【本】森博嗣「少し変わった子あります」感想・レビュー・解説
昔は、二人きりという状況が、ひどく苦手だった。
僕は、人見知りをする性格である。とにかく引っ込み思案で、人と接することが苦手だった。少なくとも、自分ではそう認識していた。それでいて、学級委員などに立候補したりするのだから、我ながら矛盾したものだと思う。
昔はだから、二人きりになると、どうしていいのかわからなかった。二人きりと言っても、意図的にそなるわけではない。彼女がいたわけでもないので、ふとした偶然から、取り残されるようにして、その空間に二人きりしかいない。そんな状況に時々なる。そんな時、どうすればいいのか分からなかった。
話題が豊富な人間ではない。何を話そうか、とまず迷う。その上、人見知りである。普段集団でいる時には何でもない友達でも、いざ二人きりになると何を話していいか分からなくなる。何か話そうとすれば不自然になるし、そのまま話し続けようとすれば、何か決定的におかしくなってしまう。
沈黙も、苦手である。
僕は常々、沈黙が許容される人間関係を求めてきた。僕にとって、人間関係の最終目標はそこである。お互いが同じ空間にいて、それでいて沈黙を許容することができる。いや、むしろ、沈黙を楽しむことができればもっといいと思う。とにかく、空気みたいに接することができる関係。それを僕は、いつだって求めている。
ただ、沈黙というものは、それが許容できない関係性の間では、酷く歪な存在として立ち現れる。親しくないわけではないが、黙っていていいわけでもない関係。やはり人間関係というのは、どうにもそういうところに落ち着いていくもののようだ。だからこそ、喋らなくてはいけない、と僕は焦る。焦ってもいい結果はうまれないと分かっていても、焦らずにはいられない。
そんな、落ち着かない状況を生み出すのが、つまり二人きりという状態なのである。昔はそれが、堪らなく苦痛だった。三人いればいい。三人いれば、僕以外の二人が喋ってくれることを期待できる。しかし、二人きりであれば、僕が話さないわけにはいかない。
どうでもいい話だが、ものすごく変なことを思い出した。
たぶん、中学生の頃である。教室で、僕と、その当時僕が割と好きだった女の子が、何故だか残った。そんな時、その女の子が、僕の背中に覆い被さるようにしてそっと抱きついてきて、そして何かを口にしたのだ。言葉は思い出せない。「あなただったらいい」という感じのないようだった気がするが、何がいいのかさっぱり思い出せない。
たぶんこれは僕の身に実際起こったことだと思うのだが、もしかしたら夢かもしれない。とにかく、何となくだが、そんなことがあったなぁ、ということを思い出した。
さて、しかし最近は、状況にもよるが、むしろ二人きりであるという方が安心できる、という風に感じられるようになった。
この変化は、決して僕が社交的になった、ということではない。今でも僕は、人からどう思われているかはわからないけど、人見知りであるという自覚に変化はないし、喋ることは今でもそんなに得意ではない。
ただ変化したのは、なんと言えばいいのだろう、他者の視線をどれだけ意識するか、ということのような気がする。
最近では、誰かがいる前で他の誰かと喋る、ということが、酷く恥ずかしく感じられるようになった。つまり、何について話しているのか、他者に聞かれたくない、という感情が、最近僕の中で育ってきているのである。
何故だかは分からない。他者の視線を意識するという意味での自意識だったら、恐らく昔の方が強かったと思う。昔は、人の目ばかり気にして行動している子供だったのだ。
だから今では、二人きりという状況の方が、僕は喋りやすい。もちろん、緊張することは今でも変わらない。二人きりの時に一体何を話せばいいのか、こんな話をしてつまらないだろうか。そうしたことは、いつだって考える。
しかしそれでも、二人きりという状況になると、多少ほっとしている自分がいることに時々気づく。そこまで外に出したい言葉があるわけでもないのに、これでやっと喋れる、という風に考えるのだろうか。不思議なものである。
あるいは、二人きりという状況が、孤独を薄めるからかもしれない。
僕は、孤独というものと、結構長いこと付き合ってきたつもりである。割とうまくやってきたと思うし、かなり無理をしたり複雑に物事を考えたりしたこともあるけれども、孤独をもてあましたり、孤独に打ちひしがれたり、といったことは、特になかったはずだ。
