【映画】「スプリット」感想・レビュー・解説
「解離性同一性障害(DID)」というのは、本当に不思議だ。映画の中では、ある人格の時だけコレステロール値が上がり糖尿病の症状が出る。またある人格の時だけ蜂アレルギーが発症する、という。映画の中で言っていただけだから、実際にどうかは分からないのだけど、昔読んだ本の中にもそういう類の記述があったような記憶がある。
映画の中では、解離性同一性障害患者を診るフレッチャー医師が、自らの主張、つまり、解離性同一性障害という症状が実在するのだという主張が学会で認められない、という状況が描かれる。その方面には詳しくないから、医学界の中で解離性同一性障害がどういう扱いをされているのか分からないのだけど、その実在を疑う者もいるのだろう。
とりあえず、この感想の中では、解離性同一性障害が実在する、ということを前提にしながら文章を書いていこうと思う。
何故解離性同一性障害が発症するのかは、多くの場合、幼少期の虐待にあるだろう。虐待を受けているのは自分ではない、という逃避によって、主人格とは違う人格が生まれる。やがて、それらの人格を統合したり、人格同士の争いから別の人格が生まれたりという形で、どんどん人格が増えていくのだろう(この辺りのことは、この映画では特に描かれない。僕が昔読んだ本の知識から、恐らくそうだろうというようなことを書いただけだ)。
しかし、人格が変わると糖尿病を発症する、というのが本当であれば、一体どういうことになるのだろうか?「人格の変化」が、「脳内の電流の変化」であるとするならば、「脳内の電流の変化」が「各臓器の機能の変化」をもたらしているということになるだろう。であった場合、「各臓器の機能」というのはただの「反応」であって、臓器そのものに依存するわけではない、ということになるのだろうか。
もしこの、「各臓器の機能が臓器そのものに依存しない」という解釈が正しければ、一つ面白い捉え方が出来る。それは、各臓器の機能(つまり「反応」)をすべて最大限に引き上げる人格、というものを想定することが出来る、ということだ。各臓器の機能が脳の変化、つまり人格の変化に依存するのであれば、各臓器の機能をすべて最大値まで引き上げる人格、というものを考えることが出来る。
「火事場のクソ力」という言葉がある。危機に瀕した時、普段の自分からは想像も出来ないような力が出せることを言う。つまりこれは、人間は普段、自分の臓器(人間のすべてのパーツ)の機能を最大限に使っているわけではない、ということを意味する。普段は色んなパーツの機能を50%程度に使っていて、何かあった時にはその機能を高めることが出来る、というようになっているのだろう。
つまり、人間の各パーツには、機能的にまだのびしろがあるということになる。
そののびしろを、普段から出力することが出来れば…。
なるほど、この発想は実に面白いと僕には感じられた。
内容に入ろうと思います。
クレアとその友人は、学校で問題ばかり起こしているケイシーに声を掛け、父親の車で家まで送ってあげることにした。しかし、父親は何者かに眠らされ、謎の男が三人の少女を連れ去った。
男は地下室に三人を押し込め、その内の一人に乱暴しようとしたが、なんとか抵抗した。クレアは三人で力を合わせてあの男を倒そうと持ちかけるが、冷静なケイシーはその提案を蹴る。状況も目的も分からない。情報が圧倒的に足りないからだ。
その後彼女たちは驚くべき光景を目にする。自分たちを誘拐した男が、まったく別の声色(一方は女性の声)で会話をしていたのだ。その後も、9歳だと主張する男の子が出てきたりする。
どうやら彼は、多重人格のようだ。ケイシーは、その状況を冷静に見極め、脱出に必要な計算を咄嗟にするが、なかなかうまく行かない。
一方で、バリー(誘拐犯の人格の一つ)から「すぐに話したい」と頻繁に連絡をもらう、彼ら(主人格をケビンとする23の人格)を診るフレッチャー医師は、バリーだと言って自分のところにやってくる彼に違和感を覚える。彼はきっとバリーではなく、別人格がばりーを名乗っているのだ、と。フレッチャー医師は、彼らの間に何が起こっているのかを知ろうとするが…。
というような話です。
これほど、どんな風に展開するのか想像出来ない映画は久しぶりでした。「多重人格者が女性三人を誘拐した」という事実は早々に分かるものの、それ以外の状況がまるで理解できない。それは、誘拐されてきた彼女たちにしても同じだ。入れ替わり立ち代わり別人としか思えない人格で接してきて、しかも「ビーストがやってくる」などと意味不明なことを口にする。彼女たちを乱暴に扱ったのは最初だけで、以降は彼女たちが反抗的な態度を取らない限りは乱暴はしなかった。彼女たちを「聖なる食料」にするのだというが、その意味も分からない。
意味が分からないのは、フレッチャー医師も同じだ。バリーを名乗る人格が、何をしようとしているのか、まるで分からない。フレッチャー医師はこれまでの経験から、ケビンに現れたすべての人格が、ケビンを守るために生まれたのだと信じている。バリーだと偽る人格も、きっとケビンのためなのだと思いたいが、しかしあまりにも状況が不穏で、真実を探り出そうとする。
基本的な物語は、監禁された少女たちが逃げようとして失敗したり、いくつもの謎めいた人格が理解不能なことを彼女たちに言う、というようなことで展開していく。何が何だか分からないが、何かが起こりそうな予感はずっとあって、否が応でも緊張が高まっていく。監禁されていること自体にも、監禁されている目的が分からないことにも不安を感じている彼女たちの絶望が観客にも感染し、ひたすらに不穏な雰囲気が持続していく。
そして、ラスト近くになって、いきなり物語が別次元に展開される。これは、本当に驚いた。先がどうなるのかさっぱり予測できないと思いながら見ていた映画だから、どんな展開であっても予想外であることには変わりないのだけど、それにしても驚いた。その展開によって、彼が言っていた「ビースト」や「聖なる食料」の意味がようやく理解できるようになる。加えて、冒頭の方でフレッチャー医師がスカイプで参加していた学会で、「解離性同一性障害は脳の潜在能力を高める結果になっているのではないか?」と発言していたが、その意味も理解できるようになる。
正直言って、ある意味で超展開の物語ではあるんだけど、でも合理性がある。恐らくありえないだろう、と思いつつも、可能性を感じさせる展開で、僕はこういう合理性のある展開は好きだ。「ビースト」を呼び覚ましたものがなんだったのかなど、イマイチ理解できない部分もあったのだけど、それでも、解離性同一性障害という要素を使って可能な限りあり得る展開を提示できているように感じられるので、僕は面白いと思った。
しかし、後半になればなるほど、なんというか恐怖映画タッチになっていって、しかも、「目に見える恐怖」というよりは、「目に見えない恐怖」の方が強いという意味で、日本の心霊映画っぽい不穏さを感じた。実際には、その恐怖は視認できるものなんだけど、目に見えているものだけが恐怖の実態なのではない。恐怖の源泉は、実は、目に見えない部分から湧き上がっているはずだ、という思いが、この映画に怖さを生み出しているのだと思う。そういう部分も、とても良かった。
あと、これはどうでもいい話なんだけど、ケイシー役の女の子が凄く良かった。僕は普段、あんまり「この顔が好き」というのはないんだけど、ケイシー役の女の子の顔、メッチャ好きだなと思いました。感情をあまり表に出さないキャラクターだったことも、良かったのでしょう、恐怖を表に出さずに無表情でいる様が、僕には凄く素敵に映りました。
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