「Z世代はタイパを重視する」という話を聞いて感じること
若い世代が「タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視している、という趣旨の記事を最近結構見かけるようになった。
僕は別に、「タイパを重視すること」そのものは良いことだと思っている。しかし、現在世間的に言われている「タイパ重視」の流れには、あまり納得がいっていない。「それでいいのか?」と感じてしまうのだ。
「タイパ重視」の話でよく取り上げられるのが「動画視聴」なので、ここでもそれを例にして話を進めていこう。
「若い世代は動画を倍速で視聴する」と言われる。2時間の映画を2倍速にして1時間で観終える、というようなことだ。ストーリーが大体分かればいいし、2倍速でも十分理解できるから、ということのようである。
またすべて倍速にするのではなく、会話のないシーンや展開が遅い場面だけを飛ばすというやり方をする人もいるそうだ。いずれにしても、「効率よく摂取したい」という気持ちの現れである。
さて、先程書いた通り僕は、別に「倍速視聴」自体は良いと思う。映画でもアニメでも、あるいは小説でもマンガでも何でもいいが、「消費者の手に渡った時点で、それをどう扱おうが消費者の自由」だと思っているからだ。もちろん、極端な状況では違う。以前ある日本人がゴッホとルノワールの絵画を数百億円で落札し、その後「自分が死んだら2枚の絵を棺桶に入れて焼いてくれ」と言って世界中の顰蹙を買ったことがある。どれだけ「金を出して買った者の自由」だとは言え、限度はあるというわけだ。しかし、映画や本の場合は、「お金を出して消費しているのなら、どう消費しようが勝手」だと言っていいだろう。
「倍速視聴」に否定的な人は、「映画は『間』こそが大事」「監督の意図通りに受け取ることが重要ではないか」などと主張したりするが、別にそんな意見は無視すればいいと思う。評論家など、「映画を観ること」が仕事であるような人たちなら別だが、趣味のために観ているのであれば、別にどんな風に観ようが勝手である。料理をゆっくり食べて味わおうが、早食いで一気に食おうが本人の自由であることと、状況に差はないと思う。
だから僕は、そういう観点から「倍速視聴」を否定したいわけではない。
僕がZ世代の「タイパ重視」で気になるのは、「手段と目的が逆転していないか?」ということだ。
僕の個人的な感覚では、「タイパ重視」というスタンスは「手段」である。つまり、「膨大な時間を費やすべき何かがあり、その時間を確保するために時間を節約する」ということだ。何か「目的」が存在し、その「目的」のために「タイパ重視」という「手段」を行使する、というのが、僕の感覚では自然なことのように感じられる。
しかし、今の若い世代は、「タイパ重視」こそが「目的」になっているように感じられる。節約した時間を注ぎ込むような「目的」があるわけではなく、「タイパ重視で様々な映像を摂取すること」そのものが「目的」になっているというわけだ。
その状況に、ちょっとしっくり来ないものを感じてしまう。
もちろん若い世代に聞けば、こう返ってくるだろう。「よりたくさんの娯楽に時間を使う」ことが「目的」なのだ、と。確かに、筋が通っているようにも感じられるかもしれない。
しかし、本当だろうか?
僕が言う、「何かの『目的』のために、『タイパ重視』を『手段』にする」という話の場合、その「タイパ重視」にする対象を、本来の「目的」よりも「優先順位で劣るもの」と捉えている。例えば、新しくビジネスを立ち上げた人がいるとして、とにかくそのビジネスに時間を費やすことが最優先だと考えているとしよう。しかし、息抜きも必要だし、商談や交渉の場で世間の話題についていけないのもマズい。だから映像を倍速で視聴するという「タイパ重視」の行動を取るのは自然だと思う。この場合明らかに、「動画視聴」は「ビジネス」よりも優先順位が低いものとして捉えられているだろう。
しかし、Z世代の主張は、「より多く娯楽に触れる」という「目的」のために「娯楽を『タイパ重視』で摂取する」という「手段」を取っている、ということになる。つまり、「目的」も「手段」も、どちらも同じ「娯楽」が意識されているというわけだ。
そしてそれは、さすがに本末転倒なのではないか、と感じられてしまうのである。
「娯楽」以外の「目的」が存在し、その「目的」のために、優先順位で劣る「娯楽」を「タイパ重視」で摂取する、というのは僕には自然なことに思えるが、「目的」も「手段」も「娯楽」という同順位のものが置かれる中で「タイパ重視」が「手段」として行使される状況は、とても歪んでいるように感じられてしまう。当然そこには、「倍速視聴でない方が、映像をより良い形で摂取できるはず」という価値観が僕の中にあるからであり、恐らくその辺りで若者と感覚がズレるのだろう、と思っている。
また、この「タイパ重視」の話を聞く度に、内田樹の『下流志向』の話を思い出す。