しかし、もしかしたら最近、孤独との付き合いをうまくできなくなっているのかもしれない。
大勢の人間と喋っていると、僕は喋る機会が少ない。というか、人の話を聞いている方が好きだし、僕が喋るよりも周りの人間が喋っている方が明らかに面白いという判断もある。
しかし、昔からそういう人間だったはずなのに、そういう状況で僕は、もしかしたら孤独を強めているのかもしれない。
大勢の人間の中で喋っていない、という事実が、僕自身の孤独を不当に強めているような気もしないでもない。排除されているというのとは違って、紙に水が染み込むように、じわじわ失われていくような、そんな感じがするのかもしれない。
だからこそ僕は、二人きりという状況を望むのかもしれない。
二人きりという状況であれば、二人で会話をするしかない。その分、僕が感じる孤独は薄まる、と考えているのかもしれない。あくまでも推測である。自分でもよくわからない。
僕は、孤独は好きである。それは、美しいものだと思うし、上質な孤独であればあるほど、なかなか実現しないものだと思っている。
ただ、粗悪な孤独というものが、世の中に広がりすぎているようにも思う。芸術的でも現実的でもない、ただ単に独りであるというだけの孤独が、蔓延しているように思う。
その、粗悪な孤独には捕まりたくないと思う。矜持のある、美しい孤独に囚われて生きていたい、とそう願っている。もちろんそれは、どこかに落ちているわけではないだろう。自らの手で、掴み取らなくてはいけない。それだけの価値がある。そう僕は思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
小山は、大学の教官である。多少地位は高いが、どこにでもいる、ごく普通の大学の教官だ。
始まりは、後輩である荒木から聞いた話だった。その荒木は、今では行方不明になっている。誰も、その行方を知らない。警察にも、失踪届が出ているようだ。
二人で飲んでいる時に出た話だ。どうにも奇妙な店があるのだ、という話だった。その店は、一人で行くことが条件であり、連れを連れて行けない。場所も、常に変わる。店の名前はない。女将が一人いて、料理を出してくれる。それを、その静かな空間でただ食べる。ただ、それだけの店だ、というのである。
そこまでならば、珍しい話ではない。そういう類の高級料亭は、ないではない。しかし荒木という男は、その店のサービスに対してある変化をもたらした、というのだ。
それは、一人の女性と共に一緒に食事をする。そういうサービスである。
二人分の食事代を支払って、ただ一緒に食事を摂るだけである。他には何もない。ただそれだけだ。
そんな奇妙な店の話を、荒木が失踪したという話を聞いた後に思い出した。
行ってみようか…そう思い、その店の電話番号の載った荒木からの古いメールを引っ張り出す。
いつでも予約は取れた。専用の車が大学までやってきて、毎回違う場所まで送ってくれる。付き添って食事をする女性も毎回違う。違うのだけれども、特に特徴があるわけでもなく、ごく普通の女性である。不思議な店である。
ただ小山は、この店の雰囲気にどんどんと惹き込まれていく自分を認識している。どこが、ど指摘するのは難しい。ただ女性と食事をするだけだし、女性と会話すらしないこともある。ただここにいると、人間というものの本質が見えてくるような気がするし、孤独という形がはっきりと浮かび上がるような気もするのだ。まあ、気のせいかもしれないのだが。
そうして小山はその店に、何度も通うことになる…。
という感じです。
僕の中では、非常に面白い作品だな、と思いました。森博嗣の作品としてはかなり珍しいもので、これまでのどの作品とも似てないですね。醸し出す雰囲気は、「スカイクロラ」シリーズのようですが、大分趣は違います。
本作の中で、この料理を食べる空間を、芸術かもしれない、と指摘する文章がある。
『なるほど、これは芸術かもしれないな、と私は思い至った。芸術が成立する条件とは、第一に、それが人間が成したものであること。第二に、無駄な消費であること。これが私の定義である。まさに、今日のこの部屋の沈黙こそが、芸術そのものではないだろうか。』
この指摘は、大げさな表現になるが、非常に美しいと思った。なるほど、芸術とは、そこまで範囲を広げられるのだな、と純粋に思った。確かに、本作で読む限り、この空間そのものが芸術だと感じられる。その非日常性、日常の中では恐らく獲得することは不可能な何かが、その空間に充填されている。その密度が、その空間を芸術として成立させているのだと、僕は感じた。
