【映画】「我来たり、我見たり、我勝利せり」感想・レビュー・解説
ムチャクチャな話だったな。でも、リアルに感じられてしまいもする。「あり得ない」と感じさせるくらいムチャクチャな状況を描き出すことによって、「僕らがいかにイカれた世界に生きているのか」を突きつける、そんな作品と言えるかもしれない。
物語は、起業家であり億万長者であるマイナートとその一家を中心に展開される。彼は、次世代のバッテリー工場を建設予定であり、多数の雇用創出が見込めるこの事業に、懇意の大臣も一枚噛んでいた。事業許可を得るために他の省庁との折衝などを頼んでいるのだ。このように政界とのパイプもあり、また大富豪であるが故に様々なビジネス的な繋がりもあり、マイナートは「出来ないことなど何もない」という状況にある。
そんな彼は、恐らく養子だろう3人の娘を育てている。13歳のパウラと、小学生ぐらいのココとベラである。マイナートは3人の娘のことも心の底から愛しているのだが、それはそれとして、彼は年上の妻と子作りに励んでいた。しかし、「ホルモン治療なんて無理」という妻は、代理出産を模索している。
さて、彼らが住む街では、連続殺人事件が起こっていた。銃によって無差別に住民が殺されているのである。一体誰がそんなことをしているのか?
という疑問については、多くの住民が答えを知っている。趣味が狩りのマイナートである。マイナートが懇意にしている大臣も、「マイナートか、マイナートに近い人物が犯人よ」と、知人との会話の中で話していた。
しかし、警察は禄に捜査をしていないようだ。同じく狩猟監視員のゼッペーラは、森で死体を発見した直後にマイナートを見かけたこともあり、警察に「絶対にマイナートが犯人だ」と訴えるのだが、追い返されてしまう。上からの圧力があるのか、それは分からないが、どうもマイナートに捜査の手は及んでいないようである。
ジャーナリストもマイナートに目を付け、マイナート本人にも突撃しているのだが、マイナートは何でもないことのようにあしらっている。上級国民だと分かっている彼は、自分に司法の手が及ぶとは考えていなかった。
バッテリー工場の建設、妊活、娘たちを愛する日常、そして殺人事件。この街の秩序はどうなっていくのだろうか?
というような話です。
ストーリーは今書いた通りで、はっきり言ってムチャクチャである。マイナートは、自分の犯行であることを積極的に隠そうとしていない。もちろん、自分の犯行だと積極的に示そうともしない。ただ”狩り”を行うのだ。
しかしその一方で、彼は「良き夫・父親」である。本作では全体を通じて、「娘パウラが父を客観視したナレーション」が挟み込まれるのだが、その中で、「パパにとって家庭はすべて。家族のためなら全財産を手放すと思う」みたいなことを言っていた。パウラが「産みの親は死んでいる」という話をしていたり、あるいは見た目的に下の子どもとは血が繋がっていなそうで、しかしそれでもマイナートは、3人の娘を溺愛する。また、年上の妻のことも愛しており、とても幸せそうな家族である。
だから、そのギャップがなかなか強烈に思える。まあ、「マイナートみたいなヤベェ金持ちはいるだろうな」という、ある意味でステレオタイプ的な存在ではあるものの、そのステレオタイプを徹底的に尖らせて突き詰めて描き出すことによって、ちょっと特異な存在として存在しているように感じられた。
個人的に「これは凄い発想だな」と感じたのが、「アンの彼氏が銃撃事件の犯人として逮捕された」という出来事へのマイナート家の対処である(アンというのは、マイナート家の家政婦的な存在で、マイナートは「家族同然」と表現していた)。ちょっとビックリした。確かに、「それをやれば彼氏は釈放される」のは間違いない。そして、マイナートからすれば、「そんなやり方」は屁でもないだろう。しかし、僕は正直まったくそういう方向性を想像していなかったので、「うぉ、マジか!」と感じてしまった。
また、面白いのが、パウラがナレーションで、「母は福祉への意識が高い。貧富の差が存在することが許せないようだ」と言っていたことだ。観客からすれば、「は?」という感じだろう。しかしそれは問題ではない。重要なのは、パウラは母親のことをそう見ているし、恐らく母親自身もそのように自覚しているという点だ。
つまり、認知が歪みまくっているのである。
そう、本作は、そんな「認知が歪みまくった者」の視点から世界を捉えた作品という風に受け取るべきなのだと思う。そう捉えれば、「描かれている状況が意味不明」なのも当然だと感じられるだろう。
そして、資本主義社会で生きている以上、僕らは、こういう存在が現れることを止める手立てを持たない。というか、こういう「ヤバい奴」こそが資本主義社会では成功者になるとも言えるように思うし、だから、この作品で描かれる「狂気」は、時間経過と共にどんどん悪化していく性質のものだとも思う。
本作の冒頭で、アイン・ライドという小説家の『水源』から「誰が私を止めるのか、それが問題だ」という文章が引用された。『水源』の中で、どのような文脈でこの言葉が出てくるのかは分からないが、本作の内容に当てはめるのであれば、「誰が私を止めるのか、それが問題だ」と口にするのに妥当な人物はマイナートしかいないだろう。
実際に作中でマイナートは、彼を追うジャーナリストに対して似たようなことを言っていた。「何故みんな僕を止めない? 誰が僕を阻止するんだ?」みたいなセリフである。なかなか挑発的な発言だろう。
ただ、見方を変えれば、「止めてもらいたがっている」という風に受け取ることも可能である。ただ別に、本当に止めてほしいみたいなことではなく、恐らく「自分を止められるぐらい張り合いのある人物がいないと面白くない」みたいな意味ではないかと思う。そういう捉え方ならマイナートらしい感じがする。
さて、物語はひたすらに淡々と進んでいく。本作では恐らく、「住民はマイナートの仕業だと大体理解している」という設定になっているようなので、普通なら、銃撃事件がずっと続けば市民が抗議したりするような展開になったりするんじゃないかと思う。ただ、そういう展開は描かれない。この街でそういう動きが起こっているかもしれないが、そういう部分には焦点が当たらないのだ。ひたすら「上級国民」側から状況が描写されていき、「上級国民」の視界に入らないものは映像にも映し出されない。それは凄まじく潔い構成という感じがするし、また「共感を一切排除する」という挑戦でもあるわけで、好き嫌いが大きく分かれる作品だろうなと思う。
マイナートはともかく、マイナートと共に“狩り”に同行する執事のアルフレートや、弁護士としても活動するマイナートの妻ヴィクトリアが、何をどのように考えてこの生活を続けているのか、それは気になるところだ。何の疑問も抱いていないというのであれば、それはある意味で幸せなことだとは思うが、マイナートと同じぐらい狂気的でなければなかなかそうは思えないだろう。もしもまともな神経の持ち主であれば、マイナートと共に過ごす日々は「辛いもの」でしかないはずだ。
だから結局、「マイナートぐらいヤベェ奴」でいられれば、なんやかんや幸せにいられるということなのかもしれない。ただ僕は、自分がそうなってしまったらちょっと絶望的だなと思うので、絶対に嫌だなと思う。マイナートの取り巻きみたいな存在にもなりたくないし、ホント関わりたくない。たとえ、どれだけ大きな”おこぼれ”をもらえるとしても、彼らの傍には近寄りたくないなと思う。
狂気的な人間には興味があるが、マイナート家のような狂気には嫌悪感しか抱けない。そんな、とにかく「共感から最も遠い感情」しか喚起されない狂った映画である。
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