【映画】「フロントライン」感想・レビュー・解説
映画『国宝』の時も同じことを書いたけど、これもまあ観るよね。見逃せない。そして、やっぱり凄い映画だった。大体ずっと泣いてた感じ。
さて、まず書いておきたいのは、本作は「物語」っぽくしていないということ。例えば、作中には「明確な対立構造」みたいなものはほぼない。いや、あるにはあるが、こういう物語だったらもっと分かりやすく対立構造を作り、「それをいかに乗り越えたか」みたいにするだろう。しかし本作は、そういう構成になっていない。対立の火種みたいなものは随所で描かれるし、それら1つ1つはもちろん重要なものなのだけど、それらは決して物語の中心に浮上してきたりはしない。もっといくらでも「物語」っぽく脚色することは出来ただろうけど、そうはなっていないのだ。
そして敢えていうのであれば、最大の対立構造は「DMATと世間」ということになるだろう。本作では、その「世間」を描く要素として「マスコミ」が登場している。本作に登場するほとんどの人間が「船内に残る人々の命を救うために今何をすべきか」を考えているのに対して、マスコミだけは「どうしたらこの騒ぎをもっと盛り上げられるか」という発想をする。もちろんそれは、「視聴者がそれを望んでいるはずだ」という発想から来るのであり、だからこそ、本作で描かれる「マスコミ」は、「世間」とイコールと捉えるべきだろう。
恐らく本作を「物語」っぽくしなかったのも、この「世間」との関わりが大きいんじゃないかと思う。本作では、ダイヤモンド・プリンセス号の出来事が起こった時に僕らに見えていたものとは違う現実が描かれている。マスコミを通じて映し出される「現状」は、「色んな不備・ミス・手違いがあり、船内で大変なことが起こっている」という感じだったと思うが、本作の制作陣は「そうではなかった」ということを強く伝えたかったのだと思う。
だからこそ、本作のラストには、普通見かけない注意書きが表示された。「本作は事実を基にしているが、物語の都合で一部時系列を入れ替えたり、複数人が行ったことを1人の出来事として描いています」「作中にはマスクを外したシーンも多くありますが、実際には、食事の時間を除いて隊員はほとんどの時間マスクをしていました」みたいな文章が表示されたのだ。
僕はこの表示を見て、少し悲しい気分になった。これは別に、制作陣を責めているとかではない。僕が制作側にいても、同じ表記をしただろう。しかしそれは、言葉を選ばずに言えば、「世間を信用していないから」である。正直、「時系列を入れ替えている」とか「実際にはマスクをしていました」なんてこと、書く必要がない。だって「実話を基にした物語」だって言ってるんだから、そりゃあ「事実そのもの」とは違うはずだ。それでもこの表記が必要だったのは、「文句を言ってくる人間がいるだろう」と思われているからだ。そしてその予測は正しいだろう。間違いなく、文句を言う人間は出てくる。そして、「たぶんそういう文句が出てくるだろうな」と思ってしまうことに、僕は悲しい気分になるのである。
本作で「マスコミ」の背後にあるものとして描かれる「世間」というのは、この映画を観に客席に座っている観客を含めた「僕たち」のことである。その認識は避けては通れない。どうしてこんなことをうるさく書いているかと言えば、「本作における最も大きな障害は『世間の反応』によって引き起こされている」からだ。「世間」があーだこーだ言わなければ何も問題なく進んでいたことが、「世間」のせいで滞ってしまう。本作の描写を死ぬほど雑に要約すればそうなるだろう。もちろんそんなこと、ダイヤモンド・プリンセス号の出来事だけじゃなくてありとあらゆる場面で起こっているわけだけれども、こんな風に正面切って「お前らのせいだからな」と突きつけられることもなかなか無いように思う。
そしてだからこそ僕は、本作の制作陣の「覚悟」をそこにみる。本来的には書く必要のない注意事項を敢えてラストに表示したことで、「この作品には、徹底的にリアルを詰め込んだぞ」という強い意思が感じ取れるのだ。そして繰り返しになるが、その「リアル」には「『世間』のせいで事態が悪化した」という描写も含まれる。その事実を僕らは忘れてはならないし、「コロナ禍」という災禍を乗り越えた(と言っていいだろう)今だからこそ、改めて当時を振り返って「我が振り直せ」と立ち止まってみるべきだろう。そんな風に強く思わされた。
