「頭が良い/悪い」とはどういうことか? 僕は、「躊躇こそ知性」だと思う
「頭が良い/悪い」について、僕なりの考えをまとめてみる
僕は昔から今もずっと、「頭の良い人が好きだ」と思っている。しかしそういう話をすると、「学歴が高い」とか「博識である」みたいに受け取られることもあるから難しい。確かにそれらが、僕が思う「頭が良い」に含まれることもあるのだが、決してそういう話ではない。自分の中では割と明確に「こういう人」というイメージがあるので、今回はそんな「頭が良い/悪い」について書いてみたいと思う。
「頭が良い」とは「想像力があること」である
僕にとっての「頭の良さ」の定義は割とシンプルだ。それは「想像力があること」である。
さて、今回の記事では最終的に「対人関係」の話に帰着させようと思っているのだが、ここでいう「想像力」というのは決して「対人関係」に限るものではない。例えば「学問」の話で言えば、「数学に対する想像力」「宇宙に対する想像力」のように、「未知の対象を理解する力」みたいな話しとして捉えることも出来るだろう。これもまた、「頭の良さ」の1つの形態だと僕は思う。
また「クリエイティブ」の話で言えば、「誰も思いつかないようなアイデアを思い浮かべられる想像力」なんて風にも受け取れるだろう(まあこの場合は、「創造力」と表記する方が正確かもしれないが)。
あるいは「頭の良さ」として「他者を論破する」「博覧強記である」などを思い浮かべる人もいるかもしれないが、これらも「相手の理屈の欠点を見つけ出す想像力」「複数の物事の繋がりを想像し把握する力」みたいに捉え直すことも出来るんじゃないかと思う。僕はこのように、「頭の良さ」というのは概ね「想像力」という指標で測ることが可能だとは考えているのだ。
そしてその上で僕は、「その『想像力』を対人関係で発揮出来る人こそ最も『頭が良い』」と感じる。これは僕の個人的な価値観であり、他者に強要するつもりはない。ただ、「学問」や「創作」など「本質的な部分を概ね1人で行える事柄」よりも、「『対人関係』において最適な振る舞いをすること」の方が圧倒的に難しいと僕は思っている。「個人で行うこと」であれば「自分をいかにアップデートするか」を考えていればいいわけだが、「他者が関わること」の場合は、「相手についての情報や有している価値観」などを把握した上で自分の言動を決めなければならないからだ。どう考えたって、「個人で行うこと」よりも扱う情報量が膨大になる。だからこそ、「『対人関係』において最適な振る舞いが出来るかどうか」が僕にとって「頭の良し悪し」の指標になるというわけだ。
個人的には、「対人関係における振る舞い」は「知性の総合格闘技」だとさえ考えている。そんなわけでここからは、「対人関係」に絞って話を進めていきたいと思う。
「想像力がある」とは「選択肢が思い浮かぶこと」である
では、「『対人関係』において『想像力がある』」というのは一体どのような状態だろうか。この点についても僕の中には明確な基準があり、「選択肢が思い浮かぶかどうか」によって判断できると考えている。
さて、この話は「頭が良い人」よりも「頭が悪い人」で説明した方が分かりやすいはずなので、ここからしばらくの間、「『頭が悪い人』は選択肢が思い浮かんでいない(はず)」という話をしていきたいと思う。
例えばだが、僕には大体の場合、「怒っている人」というのは頭が悪く見えている。「頭の中に、選択肢が1つしか浮かんでいないんだろうな」と感じるからだ。
目の前で展開されている(あるいは、誰かから報告を受けた)状況に対してすぐに「怒り」を感じるというのは、「その状況に対して1パターンの解釈しかしていない」と考えるのが自然だろう。もちろん可能性としては、「即座に複数の解釈を思いつき、そのすべてに『怒り』を感じている」ということもあるとは思う(そしてそうであれば、「複数の選択肢が浮かんでいる」ので、僕の基準では「頭が良い」と言える)。ただ普通は、そうではないケースの方が圧倒的に高いはずだ。なので大体の場合は、「怒っている」=「1つの解釈しか浮かんでいない」=「頭が悪い」という捉え方で問題ないというのが僕の理解である。