その空間の中では、何か目新しいことが起こるわけでも、面白い話が聞けるわけでもない。女性の故人的な情報はわからないし、聞いてはいけないルールだ。特に共通点はないのだが、とにかく食事を食べる仕草、その全般が美しい女性たちである。その食事の仕草を見ているだけで満足できるほどの優雅さが、彼女達には備わっている。そういう空間である。
正直、かなり行ってみたいと思った。興味がある。その空間は、僕に優しいような気がするのだ。冒頭で、二人きりになることについて書いた。最近では慣れていると感じられるけれども、しかしそれも、この空間に比すれば、まったく別の価値観であろう。沈黙や孤独すらまるで不自然ではない空間。
初めてあった者同士なのに、既に関係性が出来上がっているような、それでいて繋がっていないような、そういう不思議な空間が生み出されている。そこは、心地よさそうな感じである。ありきたりの表現だが、まるで子宮の中にいる感覚を覚えるかもしれない。
とにかく、美しい物語だと思った。かなり抽象的な世界観だし、抽象的な観念がいくつも思考される。それらが、まとわりつくようなべたつかさを持たずに、僕の周りを漂う。心地いい感覚だ。小説を読んでこんな気分になることは、珍しい。綺麗な世界に触れたからだろう。
森博嗣は、自作について評価しない。しかし以前一度だけ、「STAR EGG」という絵本について、初めて人に勧めたいと思う作品だ、と評価した。
本作についても森博嗣は珍しく自己評価している。確か、MLAの日記に書いてあったはずだ。曰く、恥ずかしくない作品、だそうだ。確かに、これまでの森博嗣の小説のどの方向とも平行にはなりえないし、だからと言って直角に交わっているわけでもない。あらたなベクトルを生み出し、その方向へと前進している。そんな作品に思える。
とにかく上質な体験だったと思う。僕としては、かなり満足できた。奇妙な店の空間も、そこに現れる女性も、小山の日常も、抽象的な思考も、ラストの終わり方も、僕としてはどれもが満足だった。森博嗣の作品で、久々の大当たりだと言ってもいいだろう。
是非とも読んで欲しい作品です。森博嗣をミステリを書く作家だと思っている人は、本作を読んで戸惑うかもしれないけど、「スカイクロラ」なんかを読んでいる人には、面白いかどうかは別として受け入れられる作品だと思います。是非とも読んで欲しいと思います。素晴らしい作品でした。
久々に、気になった言葉を抜き出して終わりにします。
(前略)料理について、材料や製法などの説明をあれこれ受けることは、非常に退屈だと私は常々考えていたからだ。そんなことはどうだっていい。何故なら、一口食べればすべてがわかる。それ以外に料理の価値があろうはずもないではないか。
女将が部屋から出ていったとき、私はふと気がついた。人間に対しても、同じことがいえるかもしれないと。つまり、あれこれ説明を受ける必要などない。どんな名前で、年齢はいくつで、出身はどこで、どんな身分で、どんな生活をしているのか、どんなことを考えているのか、そういった説明的な情報によって、その人間の味わいが変わるだろうか。それが、人の本当の価値だろうか。そんな情報は、いくらでも捏造することができる。そういった情報に、普段どれだけ私たちは惑わされているだろう。
(後略)
(前略)
「ここにいる空気たちが、ずっと昔は、私の周りにいました」
(後略)
(前略)けれども、このエゴこそが個人の起源ではないのか。あらゆる権力者が、すべての冨を投じて、殺戮と搾取を繰り返し、結局最後に手に入れたものが、人間の孤独だったように。王家の墓に眠っている莫大な財宝が長い眠りの末に証明した唯一が、個人の名前だったように。
(後略)
(前略)
「以下になって振り返れば、そのとおりです。教育者であることも、あるいは、研究者であることも、つまり、何者でも同じですが、自分をなにか一つの者だと認識すれば、即座にそれは堕落です。何故なら、何者かになることが、停止した状態を私にイメージさせるからです。私は、何者かになりたかったのではなく、何者かに憧れ、そちらへ向かいたい、そのために前進がしたかったのです。私が思い描いている姿とは、つまりそういうものです、常に変わりたい。止まりたくないのです」
(後略)
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