さて、もう1つ書いておきたいことがある。これは、映画を観て知ったことではなく、映画を観る前に「王様のブランチ」の特集の中で紹介されていて知ったことなのだが、ダイヤモンド・プリンセス号で対応に当たった「DMAT」(僕はたぶん、ダイヤモンド・プリンセス号の時に初めてその存在を知ったように思う)は、なんと「ボランティア組織」だというのだ。いやホントこれには驚かされた。僕はてっきり「SWAT」みたいな公的組織みたいに考えていたからだ。もちろんその事実を知る前から「DMATにはウイルス対策の経験も権限もない」という事実は知っていたと思う。ただ、「公的に組織された団体」という認識でいたので、「まさかボランティアだとは」とビックリさせられたのだ。
ダイヤモンド・プリンセス号の出来事は、武漢で謎のウイルスが広まったみたいな話が全世界に流れたすぐ後だったはずで、だからマジで「誰も何も分からない未知の存在」だったわけだ。そんなところに、本来的にはウイルス対策は業務外だった「DMAT」が関わることになり、さらに「世間」のせいでバチクソに批判されてしまったのである。
そんなの、やってられないだろ。いや別に、「公的組織だったらいいのか」みたいな話をしたいわけじゃないんだけど、でも「ボランティアだぞ」とはやはり思う。ボランティアでやるような業務でも仕事でもないはずだ。作中でも「DMATがボランティアである」という話が出てくる場面はあるが、本作はその事実を最初から認識した上で観るべきだと思う。全然見え方が違ってくるはずだ(冒頭でDMATに関する説明が表示されるのだが、そこには「ボランティア」という表記はなかったと思う)。
さて、この点に関しては、印象的なセリフが2つある。1つは、神奈川DMATのNo.2として現場で指揮を執る仙道(窪塚洋介)の言葉。彼は神奈川DMATのトップである結城(小栗旬)から「現場は大丈夫か?」と聞かれた時に、次のようなことを言っていた。
【だってみんな、こういう時のために医者とか看護師になったんでしょう。今働かないで、いつ働くのよ】
さてもう1つは、そんな結城が、自身が働く病院理事長から詰められている時のシーン。理事長が結城に、「コロナ患者をこれ以上受け入れるなら辞めたいと話している看護師が何人もいる」と言われた際、売り言葉に買い言葉みたいな感じで「そんな奴、辞めちまえばいい」と口にした後で、さらのこんな風に言うのだ。
【コロナ患者を診るのは、医療従事者の本来業務です。コロナ患者が来るのが怖いから辞めたいなんて言ってる奴は、この病院だけじゃなく、すべての医療の現場から離れるべきだ】
かなり強い言葉で、賛同できないと感じる人もいると思うが、個人的には、あの時あの場面でこれが言えるのは凄いなという感じだった。その後、日本だけではなく世界でコロナウイルスが蔓延し、医療従事者は心も身体もすり減るような生活を送らざるを得なくなった。そして社会全体がそうなってからこういう言い方をするのであれば、まだ共感もされやすいし、理解してももらえるだろう。しかし結城がこう口にしたのは、そうなるずっとずっと前だったのだ。まさに「医者としての使命感」だけで口にしたみたいな言葉であり、もの凄く印象的だった。
しかしそんな彼らにしたって、迷いがないわけではない。っていうか、結城はずっと迷っていたと言っていいだろう(仙道は相当肝が座った人間のようで、迷っているような場面が描かれることはなかったが)。そもそもDMATはウイルスの対応は業務外であり、だから、ダイヤモンド・プリンセス号との関わり方も、当初は「船外での搬送業務のみ」という話だった。しかし神奈川県庁にやってきた厚労省の役人・立松(松坂桃李)から「船内活動をしてくれ」と言われる。結城は当然「DMATの役割じゃない」と答えるのだが、立松は「DMATが専門外なことは分かっています。ただ、日本にはウイルス専門の組織は存在しない。誰かに行ってもらうしかないんです」と言われ、悩みながら船内での活動を決断する。