例えば、部屋に入った時に子供がゲーム機を操作しているのを見て「勉強しなさい!」とすぐに怒る親は、「勉強の合間の休憩中かもしれない」「学習ゲームのプレイ中なのかもしれない」のような可能性が浮かんでいない。こういう人は僕の中では「頭が悪い人」である。
また、「否定から入る人」にも「頭の悪さ」を感じてしまう。この場合も色んな解釈があり得るが、やはり「自分の中に『絶対の正解』があり、それ以外の可能性を思い付けていない」と捉えると僕にはしっくり来る。僕は基本的に「人の数だけ正解がある」と考えているのだが、「『私にとっての正解』が『みんなにとっての正解』でもあるはず」みたいに考えている人もいるだろう。そしてそうだとすれば、「『私にとっての正解』と違う主張に対しては否定から入る」という行動はとても自然だ。
僕は、「お互いの間に『複数の正解』が存在する状況で、どうすれば『お互いが合意できる正解』にたどり着けるか」を考えられることこそが「頭の良さ」だと思っている。「否定から入る人」にはそもそもそんな発想はないだろうし、僕の想定通り「選択肢が1つしか想定されていない」のであれば、やはり僕には「頭が悪い」としか感じられない。
このように、「脳内に解釈が1つしかない」と捉えると分かりやすくなる言動は様々に存在するし、僕にとってはそういう振る舞いこそが「頭の悪さ」に見えているのである。
ちなみに少し脱線するが、ここで少し「反証可能性」について説明したいと思う。科学哲学者だったポパーという人が、「科学を定義する」という難題に対して提起した概念である。
科学が発展するにつれて、「『科学』と『科学でないもの(宗教やオカルト)』をどう区別すべきか?」が問題になっていった。つまり、「科学」とは何かを定義しなければならなかったのだ。そのため色んな人が様々な定義をひねり出したのだが、どれもなかなか上手くいかなかった。そんな中でポパーが提唱したのが「反証可能性」である。
「反証可能性」とは、ざっくり言えば「『間違っている』と指摘される可能性」のことを指す。そしてポパーは「『科学』は『反証可能性』を持たなければならない」と主張したのである(「科学」にはもう1つ、「再現可能性」も必要だとされている)。
僕がこの「反証可能性」について説明する際によく出すのが「透視能力」についての話だ。ある人物が観衆の前で、「鉛の箱にしまわれたモノの透視をする」というパフォーマンスを行うところだとしよう。そしてその前口上としてこの人物が、「皆さんの中に私の透視能力を疑う人がいたら上手く能力が発揮できないので、是非私の力を信じて下さい」と言ったとする。その上で、結果としてこのパフォーマンスに失敗した(つまり、透視出来なかった)という状況について考えてみたいと思う。
この場合、恐らくこの人物は、「皆さんの中に私の能力を疑う人がいたから失敗したのだ」と主張するだろう。では、「この人物に透視能力が無いこと」を証明するにはどうしたらいいだろうか? パフォーマンスに失敗しても「それはお前たちが疑っていたからだ」と主張するのであれば、この人物の「私には透視能力がある」という主張を否定することは原理的には不可能だと理解してもらえるはずだ。
だからこそ、これは「科学ではない(科学で扱う対象ではない)」のである。
つまり、「お前の主張は間違っているぞ!」と指摘される余地が残っていなければ「科学」とはみなされないというわけだ。
科学の世界では、論文にまとめて成果を発表する前に、ありとあらゆる可能性を潰して潰して潰し倒して「これだけが唯一正しい主張である」みたいにする必要がある。しかし、そんな風にして徹底的に他の可能性を潰してもなお、「自説が間違っている可能性がある」という余地を残せるのが科学であり科学者のスタンスというわけだ。これは、「選択肢を思い浮かべる」という意味でかなり究極的な振る舞いではないかと僕は思う。
先ほど「対人関係こそ知性の総合格闘技」と書いたが、「選択肢を思い浮かべては潰しまくり、それでもなお潰せていないかもしれない選択肢の存在を許容する」というスタンスもまた、「知性における最高峰」だなと感じる。
というわけでここまでが脱線。「対人関係」の話に戻そう。
「複数の選択肢が頭に浮かんでいる人」はどんな振る舞いをするだろうか?
