第103話:青い花と、背中に綴った四文字
「お父さん、お母さん。りんの家、かなり遠かったよ……」
本当に遠かった。
りんのお母さんに乗せてもらった車は、市街地を抜けて、景色が建物から緑一色に変わっても、まだまだ走る。
思えば、中学三年の秋。
刺すような風が吹く、すごく寒い日の部活帰り。
あまりの寒さに帰るのを躊躇していた私に、りんは自分の上着を無理やり押し付けてきた。
あの日、りんはこの果てしない道を、自転車で帰ったんだよね。
(寒かったんだろうな。遠くて、大変だったんだろうな……)
彼の優しさは、いつもこの広大な景色のように、静かで、少しだけ不器用だ。
「ご飯もずっとご馳走になったんでしょ?」
母さんの声で現実に引き戻される。
「うん、すっごく美味しかった。巻き寿司の作り方とか色々、りんのお母さんに教えてもらったよ。しっかりレシピも覚えてきたから!」
私、料理はできる方だもん。ここでさつきに差をつけなきゃ。
「野菜のこともいっぱい勉強したんだよ。この野菜も、私が収穫したんだよ」
「すごいな! お父さん、晩ご飯が楽しみだ」
お土産話をしながら囲む、いつもの食卓。
でも、一口飲んだお味噌汁の味は、どこか違って感じられた。
大豆のカスが少し残る、あの家の素朴な味。余計な化学調味料がない、手作り味噌の風味。
(……美味しかったなぁ)
たった数時間前のことなのに、あそこで過ごした時間が、遠い日の出来事のように思えてしまう。
お風呂に入りながら、りんの家の事を思い出す。
ヒノキの香りが立ち込めるお風呂。
そして、朝の亜麻畑で見た、あの風景。
日が昇る直前の、わずか一時間だけ世界を染めるあの薄い青は、私の大好きな色。
あんなに素敵な花が咲く場所で……。
(りんの心も、私の色に染めてしまえたら……)
「うわぁーー! もう何を考えてるのっ……」
湯船で一人、バシャバシャと顔を洗う。
でも、秋になればあの景色は一面の茶色、亜麻色に変わる。
なんだか、今の関係をさつきに取られるみたいで、胸がざわつく。
自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込むと、今度は怒りが湧いてきた。
「そうだ、さつきのやつ……! りんにお仕置きなんて、どういう神経してるの!」
耳をかじるなんて、破廉恥すぎる。来年の学校祭の花火を一緒に、だなんて、どの口が言ってるんだか。
「葵ー。いちご頂きましょう」
リビングから母さんの呼ぶ声。
「ケーキ用って聞いたから、練乳用意したわよ」
いちごをもぐもぐと口に運ぶ。
ミルクの甘みといちごの酸味が、今の私の心みたいに混ざり合う。
もぐもぐもっ……いちご。
そうだ、私、ハウスでいちごを彼の口に詰め込んで……。
ゴクン。
(私はその後、何をした!?)
さつきの話を聞いて悔しくて。耳をかじられた仕返しがしたくて。「私も」って……。
「私もって、なんだ――っ!!」
「どうした葵!?」
父さんの声に、慌てて声を潜める。
「……大丈夫。ちょっと、黒歴史を思い出しただけだから」
部屋に戻り、ベッドに飛び込む。
あの日、テンションがおかしくなっていた。さつきにだけは負けたくなかった。
でも、まさか勢い余って、りんの頬にキスすることになるなんて。
(……事故。そう、あれは事故なのよ。私は悪くない。うん)
むしろ、いいアピールになったはず。
私ったら前向きでいいじゃん。
『……これは、正直に言ったご褒美ね。へへっ』
「ぬぉぉぉ~~~っ!!」
思い出すだけで顔から火が出そうだ。
何が「ご褒美」だ、何が「へへっ」だ!
自分から襲っておいて、あの言い草。
キモい。
キモキモのキモよ!
ふーっ、ふーっ、と呼吸を整える。
……そして、お昼寝のとき。
りんは、起きていたんだろうか。
少しうたた寝して目を覚ましたとき、隣に彼がいることが幸せすぎて。
愛おしくて、どうしようもないこの気持ち。
だから、指で彼の背中をなぞった。
私の、本当の気持ち。
『き……づ……い……て……』
あまりにも切なくなって、思わずその背中に顔を埋めてしまった。
本当はもう、心が壊れそうで、耐えきれないところまで来ていたんだ。
全部、自分が悪いのはわかってる。
自分の気持ちに蓋をして、あろうことかりんを呼び出し係に使って、野村くんに告白して……振られて。
あんなに惨めなところまで、りんに見せてしまった。
あの日、上着を貸してくれた彼の優しさに、どうして素直になれなかったんだろう。
持ち前の意地っぱりが邪魔をして、素直になれなかった昔の私。
でも、気づいてしまったんだもん。
本当はずっと前から、私の隣にいてほしかったのは……。
りんのことが……。
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