【乃木坂46】「主体性0か100」の齋藤飛鳥ー「乃木坂工事中」(齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯)ーを見て

2016年4月10日の「乃木坂工事中」が、齋藤飛鳥特集でした。少なくとも僕が「乃木坂って、どこ?」「乃木坂工事中」を見始めてから、齋藤飛鳥が一人で特集されるのは初めてです。たぶんそれまでもなかったんじゃないか、と思います。

企画は、「齋藤飛鳥独り立ち計画 初めての◯◯」と題して、齋藤飛鳥が一人では出来ないこと、やったことないことを、メンバーからのタレコミや実験なんかを交えながら紹介していく、という内容です。

まずざっと、番組の中で取り上げられていた、「齋藤飛鳥が一人ではできないこと、やったことないこと」を挙げてみます

◯服を一人では買えない(ちょっと前まで買い物自体一人で出来なかった)
◯朝ごはんを一人では食べられない(母親に食べさせてもらっている)
◯ご飯を炊いたことがない(手伝いではなく、一品自分で完成させる、という意味での料理はしたことがない)
◯高校生になるまで缶ジュースを開けられなかった(缶詰はこの企画の日まで開けられなかった)

なかなか斬新です。スタジオでも、バナナマンを初め、メンバーもかなり驚いていました。もちろん僕も驚きました。

それぞれのエピソードそのものももちろん面白いです。黒か白、どちらの猫耳をつけるかで母親と3時間悩んだり、詰めが剥がれそうになるから缶ジュースは一生開けられないと思ってたとか、朝ごはんを食べさせてもらってるのは髪を乾かすあいだにご飯を済ませたいという時短の意識なんだとか、それぞれの話でぶっこんでくるエピソード自体ももちろん面白いんです。

でもそれ以上に僕は、それを喋ってる齋藤飛鳥のスタンスがいなと思って見ていました。こう、どのエピソードも、「え、別に普通だけど」みたいなスタンスで話すんです。殊更に変わってる部分をアピールするでもなく、かと言ってもちろん自分のやり方が普通であることを力説するでもなく、割と淡々に、えぇ私はこうですから、みたいな雰囲気を自然と醸し出す。

僕は、子供の頃は、周りと違うことをかなり恐れているようなところがあったので、周りから「えっ?」って言われるだろうエピソードは積極的に話せなかったし、今は今で、自分のおかしな部分を積極的に出すことで対人関係の防御にしているような部分があるので、ナチュラルな感じで自分の行動や選択を話せない。齋藤飛鳥は割とそういうものとは無縁で、自分にとってそれが日常であるからそうなのだ、周りからどう思われてもいいし、別に自分からアピールもしませんよ、というスタンスが表によく出ている感じがして凄く良かったな、と。齋藤飛鳥を語る時にいつも年齢のことを出してしまうんだけど、よくもまあ17歳でそういうスタンスを身につけられているものだな、と感心しました。

しかし齋藤飛鳥というのは不思議な子だな、と。奥が深い。こういう底の知れない人間には益々興味が湧いてしまう。

服を自分で選べないとか、ご飯を一人で食べられないという話からは、齋藤飛鳥の主体性のなさを感じる。自分の意志がない、こうしたいああしたいという欲求に欠けている、そんな風に見えなくもない。でも、そういう見方をすると齋藤飛鳥を捉え間違えるんだろうな、という気もする。

齋藤飛鳥は、主体性を持つ対象が限られているのだ、と僕は捉えている。そしてそれぞれに対して0か100かのレベルで主体性を持っているのではないか、と思う。

齋藤飛鳥が主体性を持たないと判断している対象に対しては、本当に主体性0で臨む。それが、服を自分で選べないという行動に繋がっていく。そこに自分の意志を一切介在させない。そのすべてを他者に委ねてしまう。

そして齋藤飛鳥が主体性を発揮すると判断している対象に対しては、主体性100で臨む。

齋藤飛鳥は、仕事で疲れている日は、家に帰る前に母親に「今日は疲れているので話しかけないで下さい」というメールを送るという。齋藤家は、母も二番目の兄も陽気なのだそうで、二人のやり取りはネタみたいだという。普段はそれに突っ込む齋藤飛鳥だが、疲れている時はそれをやりたくないから先に宣言しておくのだ、と。

これなどまさに、主体性100の事例だろう。齋藤飛鳥は家では、本を読むか携帯をいじるかしかしない、と齋藤飛鳥母は言っていたが(番組に電話で、齋藤飛鳥母が登場した)、自分はこうしたいと思う対象に関しては妥協せずに自分の意志を貫く。

