【映画】「響 HIBIKI」感想・レビュー・解説
才能というのはある。
そしてそれは、努力では立ち向かえない。
それを僕は、「数学」という学問を通じて感じることがある。
僕は数学が好きで、有名な定理が証明された過程を描くノンフィクションなんかを結構読んでいる。そもそも扱われている定理自体が難しい場合もあるのだけど、ものによっては、定理そのものを理解するだけなら簡単、というものもある。
しかし、それを証明するとなると、まったく別の話だ。
最近僕が好きな話がある。宇宙際タイヒミュラー理論だ。これは、ABC予想という、昔からの難問と言われている予想を証明するために生み出された理論で、まだ100%とはいかないまでも、恐らくこの宇宙際タイヒミュラー理論によってABC予想は証明されただろう、と考えられている。
この宇宙際タイヒミュラー理論は、確か7年ぐらい前に発表された。京都大学の望月教授がこの理論を発表した際、世界中の超がつく天才数学者たちの中でも、理解できたのはほんの僅かだったという。それから7年がたち、望月教授の弟子たちが熱心に普及したこともあって、今では世界で200人程度の数学者が宇宙際タイヒミュラー理論を理解している、らしい。
しかし200人だ。7年掛けて、世界中に山のようにいるだろう数学者たちの中で、たった200人しか理解できない。そんなものを、たった一人の頭脳が生み出したのだ。
「数学」という学問から「才能」を感じる理由は、「人工物」であり、かつ「唯一の正解を生み出すもの」だからだ。
数学というのは基本的に、人間の生来の欲求や本能に根ざしていないと思う。例えば、文字を理解したり言葉を話したりすることは、ある意味で生存本能などと直結するものだと思う。そういう意味で、文字や言葉を操ることは、人間の生来的な性質である、と言えるのではないかと思う。しかし、数学は違う。数学というのは、人間が生み出した超巨大な構造物であり、それらは生来的な欲求や性質に根ざして生み出されたわけではない。だからこそ、生まれてきた人間が後から獲得する能力だ、と感じるのだ(ラマヌジャンのような例外もいるが)。
また、例えば小説であれば、基本的に唯一の正解などというものは存在しない。基本的には、目の前にある小説を「受け入れるか」「受け入れないか」という個人の判断がそこにあるだけだ。しかし数学は違う。一定のルールに則った人工物であり、だからこそ、目の前に現れた定理は、おおよそ「正しい」か「正しくないか」である(「おおよそ」と書いたのは、数学には真偽が決定できない問題が存在するということを、ゲーデルが証明したからだ)。数学においては、たった一つの解しか許容されない。そのほんの僅かな正解を見つけ出す、という意味でも、数学というジャンルから才能を感じるのだ。
そして、そんな風にして発揮される才能は、正直なところ、努力「のみ」によっては太刀打ちできない。
数学に限らず、どんな分野にでも、やはり才能というのはあると思う。しかし、数学と違うのは、それがどんなものであれ、絶対的な真理を追い求めるものでない(あるいは、追い求めたくてもそれが出来るものではない)ために、「才能」の定義は時代によって変化するだろう。そして大抵の場合、その「才能」を判断するのは「世の中」だ。
もちろん、ここで言う「世の中」というのは、「世の中の人全員」という意味ではない。「才能」というのはやはり、見るべき人が見なければ分からないものでもある。基本的にはある程度の規模を持つ「世の中」が才能を判断し、そうやって認められた才能を「世の中の人全員」が受け入れる、という感じだろう。
