という場面も映し出される。一度も会ったことがない親族だそうだが、結局話は3時間半に及んだ。そしてその会話を振り返って松本麗華は、「私たちは、父親が逮捕された時はまだ教団にいたから、教団に守られていたんだろうなと思う。そういうものがなかった親族の人たちはきっと、私たちより遥かにしんどかったんだと思う」みたいなことを言っていた。

そしてさらに彼女は、「憎めなかったからこその大変さ」みたいな話もしていた。恐らくだが、彼女らが話をした親族は松本智津夫のことを憎んでいるのだろうし、彼に怒りを向けることで発散するみたいなことも出来たのだろう。一方、松本麗華も宇未も、父親に対して憎しみを抱けないでいる。だからこそ、自分の気持ちの持っていき場所が難しいんだ、みたいなことを言っていたのも印象的だった。

あと、既に触れたことではあるが、本作で松本麗華は度々「死にたい」みたいなことを口にしていた。まあ、そんな風に感じるのは自然なことだろう。あらゆる意味でまともな社会生活など不可能だし、また、彼女自身も父親の逮捕後にいじめられたりして、そのトラウマがフラッシュバックして鬱のような状態になったりもするようだ。

そしてそんな「死にたい」と彼女が口にするシーンの中でも特に印象的だったのが、2ヶ月前にコロナにかかり寝込んでいた彼女が久々にカメラの前で話す場面である。監督が「今回はあなたの方から話したいことがあるってことだったけど」みたいに水を向けると、彼女は、「私が死んだ時、『父たちのせいで死んだ』みたいに思われるのはやっぱり違う。『私に攻撃してきた人』たちのせいで死ぬんだ」みたいなことを目を潤ませながら話していたのだ。

それを聞いて監督が、「もしかしてカメラの前で遺言を話してるってこと?」「このまま取材を続けると、死への背中を押す感じになっちゃう?」みたいなことを口にしていた。確かに僕にも、そんな風に感じられた。本当に自殺するかどうかは分からないが、衝動的にそうなってしまった場合に、自分の口からちゃんと死ぬ理由を話して残しておきたい、みたいな感じに見えたのだ。相当追い詰められていたのだろう。本当に、そんな風に感じずに、どうにか穏やかに生きていけるといいんだけどなぁ、と思う。

というわけで、なかなか興味深いドキュメンタリー映画だった。というか、こういう表現はどうかと思うが、「ドキュメンタリー映画の被写体」として最強の部類に入ると思う。近い存在としては、「袴田事件」の袴田巌が思い浮かぶ。正直、「松本麗華」ではない人物で本作のような内容・構成だと大分物足りない印象になるだろうが、被写体が「松本麗華」であるが故に、本作は作品として成立していると言っていいと思う。

「これ以上最悪な烙印を押される人物はそうそういないだろう」というその存在や、「国家から虐められている」というあまりにも酷い状況、そしてそういう中でも、自らの顔と名前を晒して社会と対峙しようとする姿勢。そういうものすべてにちょっと圧倒されてしまうし、繰り返すが「被写体として最強だ」と思う。

そしてこれも繰り返しになるが、彼女を含め麻原彰晃の子どもたちには、どうにか穏やかに生きていてほしいものだなと思う。

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