ヘルシンキで出会った“名もないカフェ”
ヘルシンキ・ヴァンター空港に到着したのは午後6時をまわった頃だった。
空港から列車に乗り込み中央駅へと向かう。
車内はほとんど空席で、1番近い窓側にそっと座った。
静かに動き出す列車。地下の暗闇を駆け抜ける。
仕事を退職し、この先どうなるのか分からないわたしの未来を、ここフィンランドに託すことにした。
わたしは今まで、闇雲に何かを積み上げるだけの日々を過ごしていた。
それは履歴書に刻むことができるキャリアなのか、そこから得た信頼なのか、よく分からない。
でも、いくらそれらを重ねても、わたしの視界は
明るくならなかった。
だから全てを手放し、ここに来た。
しばらく列車が進むと、車内に光が差し込んだ。
白く眩い光だった。
窓の外には人気のない家々が映った。
時折、空に届きそうなくらい背の高い白樺の木が姿を現す。
やがて窓の外一面、空だけになった。
電柱の入り込む余地のない、閃く広い空だった。
光が眩しくて、わたしは何度も目を細める。
7月のヘルシンキ。
中央駅に到着し、1度宿へ荷物を置くことにした。
中央駅から徒歩圏内のホテルを選び、正解だったと思う。
午後7時を過ぎても、まだ外は変わらず白い光に包まれていた。
外の空気が吸いたくてホテルを出た。
港近くのマーケットに来てみたが、今日はもう店じまいをしたようだ。
マーケットはまた明日にしよう。
そういえば不思議と若い頃の方が、早く行かないと、早くやらないとと思っていたのに。
年齢を重ねていくうちに焦りの濃度が薄まってきたのは、不確かな人生にほんの少しだけ慣れただけなのかもしれない。
ホテルに帰る途中、看板を見つけた。
それは小さなカフェへの入り口だった。
お客さんの入りはまばらで、席も空いていた。
吸い込まれるようにわたしは中に入った。
カウンターの中にいる女性にホットコーヒーを頼み、窓側の席に腰掛ける。
窓の外は相変わらず、白い光で眩しい。
先ほどの女性がテーブルにコーヒーを運んでくる。
同時に小さな包みを置いていった。
コーヒーは少しだけ酸味があった。
コーヒーを啜りながら店内を見回すと、カウンター近くの席に老夫婦がいた。
女性は編み物を、男性は本を読んでいた。
こんな時期に編み物か。と私は思った。
窓辺にはフィルムカメラで撮られた写真がいくつも飾られてある。
真っ白い雪に覆われたシベリアンハスキー。
耳をピンと立て横を向いているトナカイ。
真っ暗な場所に佇む1軒のお店。
どこか見覚えのある場所だと思ったら、
このお店だった。
闇の中に佇むカフェ。
写真にはpm.8:08と書いてある。
腕時計を見る。今とほぼ同じ時刻だった。
私はもう一度外に目をやる。
白い光が広がる。
空ではカモメが懸命に翼を動かしていた。
わたしもあのカモメのように、懸命に生きることができるのだろうか。
老夫婦はまた明日、と言って編み物と本をお店に置いていった。
白髪の数、手の皺の複雑さが、彼らの長い人生を表しているようだった。
いつになったら完成するんだろう。
いつになったら読み終えるのだろう。
そんなことを考えながらわたしはコーヒーを喉に流して、また来るねと女性に声をかけた。
女性は、手元から目を離し、その目をわたしに向けた。
「冬は6時で閉まるからね。」
そう言うと女性の目線はわたしから、わたしの後ろにある広い空へと向けられた。
彼女の瞳の奥は、今を見つめながら不確かな未来も見つめているようだった。
時刻はもうすでに午後8時半を指していた。
公園でおしゃべりをしている人たちの傍を通り、ホテルへ戻る。
それでも一向に薄まらない光。
ホテルに着き、ベットに身を任せる。目を閉じる。
カフェで編み物をしていたあの女性は、今を生きながら長い冬が来ることを知っていた。
カフェの窓辺にあった写真は、確かに同じ場所だったのに、一筋の光も通さないほど暗かった。
カフェの女性の透き通った瞳は、今ではなく冬を見つめていた。
ここの人たちは知っているんだ。
生きていたら必ず暗い夜がやってくる。
生きているから困難がある。
でも、必ずその先には眩い光があることを。
わたしは目を開け、ベットに腰掛けた。
窓の外を眺める。
空が広い。
空が明るい。
それはまるで、無数の色を重ね合わせた絵画のようだった。
絵画…。
わたしははっとした。
ヘルシンキに着いてから感じていた空の明るさ。
いつかどこかの美術館で見た、たくさんの点を重ね合わせた、静かで明るい絵画のようだ。
遠くから見ると明るい絵だった。
近くで見ると筆を押して色付けた点がものすごく、たくさん重なっている。
あの時、何故あんなにあの絵に惹かれるのか分からなかった。
あの絵を描いた人の名前も、あの絵の名前も思い出せない。
でもひとつだけ覚えていることがある。
「新しい技術で、これまで積み重ねてきた美を越えようとした」
そういえばカフェでもらった小さな包み。ポケットに入れてそのままにしていたのを思い出した。
丁寧に包まれている銀紙をめくると、少し溶けたホワイトチョコレートが顔を出した。
口の中に入れるとふんわり甘く、カフェでコーヒーとゆっくり味わえばよかったと後悔した。
銀紙にはNimetön…ニメトン…
その続きの文字は掠れて読めなかった。
文字の頭上に、ウムラウトが付いていたためフィンランド語だと思った。
調べてみるとそれは「名前のない」という意味だった。
今思うと、全てがそうだった。
あのカフェの名前も、カフェにいた人の名前も、絵画の名前も、わたしの人生も。
銀紙のその文字を指で優しくなぞりながら、外を見る。
絵画のような、ここで出会った人の心のような、静かに輝く“光のかけら”が手元にあるような気がした。
今のわたしなら、必ず、過去の自分を超えられる。
終