絵画の世界に「印象派」と呼ばれるものがある。詳しくは知らないが、マネだかモネだかがそういう絵を描く代表的な人だったと思う。この「印象派」という名付けの由来が面白いと思ったので覚えている。かつて絵と言えば、宗教画のようなものを指しており、自然の風景を描くものは少なかった。しかし、そういう作風が現れるようになったのだが、そういう絵が出始めた頃、批評家が、「あいつらは、物事の印象ばかりを描いている」と批判したのだ。ここから「印象派」と名付けられたらしいのだけど、元々は批判の言葉だったのだ。宇宙の始まりを指す「ビッグバン」という言葉も同じような由来を持っている。ビッグバンという言葉は元々、「宇宙が極小の状態が爆発してデカくなったなんてそんな馬鹿な」と感じた物理学者が、その理論を揶揄するために名付けたものだったが、今ではそれが定着してしまった。
こんな風に、真に新しいもの、真に才能があるものというのは、すぐには受け入れられないし、ごく一部の人間にしか理解されない。
しかしそんな風にして、新しい価値観が少しずつ世の中を変えていく。すぐに受け入れられない価値観を持ち続けながら生きなければならない苦悩はあるだろう。しかしだからこその才能だとも言える。
『誰になんて思われても、私は私が書きたいから書くの。書きたいものがある限り書き続ける。私はそうやって生きていきたい』
この映画を見ながら感じていたことは、羨ましさだ。響ほど、自分を貫いて生きていくことは、ちょっと僕には出来そうにない。
内容に入ろうと思います。
鮎喰響は15歳の高校生。歩きながら本を読むほどの本好きで、文芸部に入部を希望するのだけど、そこは上級生のたまり場のような場所になっていた。しかし響は、自分に非がない時に自分を曲げるのを潔しとしない精神で立ち向かい、ついに上級生を追い出すことに。
一方、小論社で文芸編集者として働くハナイフミは、社内に届いた木蓮新人賞への応募原稿を拾った。「拾った」というのには理由があって、木蓮新人賞はWEBのみに応募であり、応募規定外として破棄されるところだったのだ。「おとぎの庭」というその小説に、ハナイは衝撃を受け、新人賞の応募締め切り前日に自ら原稿をタイプ打ちし、住所も連絡先も分からないまま応募した。
木蓮新人賞の選考が進む中、下読みを担当する者たちからの「おとぎの庭」への称賛が届き始めているが、一方ハナイは、「おとぎの庭」の作者である鮎喰響と連絡が取れずにヤキモキしていた。
ある日ハナイは、今日本で一番売れている小説家・祖父江秋人のコラム原稿を取りに自宅へと向かった。祖父江の5年ぶりの小説が先ごろ発売されたばかりであり、祖父江秋人の小説を読む読者は「ソブエスト」と呼ばれている。そこで、祖父江秋人の娘であるリカとも打ち合わせをするのだが…。
というような話です。
面白かったなぁ。原作は読んでないけど、原作のビジュアルと平手が凄くピッタリで、もちろんビジュアルだけではなく、平手友梨奈という異次元のアイドルの存在と鮎喰響というキャラクターが実に見事に共鳴していると感じた。
原作者は映画化に辺り、鮎喰響は平手友梨奈以外あり得ない、と言ったという。その気持ちは分かる。鮎喰響を今日本で演じられるのは、恐らく平手友梨奈しかいないだろう。平手友梨奈という、妥協を知らない極限のアイドルが、鮎喰響という異端小説家と重なる。素晴らしいと思う。
先日「行列のできる法律相談所」を見ていたら、平手友梨奈と監督の月川翔が出ていた。その中で月川翔が、初日に平手友梨奈から、脚本がつまらないと言われ、その指摘があまりに納得できるものだったから直した、という話をしていた。どこをどう直したのか、という話までは出なかったから分からないけど、さすが平手友梨奈というエピソードである。
鮎喰響の魅力は、行動原理のシンプルさだ。
『社会にはルールがあるの。人は一人で生きているわけではないのよ』
『大人の世界はね、自分一人で責任が取れるなんてことはないの』