この本の中には、「等価交換」というキーワードが出てくる。そして、「『経済合理性』という判断基準で『教育サービス』を捉える若者」の姿が描かれるのだ。なかなか短く説明するのが難しいが、ざっくり言えば、「価値があるものなら、こちらも提供を受けますけど、『教育』って価値あるんですか?」みたいなスタンスで教育に望む学生が増えた、という主張である。
それに対して内田樹は、「『教育』とは原理的に、提供される以前にはその価値が分からないものであり、だから『経済合理性』で判断するのに相応しくない」と書く。「教育」とは、後から振り返って見て「あれには価値があったなぁ」と感じるようなものであり、「教育」を受ける前の時点で「これにはこれこれこういう価値があります」と提示できるような類のものではない、というわけだ。本当に、その通りだと思う。
しかし、「経済合理性」で物事を判断することが当たり前になってしまった若者は、本来的には事前の価値判断など出来ないはずのものにまで「経済合理性」を当てはめ、「価値があるなら提供を受けますよ」という態度で臨むようになっているのである。
この話はそのまま、「動画視聴」などの話に通ずるだろう。何故なら、映画にせよ本にせよ、「触れてみるまでその価値が分からないもの」だからだ。
世の中には、「あらかじめその価値がほぼ理解できるもの」も存在する。例えば洋服は事前に試着が可能だ。食べ物についても試食出来る状況はあるし、試食が無理でも、少量のサイズで味を先に試してから大量買いするみたいなことできる。これらは、「あらかじめその価値がほぼ理解できるもの」と言っていいだろう。
しかし、娯楽に属するもの全般は、普通はそうではないはずだ。映画にせよ小説にせよゲームにせよ、お金を出す前にその価値を十全に判断することは普通はできない。
とはいえ現代では、レビューやネタバレサイトなどが充実しており、大体分かる環境が整ってきている。若い世代は、あらかじめレビューなどを読み、面白いだろうと確信が持てるものしか触れないという話も聞く。ミステリでも、ラストの展開を先に読んで犯人を知ってから読み始める人もいるようで、そのスタンスには驚かされた。
このように、本来的には「あらかじめ価値が理解できないもの」であるはずの娯楽に対しても、若い世代は、「自分たちはそれにお金と時間を費やす価値があるのか」を事前に知ろうする。まさにこれは、内田樹が『下流志向』の中で指摘した状況と同じだと言っていいだろう。
「タイパ重視」のスタンスの背景には間違いなく、「『あらかじめ価値が分からない』からこそなるべく時間を費やさないようにする」という気分も関係しているだろうし、そのことにも僕は驚かされてしまう。
もちろんこれも、「消費者の手に渡れば、後は消費者の自由」という話であるし、そういうスタンスを許容している僕は、このような「等価交換」の感覚も受け入れるべきなのだろう。しかし、このようなスタンスが広がることで、「娯楽そのもの」の方が変質してしまうことが僕としては気になるところだ。
例えば顕著なところで言えば、最近の音楽は「イントロ無し」「ギターソロ無し」が当たり前になりつつあるという。イントロやギターソロを「無駄」と判断する人が増えてきているからだ。僕は別に、音楽に対してこだわりがないので、イントロやギターソロが無くなろうがダメージはないが、映画や小説に対しても、「Z世代の感覚が反映された変化」が取り入れられていくことは、あまり歓迎できないような気がする。
例えば、既にそういう映画が存在するかどうかは知らないが、「倍速視聴した方が面白く観れる作品」なんてものも出てくるかもしれない。小説の場合も、古畑任三郎のような「先に犯人が分かった上で展開される倒叙ミステリー」が主流になるかもしれない。別に倒叙ミステリーが主流になってもいいが、それ以外のミステリが「若い世代に受け入れられない」という理由で廃れていくのは悲しく感じられてしまう。
とはいえ、時代によって作品が変わっていくことは当然だ。僕は数年前に初めて映画『七人の侍』を観たが、「うむ、退屈だ」と感じたことを覚えている。もちろん、公開された当時に観ていたら物凄く斬新だっただろう、ということは、映画鑑賞後に色々調べた中でなんとなく理解した。しかしそれでも、僕が「退屈だ」と感じたこともまた事実である。
だから、「タイパ重視」の世代が、既存の娯楽を「退屈だ」と感じるようになれば、作品の方が変化していくのもまた自然なことだ。受け入れるしかないだろう。
しかし、「タイパ重視」が未来永劫続くかどうかは分からない。詳しくは知らないが、今の時代、改めてレコードがブームになっているという話を聞いたことがある。「音楽を聴く」という意味では、どう考えてもめんどくささしかないだろうレコードが、再び脚光を浴びているのだ。だから、時代がいつ「タイパ重視」を止めてもおかしくはないと思う。
そうなった時に、「タイパ重視」に合わせていた娯楽は、また転換を強いられることになるだろう。だから、「タイパ重視」に合わせすぎるのもまた、正解であるようには感じられない。
そんなようなことをつらつらと考えた。
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