【映画】「コット、はじまりの夏」感想・レビュー・解説

とてもシンプルで、丁寧な物語だった。ハリウッド映画みたいな怒涛の展開がないと満足できない、みたいな人には恐らく退屈さを感じてしまう映画だと思うけど(まあ僕も、若干退屈を感じないではなかった)、どうにもならない日々の中で踏ん張っている少女の、微かに差し込んだ光明みたいなものを丹念に描き出す作品であり、シンプルだからこそ力強く届く作品だと感じた。

作中には、いつの時代の物語なのかはっきり分かる描写はないが、少なくとも「手紙でやり取りするのが当たり前の、スマホなど無い時代」が舞台であることは分かる。公式HPによれば、物語は1981年が舞台になっているそうだ。アイルランドの田舎町に住む、牧場を経営するキンセラ家には、電話も引かれていないようだ。

主人公は、9歳の少女コット。彼女は、「いじめられている」というほどではないのかもしれないが、学校に上手く馴染むことが出来ず、家にいても家族と安心できる時間を過ごせるというわけではない。「ここに私の居場所がある」と感じられるような瞬間を持てずに毎日を過ごしている。

コットの母親は妊娠中であり、寡黙で何を考えているのかわからない”手のかかる”コットを、夏休みの間だけ親戚のキンセラ家に預けることに決めた。

初めこそ、慣れない環境に不安そうにしていたコットだったが、甲斐甲斐しく世話をしてくれる妻アイリンと、無骨ながら思いやりを持っていることが伝わってくる夫ショーンとの静かで穏やかな日々に、コットは今まで抱いたことのないような心境になる。

ずっとここにいたい。コットは初めて、「居場所」だと思える場所を見つけることが出来たが……。

公式HPを見ると、原題(の英題)は「The Quiet Girl」のようだ。直訳すると「静かな女の子」となるのかもしれないが、作中のセリフを踏まえると、「大人しい子」「手のかからない子」というぐらいの意味なのではないかと思う。

というか恐らく、「quiet」の意味が、自宅とキンセラ家で違ってくるという点に、この映画の主題があるのだと思う。

自宅では、「quiet」は単に「寡黙」という意味で、どちらかと言えば悪い印象で受け取られているのだと思う。先程、母親がコットを”手がかかる”と捉えている風に内容紹介を書いたが、恐らくそれも、「寡黙で、何を考えているかわからないから手がかかる」という感じなのだと思う。

しかし、コット自身は同じ「quiet」のままなのだが、キンセラ家では受け取られ方が変わる。2人もコットのことを「寡黙」だと感じるわけだが、しかし決してそれを悪い風には受け取らない。「そういう子なんだ」という風に捉えているのだ。ある場面でショーンが、コットのいる前で彼女のことを「手のかからない子だ」と評していた。僕の感触では、これを「悪い意味」に受け取る人もいるんじゃないかと思うが、恐らくコットはホッとしたのではないかと思う。自分がずっと「手のかかる子」だと思い込まされていたのだから、「手のかからない子」と言ってもらえたことは、コットにとっては大きな安心材料になったのではないかと思う。

キンセラ家でのコットの受け取られ方には、映画の後半で明らかになるある事実も関係していると思うのだが、その点については触れないでおこう。しかし、映画ではこの点についてかなり対比的に描かれているように思う。コットの家は子どもが多く、さらに新たに1人生まれようとしているからだ。

対比と言えば、コットの父親であるダンとショーンの対比もまた凄まじい。ショーンは牧場を切り盛りする真面目な労働者なのだが、ダンの方は、何をしているのかよく分からないが、競馬やら賭け事やらでちょっとまともではなさそうだ。そんな2人が結果的に対峙することになるラストシーンもなかなか印象的だった。

本作はとにかく、「コット役の女優」に完全に依存する作品だなと思う。とにかく、コットが適切な存在感を発揮できないと、「何も起こらないだけのつまらない作品」に終わってしまうからだ。コット役の女優を見つけてから脚本を仕上げたのか、先に脚本が出来ていたのか分からないが、後者だとしたらかなりリスキーだなと思う。よくもまあ、セリフがほとんどない中でこれほど静かに心情を表に出せる子役を見つけてきたものだなと思う。

「映画の中盤ぐらいから、ずっと余韻」みたいな作品であり、そういう穏やかで静かに流れる時間を味わいたい人にはオススメの作品だ。

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