そして恐らくだが、齋藤飛鳥には、その中間の主体性というのはないのではないかと思う。そんな雰囲気を感じる。主体性40とか主体性70みたいなことはなくて、何に対しても0か100。そんな風に決めているから、外から見た時にちぐはぐな印象を与える結果になるのかもしれない、と思う。

主体性を0か100のどちらかに振り分けるというのは僕もやっている。それは、人間関係をどうにかこなしていくのに都合のいいやり方なのだ。

主体性0でいることは、他者の判断や価値観をそのまま受け入れることだ。僕は、食べたいものもやりたいことも行きたい場所もなく、「ご飯をどこに食べにいくか?」「どこに遊びに行くか?」「どこに旅行に行くか?」というような判断の際に自分の意見を言わない。意見があるのに言い出せないのではなく、自分には一切意見がない、ということを常日頃からアピールしていて、どんな判断でも文句をいわずに受け入れるというスタンスを貫いている。実際僕には、一切の文句がない。主体性0で行くと決めているので、自分の意見を出さないでいられるというのが一番の理想状態であり楽な展開なのだ。

主体性30ぐらいとかで臨むと、自分にも決断の責任が振り分けられる。だったら、自分の意志をゼロにして、主体性なく関わるのだというスタンスをアピールして他者と関わる方が楽な状況は多い。僕は、世の中の大半の事柄に対してそういうスタンスで臨んでいる。

しかし、それだけではどうしてもしんどくなることはある。だから、主体性100で臨む領域を確保するようにしている。主体性100で臨むということは、他者を一切関わらせない、ということだ。これは逆に、すべてを自分で決めるということだが、他者の判断や選択に後悔することもないし、すべての責任を自分で受け入れればいいだけなので、これも実は楽な選択なのだ。

社会の中で生きていく上で、すべての事柄に対して主体性100で臨むことはしんどい。だから大半の事柄に対しては主体性0で臨む。他者と関わる際には、自分の意志を一切介在させないことで楽に乗り切ろう、という判断だ。しかしそれだけだと自分の心が死ぬ。だから、主体性100、つまり他者の意志を一切介在させない領域をきちんと確保しておく。そういう意識を常に持っている。

齋藤飛鳥が同じスタンスでいるかどうかは判断できないけど、近いものを感じはする。齋藤飛鳥はそろそろ部屋を借りて一人で住むことも検討しているという。その環境の変化が、主体性の判断基準に影響するかもしれない。それまで、生活全般は主体性0の対象だったが、一人暮らしをすることで主体性100に変わるものも出てくるかもしれない。齋藤飛鳥母は、齋藤飛鳥はやれば出来るのにやらないだけなんだ、と語る。主体性0で臨む時は、やれるけどやらない、という判断になるのは当然だ。やらなければならない、という状態になった時、齋藤飛鳥の主体性はどんな風に変化していくのか、楽しみである。

齋藤飛鳥本人と関係ない部分で面白かったのが、料理のナレーションと、齋藤飛鳥母の最後の言葉だ。

齋藤飛鳥が初めて料理をする(チャーハンを作る)という企画では、ナレーションが秀逸だった。

『玄米を炊飯器に直接、「まいっか」と思える量いれます』
『炊飯器に油を適量入れ、適当な設定でスタートさせます』
『にんじんの皮むきでは、一周回ったことに気づかないのでずっと剥き続けます』
『絶望的な弱火で、油を引かずにご飯を炒め始めます』
『奇跡的に火力が強くなったので、炒めている音がし始めます』
『しょうゆ レタス 塩コショウ の順で味付けをします』

最初から最後までこんな感じのナレーションが続いていきます。齋藤飛鳥の手順の変な部分を大げさに取り上げるのではなくて、さも普通に調理をしているかのようなテンションで齋藤飛鳥の調理を描写することで、齋藤飛鳥の異常さがより際立つ形になったのではないかと思いました。

あと、齋藤飛鳥母の最後の言葉は、スタジオでも大爆笑でした。齋藤飛鳥はやれば出来るんだ、私が病気で寝込んだ時には色々手伝ってくれる、という話の流れで、「私はおかゆが好きなので」と齋藤飛鳥母が言うが、これが凄く面白かった。おかゆが好きと以前番組でも言っていたし、チャーハンを作っている時にも、みんなパラパラのご飯が良いっていうけど私はべちょべちょが好き、という齋藤飛鳥。そのおかゆ好きが遺伝だったのか!という面白さがありました。

「常識はちゃんとある」と繰り返し主張していた齋藤飛鳥。この企画からは、常識の持ち主であるという雰囲気はまるで感じられないわけだけど、この感じのスタンスでこれからもやっていって欲しいなぁ、と思う回でした。

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