さらに、「世間」のせいでDMATの隊員に批判が浴びせられるようになると、隊員の1人である真田(池松壮亮)から、「僕が感染するのももちろん怖いけど、そんなことは大した問題じゃない。家族が差別されるのが何よりも不安です」と言われる。「隊員の家族のことは、誰が考えてくれるんですか?」と問う真田に、結城は返す言葉を持たない。
しかし別の場面で結城は、この問いに対する答えみたいなものを出していた。それは、コロナに感染しただろうダイヤモンド・プリンセス号の清掃スタッフ(フィリピン人)の診察をした後のことだ。結城は立松に「陽性の外国人のクルー3人を同じ病院に搬送させてほしい」と頼む。「ハードルが高いですね」と返す立松に結城は、「船の乗客は、マスコミや世間が心配してくれる。でも、船のクルーやDMATは、誰が心配してくれるんだ? 俺が心配してあげたい」と返すのである。これは本当に、「それぐらいしかしてあげられることがない」という結城の苦悩の言葉ではあると思うのだが、真田の問いに対して結城なりに真剣に向き合ったからこそ出た言葉なのかなと思う。
さて、本作ではそんな「コロナ患者の対応に様々な形で当たるDMATの隊員」が描かれるわけだが、彼らの物語が興味深いのはまあ想定通りである。しかし、厚労省の役人である立松が面白い存在だったことは結構意外だった。冒頭で「対立構造が無い」と書いたが、普通こういう物語なら「DMAT vs 厚労省の役人」みたいな構図になるだろうし、その方がわかりやすい。しかし本作では、冒頭に少しそんな雰囲気があるだけで、かなり早い段階で「協調して事態に対応する」という感じになっていく。立松にも実際のモデルがいるのだろうし、本作を観ている限りでは、この立松の臨機応変さのお陰でどうにか状況が前に進んだみたいなことが結構あったのだなと思う。
立松は当初は、「ダイヤモンド・プリンセス号のせいで国内にコロナが持ち込まれたなんてことにならないようにして下さいねー」みたいなスタンスだった。これはつまり、「厚労省としての最優先は『コロナを持ち込ませない』であり、それさえどうにかしてくれたら、後は上手いことやって」みたいな感じだったと捉えていいと思う。まあ、この立松(というか厚労省)のスタンスも分からないではない。日本の場合特に、島国だということもあり、頑張れば水際で食い止める的なことがある程度出来るからだ。というわけで立松には当初、その点しか頭になかったと思われる。
しかし、恐らく結城があるエピソードを話してからだろう、立松のスタンスが変わった気がした。それが東日本大震災の時のDMATの”失敗”の経験である。福島第一原発事故では放射能が怖いということで、高齢者の入院患者の多かった病院から患者を移送することになった。しかし、通行止めなどを迂回しながら200kmの道を走ったバスの中で、45人もの高齢者が命を落としていたという。死因は放射能ではなく寒さ・疲労・持病である。
この経験があったからこそ、結城と仙道は国のスタンスに反する方針を立てた。国内にコロナを持ち込ませたくない厚労省としては、「PCR検査で陽性だった患者を優先的に船から下ろして隔離」と考えていたのだが、DMATはそうしなかった。彼らは、「まずは命の危険のある疾患を持つ者、次に高齢者や妊婦、そして最後に軽症の陽性者という順で船から下ろす」という決定をしたのだ。そしてこれを、立松は認める。
そして本作にはこういう場面が結構あった。そしてそういう描写から僕は、「ルールがちゃんと運用されているからこそ、ルールを破ることが出来るようになるんだよな」と感じた。
例えば、感染症などの場合に患者を病院に搬送するには「勧告」と「◯◯(こっちは忘れた)」という手続きを経なければならないと法律で決まっているそうだ。たぶん、「保健所が病院と患者を仲介し、病院の人間が患者と直接会って承認する」みたいな手続きのようである(詳しくは覚えていないが)。しかしそんなことをちゃんとやっていたら、「勧告」と「◯◯」を終わらせるだけで数日掛かる。立松が、その日の昼までに陽性者全員を下ろしたいと言っているのに、それじゃ出来るはずがないと結城は言う。
そこで結城は、「ルールは破れないかもしれないが、変えられるんじゃないか?」みたいな提案をする。ルールを決めてるのは厚労省なんだから、お前がそれを変えろよ、というわけだ。そしてその後、立松がどこかの病院に「既に『勧告』と『◯◯』は終わってるんで受け入れて下さい」と電話するのを聞いて、結城が「どこだよ、そんなに早く手続き終わらせた保健所は」と尋ねるのだが、それに対して立松が「手続きなんて終わってませんよ。嘘です」と答えるのだ。厚労省内で根回し中だが、それが決まるまで動けないと話が進まないから、とりあえず嘘で乗り切ることにしたというわけだ。