先程は「選択肢が1つしか浮かんでいない人(=頭が悪い人)」の振る舞いについて説明した。というわけで今度は、「複数の選択肢が頭に浮かんでいる人(=頭が良い人)」がどんな言動をするのかを考えてみることにしよう。
そしてここに、この記事のタイトルにも入れた「躊躇」が関係してくるのである。
例えば、目の前にいくつか大好物が置かれているのだが、その内のどれか1つしか食べられないとしたら、どれを選ぼうかと躊躇うのが普通だろう。同じように、複数の選択肢が頭の中に存在していたら、当然躊躇するはずだと思う。だから僕には、「躊躇」こそが知性であると感じられるのだ。
一般的には、「即断即決」の方が「頭が良い」と受け取られるように思う。確かに世の中には、「複数の選択肢を思い浮かべつつ、同時に決断も出来る」みたいな凄い人もいるだろう。しかしそんな人は、そう多くはないはずだ。だから一般的には、「選択肢が1つしか浮かんでいないから『即断即決』しているように見えているだけの『頭の悪い人』」か、「選択肢が複数浮かんでいるからこそ躊躇してしまう『頭の良い人』」のどちらかに分かれると思っている。そんなわけで僕には、「即断即決」は「頭の良さ」には感じられないのだ。
そして同じような話だが、「頭が良い人」は「断言しない」ように思う。もちろん、先程の話と同様、「複数思い浮かべた上で、判断も同時にする」なんてことが出来る人もいるだろう。しかし「断言する人」の多くは、単に「他の選択肢が思い浮かんでいないだけ」だと考えていいと思う。「断言する人」もまた「頭が良い人」っぽく見えるだろうが、私には「頭が悪い人」にしか思えないのである。
さらに、「脳内にある複数の選択肢を絞り込むための振る舞いをしている」というのも1つの指標になるだろう。例えば、「相手に質問をする」というのもその1つ。誰かの言動や目の前の状況について複数の可能性が浮かんでいる場合に、「そのどれか1つに確定させるために質問を投げかける」というのは「頭が良い人」の行動として自然だと思う。
「複数の選択肢が頭に思い浮かんでいる人」の振る舞いは他にも色々と想像できるだろう。そして、そのような言動から「頭の良し悪し」が判断できると僕は考えているのである。
僕のこの基準を採用すると、「一般的に『頭が良い』とされている人」の印象が変わるんじゃないかとも思う。割とシンプルで、客観的な判断としても使いやすい指標ではないかと個人的には思っているので、賛同してもらえるのであれば参考にしてみてほしい。
最後に
さて、このような観点から考えた時、「世代全体の話で言えば、若い世代ほど頭が良い」という、私が普段から抱いている感覚についても結構納得してもらえるんじゃないかと思う。若い世代の方が明らかに「対人関係における『配慮』」が優れているからだ。物心ついた時からSNSが当たり前に存在したり、学生時代にコロナ禍を経験したりと様々な理由が存在するのだとは思うが、「想像力」という意味で言えば、世代が下がれば下がるほど高まるというのが僕の印象である。
もちろん自戒を込めてではあるが、「おじさん・おばさん」は「自分には想像力が欠如しているかもしれない」という意識を持つようにした方がいいと思う。若い世代に見習うべき点はとても多いはずである。
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