第101話:朝露のいちご、甘い宣戦布告
農家の朝は、世界が動き出すよりもずっと早い。
午前四時。
ハルちゃんは驚くほどシャッキリした顔で立っている。
対照的に、さっちゃんはまだ半分夢の中のようで、足元がおぼつかない。
俺は眠たげな二人を連れた、道路の方へと歩き出した。
朝靄(あさもや)が風に揺れ、少しずつ晴れていく。
太陽の光が差し込んだ瞬間、視界の先に、露を弾く緑の葉と、それを覆い尽くすような淡い青紫の花の絨毯(じゅうたん)が、どこまでも広がった。
「……わあ、すごい綺麗!」
ハルちゃんが感嘆の声を漏らす。
「霧の中からお花畑!? なにこれ!」
さっちゃんも驚きで目を丸くしている。
「あれ? でも昨日、こんな花畑なんてあったっけ?」
ハルちゃんの疑問はもっともだ。
「これ、亜麻(あま)の花なんだ」
「亜麻色……って、あの茶色っぽい色の?」
さっちゃんが、自分の髪の毛を触りながら首をかしげる。
「そう。でも花は、こんなに綺麗な青紫んだよ。しかも夜明けの一、二時間しか咲かないんだ。日が昇るとすぐにしぼんじゃう、特別な花なんだわ」
「そんなに貴重なのね……。なんだか、得しちゃった」
さっちゃんも完全に目が覚めたようだ。
「目が覚めたでしょ?」
「うん。……素敵な朝だね、りん」
ハルちゃんも、露に濡れる青い花をうっとりと見つめている。
ひとしきり感動したあと、俺たちは二手に分かれてハウスへと向かった。
ハルちゃんと母さんと俺は、いちご。さっちゃんと父さんは、インゲンだ。
いちごは夜の間に糖度を蓄え、インゲンは水分をたっぷりと溜め込む。
どちらも日の出から九時くらいまでの、涼しい時間が勝負になる。
俺はハルちゃんと並んで、ほのかに色づき始めたいちごを摘んでいく。
「ハルちゃん、仕事早いね。もう一列終わったのか」
「昨日選果を手伝ったからね。どの色が摘み頃か、目が覚えちゃったみたい」
ハルちゃんは手際よく手で摘みながら、ふと視線を落としたまま声を潜めた。
「……ねえ、りん。昨日の夜さ、さつきがりんの部屋に行かなかった?」
心臓がドキン、と跳ねた。
「……うん。トイレが怖くて行けないから、ついてきてって頼まれて」
「やっぱり。襖が開く音がして、さつきが戻ってくるのが見えた気がしたから」
「ゾンビのゲームが相当怖かったみたいでさ……」
「ふーん。……で、何もなかったよね?」
ハルちゃんの瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「……うん。怒られたくらいかな」
「何したの?」
「何も聞こえないように耳塞いでお経唱えてた」
「なぜにお経……。もう、それは怒られて当然だよ。それで……それだけ?」
「えっと……お仕置きを、されたというか」
「お仕置き!? 何されたの!」
「……その、耳を噛まれました」
「はぁいぃ!?」
ハルちゃんの叫び声がハウス内に響き渡る。
「ヒィッ、声がデカいって!」
「さつきのやつ……抜け駆けして……!」
ハルちゃんがブツブツと呪文のように何かを呟き始めた。顔が真っ赤だ。
「ハルちゃん、大丈夫か?」
次の瞬間、ハルちゃんが「出荷には遅すぎる、熟れすぎたいちご」を掴み、俺の口に無理やり突っ込んできた。
「なんで(グイッ)りんは(グイッ)そんなに(グイッ)ガードが(グイッ)ゆるいのー!(グイグイッ!)」
「ふごっ、ふごふごっ! (溺れる、いちごに溺れる……!)」
強い酸味の果汁が口いっぱいに広がり、息ができない。
もがく俺の動きが止まるのを待って、ハルちゃんがふっと表情を和らげた。
「……でも、正直に言ってくれる……りんのこと、私は……だい……」
「ふごぉーっ!」
限界だった。俺はいちごを豪快に噴射してしまった。
「ゲホッ、ゲホゲホッ……」
「もう! 大事なこと言おうとしたのに! 大張夫?」
「……三途の川の向こうで父さんと母さんが手を振ってたわ」
「こらこら、お父さんもお母さんも、ハウスで元気に仕事してるよー」
「もう、ハルちゃんはひどいなぁ」
一瞬、空気が和らぐ。
けれど、ハルちゃんはすぐに真剣な顔に戻り、俺の肩を掴んで自分の方へ引き寄せた。
「……ねえ、りん。さつきがしたなら……私がしてもいいよね?」
「えっ!」
ハルちゃんの顔が、至近距離まで迫る。
耳元に寄ってこようとする気配に、俺は反射的に顔を逸らした。
その瞬間。ハルちゃんの唇が、俺の頬に柔らかく触れた。
「……っ!」
そのまま、温かな感触が熱を帯びて残る。
「……これは、正直に言ったご褒美ね。へへっ」
「……うん」
心臓の音がうるさくて、その後は二人とも、ただ黙々といちごを収穫するしかなかった。
七時になり、家に戻る。
「いやー、さっちゃんはインゲン取るのがなまら早いんだわ。すごい勢いで取ってくもんだから、朝の分が終わってしまったわ!」
父さんが上機嫌で報告する。
「お父さんの教え方が上手だからですよ!」
さっちゃんもエンジン全開のようだ。
「いちごの方もハルちゃんが頑張ってくれたから助かったわ。さあ、朝ごはんにしましょう」
食卓には焼き鮭、卵焼き、きんぴらごぼう。
俺にとっては日常の朝飯だが、二人は「卵焼きが甘くておいしい!」「きんぴら絶品!」と絶賛してくれた。
しっかり働いた後の飯。
その後は二人同様に、手慣れた手つきで選果を終わらせ、母さんが出荷へと向かう。
「作業はこれで終わり。あとはゆっくりしてていいからね」
俺の部屋に戻り、三人で「疲れたなー」なんて話しているうちに、心地よい微睡みが襲ってきた。
回る扇風機が運ぶ涼やかな風。
短い夏を精一杯鳴き通す蝉の声。
記憶には残っていないけれど、とても優しく、温かい夢を見ていた気がする。
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