また他にもこんな場面がある。夫が病院に搬送され、1人残された妻が、「誰も夫がどうなったか教えてくれない」と絶望する場面がある。そこにクルーの羽鳥(森七菜)がやってきて「ご主人の状況は必ず私が聞き出します」と約束するのだが、その話をDMATの隊員にしてもまったく取り合ってもらえない。「今は陽性者の対応が優先だ」というわけだ。まあそれはその通りである。
しかしその後、DMATは検疫のルールを破って、その妻を夫が入院する病院まで連れて行く決断をする。そのことを知った検疫官が「そんなルール破りが許されるわけがないでしょう」と詰め寄ってくるのだが、それに対して結城が、「私は人道的に正しいと思う判断をしました」と説得するのだ。彼女は色んな人の尽力の末、夫が入院する病院に行くことが出来たのだが、その後この報告を受けた立松が、「患者の家族については、今後はこの対応がいいかもしれませんね」と発言するのだ。彼も、このやり方がルール違反だともちろん理解しているのだが、しかし結城らの判断を追認するのである。
別に、ルールに固執した検疫官を悪く言うつもりはない。というかむしろ、「普段からルールを絶対的に守っている検疫官」がいるからこそ、DMATがルールを破ることが出来たとさえ言えるかもしれない。
「ルールがあり、厳しく運用されている」ということは、「ルールを破ったらどうなるかが想定されている」ということでもあるはずだ。そしてだからこそ、「ルールを破るにはどうしたらいいか?」という思考が出来るとも言えると思う。だから、検疫官も正しいし、結城も正しいし、立松も正しい。繰り返しになるが、僕は本作のいくつかのシーンから、「ルールを厳密に守っているからこそ、いざという時にはルールを破ることが出来る」と感じたし、このことはあらゆる分野・状況で共有されるべき発想じゃないかなとも思った。
さて、本作においては、小栗旬・窪塚洋介・松坂桃李・池松壮亮というド級の役者が主役を張っているのでメインどころとは言えないのだが、森七菜が演じるクルーの羽鳥もとても良かったと思う。なんというのか、このダイヤモンド・プリンセス号の出来事において、最も苦しい立場の1つがこのクルーたちだったんじゃないかと思う。DMATや厚労省は「後から関わってきた人たち」だし、乗客は「お客さん」である。しかし、クルーズ船のクルーというのは、本来的には乗客と同じく「被害者」であるはずなのだが、立場的にはなかなかそうは言っていられなかっただろうし、結城が言っていたように「心配してもらえない立場」でもあったと思う。「未知のウイルスが蔓延した」という状況そのものに対してクルーズ船の会社やそのクルーにはなんの非もないわけだが、それでも最前線で対処せざるを得ないわけで、ホントに辛かったんじゃないかなと思う。
さらに羽鳥は、直接のお客さんである乗客と、未曾有の危機に立ち向かっているDMATの間に立たされる存在でもあり、その大変さもある。特にクルーズ船には当時56ヶ国にも及ぶ乗客乗員がいたそうで、言葉の問題がかなり大きく伸し掛かっていた。その対応は、クルーがやるしかない。羽鳥を含め、クルーが苦労を表に出す場面はほぼ描かれないが、笑顔や丁寧なお辞儀の奥に、積み重なった疲労みたいなものが色濃く滲み出ている感じがした。
そしてマスコミだよなぁ。本作の中で最もステレオタイプっぽくて、最もフィクションっぽいのだけど、しかし僕らは、このマスコミの描かれ方が事実だと知っている。というか、本作で描かれる事実の中で、観客が鑑賞前に唯一知っているのが「マスコミの動き」だけだとも言えるだろうか。
もちろん僕らは、マスコミの人が何を考えてどう動いていたのかまで知っていたわけではない。しかし、あの当時は、普段テレビを観ないという人だってかなりニュースを観ていたんじゃないかと思うし、だから「ダイヤモンド・プリンセス号の出来事がどう報じられていたのか」は何となく記憶にあるはずだ。そしてそこからの類推で、「マスコミはきっとこんな理屈でこんな行動を取っていたんだろう」みたいな想像も出来るはずだと思う。