鮎喰響の担当編集者であるハナイは、事ある毎に彼女にこう言い聞かせようとする。しかしそれは、妥協と打算が渦巻く大人の世界の都合だ。鮎喰響は、それを拒絶する。
誰もが分かっているのだ。鮎喰響の方が理屈としては正しいのだ、と。鮎喰響の難点は、すぐに暴力に訴えてしまうというところであって、その点をとりあえず無視すれば、鮎喰響が圧倒的に正しいことを言っている。
鮎喰響が暴くのは、大人の都合良さだ。生きていく中で、「仕方ない」「しょうがないよ」「俺が悪いんじゃない」「私のせいじゃない」「だって◯◯だったんだもん」と、僕らは色んな言い訳をしながら生きていく。大人の世界はある意味でそういう堆積で出来上がっているから、言い訳だらけの人生を生きていても、そこから決定的に排除されたりすることはあまりない。誰もが、お互い様だよな、なんて思いながら、そういう言い訳が飛び交う現実を無意識の内に許容しているのだ。
しかし鮎喰響は、そういう欺瞞を見抜く。そして、そこに一歩でも足を踏み入れようとしない。鮎喰響は、決して他者の価値観を認めないわけではない。いや、小説に関しては認めないかもしれない。そう感じさせる描写は多々ある。しかし、小説以外の事柄に関して言えば、鮎喰響は他者の意見を受け入れる場合もある。しかし、絶対に受け入れないのが、大人の欺瞞だ。欺瞞に満ちた言葉を口にする相手には容赦しない。
そういう意味で、キジマの態度は非常に良かったと感じる。キジマというのは映画の中に出てくる小説家であり、芥川賞を受賞したこともある。そんなキジマを鮎喰響はこき下ろす。あなたが天才だったのは、芥川賞を受賞するまでです、と。15歳の小娘にそんな風に言われたキジマは、欺瞞ではない言葉を鮎喰響に返す。だからだろうか。鮎喰響はキジマとの会話の後、少し笑った。
キジマに言わせたセリフは、なかなか痛快だ。
『世界を感動させるのは、お前に任せるよ』
キジマにこう言わしめたのも、鮎喰響の「おとぎの庭」という小説あってのことだ。
才能というのはもちろん様々な形で発揮されるものだが、「誰かの才能を見抜く」という形の才能もある。せめて僕も、そういう方面の才能でいいから持っていられるといいなと思う。
あと、どの場面で出てくるセリフかは書かないけど、
『人が傑作と思った小説を、作者の分際で何ケチつけてんだよ』
というセリフは、最高だなと思う。いや、確かにそうだよな、と。書いた人間がどう思っていようが、受け取った人間の感想にまで口を挟めるわけではない。鮎喰響の欺瞞への反抗は、僕らが日常的に違和感なく使ってしまっている言葉にも及ぶので、鮎喰響の言葉が自分に突き刺さることもある。それもまた面白い。
物語は、鮎喰響とハナイの関係性、そしてもう一つ、鮎喰響とリカの関係性の二つをメインにして描かれるのだが、鮎喰響とリカの関係性もまた興味深い。鮎喰響は、小説においては一切の妥協をしない。その妥協のなさがリカを追い詰めることになるのだが、しかし鮎喰響は善意でも悪意でもなく、それが正しいと思うからこそ言っているだけであって、だからこそ時間は掛かっても鮎喰響の気持ちは伝わる。というか、それが伝わらないような人間は鮎喰響と関われない。
恐らくこの物語の中で、一番しんどいのはリカだろう。原作がどんな風に続いていくのか知らないが、リカがどんな風に鮎喰響と関わっていくのかは、非常に興味がある。
あと超余談だが、鮎喰響は直木賞と芥川賞に同時にノミネートされる。僕は正直、そんなことあり得ないだろ、原作者は小説の世界を全然知らないんだなぁ、とか思ってたんだけど、すいません、僕が間違ってました。実際に、同一の作品で直木賞・芥川賞に同時ノミネートという事例は存在するそうです。一番新しくて、60年前だそうだけど。
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