もちろん、どんな場合も「真実」を伝えることは難しい。「目の悪い子どもがゾウを触って感想を言う時、鼻に触った者と足に触った者と耳に触った者では全然違う」みたいな話(ネットで調べると「群盲象を評す」みたいな表現があるらしい)があるが、これと同じように、どんな物事にも多面的な捉え方があり、どこからどう見るかで見え方は全然違ってくる。だから「マスコミが提示している情報」が「誤りだった」ということにもならないだろう。それは確かに「真実の一部」であり、「間違っている」などと指摘できるようなものではない。
ただ、本作でマスコミは「状況がより悪く映るようにするためにはどう情報を提示すべきか?」を考えているように描かれている。やはりそれは正しくないだろう。状況をフラットに捉えようとして、結果として間違えてしまったのならともかく(それは全然仕方ないことだと思う)、状況が悪く見えるように積極的に誘導するように情報を提示するというのは、やはり許容しがたい。結城もマスコミに対して、「面白がってませんか? あなたがた、本当に、船内の人の命が助かってほしいって思って報道してますか?」と言っていた。本当にその通りだなと思う。
しかし、現場取材をする上野(桜井ユキ)に上司の轟(光石研)がこんなことを言う場面があり、まあそれも分からなくはないのである。
【政府はちゃんとやってます、今日もそこそこ平和です、なんてことじゃ、誰もニュースなんか見ないだろ】
まあ確かにそうかもしれない。危機を煽った方が注目度が上がるというのも、まあその通りだ。しかしだからと言って、その目的のために何かを貶めていいことにはならないと思う。
さて、この話の流れで、厚労省の立松のある発言についても触れておこう。ほぼラストみたいな場面でのセリフなので具体的な状況が伝わらないように書くが、彼は結城に電話で、「僕は自分から結論を出すように誘導したんです。決断することから逃げたんです。あなたやDMATに対しても、善意や良心に付け込んでるだけなんですよ」と言っていたのだ。良い人だなと思う。役人ともなれば、こういうことを自覚できない人も一定数いると思うし、自覚出来ているとしてもそれを他者に伝えたりしないんじゃないかというイメージがある。しかし立松は、自分のそうした「弱さ」を結城に明かすのだ。そして、それに対する結城の返答もまたとても素敵だった。別の場面でのことだが、「これでも、人を助けたいと思って役人になったので」と言っていた立松には頑張ってほしいし、こういう役人がいるんだと思えると、少しは期待が持てる感じもする。
さて最後に少し監督について。監督の名前を別に知らずに観に行ったが、エンドロールの最後に表記された瞬間、「あれ、見覚えがあるな」と思った。そしてすぐに、「あぁ、映画『燃えるドレスを紡いで』の人か」と思い出したのだ。『燃えるドレスを紡いで』はドキュメンタリー映画であり、僕はその作品でこの監督のことを知ったので、「フィクションの映画も撮るのか」と思った。「ドキュメンタリーもフィクションもどっちも撮る人」ってのは他にもいるんだろうけど、ドキュメンタリーを撮りつつ、本作のような「超ド級の役者を揃えました」みたいな映画も撮るみたいなのは珍しい気がしたので、ちょっと意外に感じられた。
そんなわけで、別にどのシーンというわけではなく、冒頭から最後までほぼずっと涙腺は潤んでいたし、涙が頬を伝う瞬間も多々あった。ホントにこういう、「お前は人間としてどう振る舞うんだ?」と突きつけられる状況下におけるギリギリの人間模様というのは圧巻だったし、そしてそれが実話を基にしているということに驚かされてしまった。あまり「観るべき」みたいな表現は使いたくないが、「あの時あの場所で何が起こっていたのか?」について立ち止まって振り返ってみるべき出来事であることは間違いないだろうし、そのための手段としても本作は素晴らしいと思う。いや、もちろん、エンタメ作品としても見応えがあるし、そういう意味でも観てよかったなと思うのだけど。
少し前に観た映画『国宝』でも同じ表現を使ったが、とにかく「圧巻」だった。
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