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伊勢神宮の御船代祭、そして仏教との関係

 9月17日と19日は、伊勢神宮の式年遷宮にまつわる一連のお祭りの一つ、御船代祭(みふなしろさい)が斎行されました。なにしろ20年に一度の機会です。私も外宮(豊受大神宮)でその様子を拝見しました。御船代祭の神事そのものは、神職のみによって行われるため、観衆の一人として遠巻きに見守っていただけなのですが。

<御船代祭とは>
 伊勢神宮の内宮(皇大神宮)と外宮で祀られている神聖なご神体は、「御樋代」(みひしろ)という木製の容器に収められて祀られています。そしてその御樋代は、さらに「御船代」(みふなしろ)という容器に収められています。
 式年遷宮では、社殿や各種の神宝がすべて作り替えられますが、これらの御樋代と御船代も新たに作られるので、その材料となる木材を伐採し、容器に加工するまでの作業が無事滞りなくに終了するようお祈りするお祭りが行われます。御船代について行われるこのお祭りが御船代祭です。
 三橋健著「伊勢神宮」(朝日新書)によれば、その内容は「内宮と外宮の両宮域内に宮山祭場を定め、木の本にいます神を祭り、その後に「物忌」(ものいみ)と呼ばれる童男・童女が草木を刈る所作を行う。(略)そして小工(こだくみ)が木を伐る所作を行う。また、木曽の御杣山においては同時刻に用材の伐採式がある。」というものです。

<御船代ってどんなもの?>
 御船代は神聖なものなので、一般の目に触れることはありません。伊勢神宮の資料や宝物が保管展示されている博物館・神宮徴古館でも御船代が展示されることはありません。 
 ただヒントはあって、14世紀半ばの室町時代(いわゆる南北朝時代で、天皇が北朝と南朝にそれぞれ一人ずついた頃です。)に書かれた、貞和御餝記(じょうわおかざりき)という文献に、御船代の形状が記録されているのです。この貞和御餝記は、鎌倉時代末期の外宮の遷宮について記録されたもので、社殿の飾りに使われる金具などの形状が絵図で克明に記されています。
 式年遷宮は7世紀の飛鳥時代末から始まりましたが、15世紀ごろの戦国時代には130年近くにわたって行われませんでした。この間は最低限の維持補修や仮殿の建設だけが行われており、その後、慶光院上人らの尽力によって式年遷宮が再興されることになります。その際に古儀復興の史料として重用されたのが貞和御餝記で、現在まで続く伊勢神宮の社殿の外観は、ほとんどがこの貞和御餝記に依拠している、非常に信頼性の高い文献です。これによると、御船代はこのような形です。

貞和御餝記 国立国会図書館デジタルコレクションより

 四角く、上下二つに分かれており、中は刳りぬかれています。また、上下の各4か所に特徴的な取っ手のような突き出しがあります。
 本体の長さが一尺六寸五分、横幅が二尺四寸五分、とありますから50センチ×74センチほどでしょうか。厚さは三寸五分とありますが、これは上下合わせたものか、片側だけかが判然としませんが、23センチ~26センチくらいでしょうか。

<御船代祭は大規模かつ厳粛だった>
 私はちょうど御船代祭が開始直前の時間に外宮の参道にいたのですが、斎館から神職が列を作って会場に向かうタイミングでした。衣冠と束帯に白い明衣を着た神職たちが続々と途切れることなく出てきて、いったい何十人いるのだろうか、と思いました。確かに数十人はいたと思います。次いで、青い狩衣姿の小工がやはり10人近く。

斎館を出る神職たち

 外宮の正宮内でのお祭りに続いて、別宮の多賀宮、土宮、風宮でもそれぞれ御船代祭が行われるため、大人数での斎行になるようです。しかし、神職たちは一切の私語も、咳払いもなく、整然としていて、たいへんに静謐で厳粛な雰囲気でした。こうした厳かな神事は、伊勢神宮以外ではなかなか拝見することができません。

外宮正宮でのお祭りを終えて退出してくる神職らと物忌

 また、大人の男性神職たちに交じって、物忌(ものいみ)の童女が参列していたのも珍しい光景でした。古来から女性、特に少女には霊的な力があると信じられていたようで、古代の伊勢神宮には物忌という主に童女の神職が大勢いました。月次祭や神嘗祭などの重要な神事には必ず物忌が参列し、正宮の御扉を開くにあたって御鑰(みかぎ)に手を触れる所作をしていました。(実際の開扉作業は物忌の父という成人男性が行ったようです。)また、正宮の殿内で行う神事は禰宜さえも内部には入れず、物忌だけが行うならわしだったようです。
 しかし、この物忌という制度は、明治初年の神宮改革によって御師制度などと共に廃止されてしまいます。童男・童女は学校に行かなくてはならない、などが理由とされましたが、実際には少女の霊力といった呪術的な要素を伊勢神宮の祭祀から排除して、国学や儒家神道流の制度、職制に改めることが真の目的だったのでしょう。現在は、御船代祭のような特に重要な祭祀のとき臨時的に(慣習としてと言うべきなのでしょうか)小学生が物忌役を務めることとなっているそうです。

<古い御船代はお寺で供養されていた>
 式年遷宮で新しい御船代が調製されれば、当然にそれまでの古い御船代は不要となります。古代には、これは伊勢神宮域内の高倉殿などしかるべき場所で処分されていたようです。ところがいつしか、内宮の古御船代については、内宮の世襲神職の一族であった荒木田氏の氏寺である冨向山田宮寺(度会郡玉城町内)に運ばれて、寺の境内にあった御船殿なる建物に納められ供養される風習になっていました。神仏習合の考え方によるものです。
 この、今では信じがたい風習がいつから始まったものなのかは明確な記録がありません。田宮寺自体は創建が平安時代の長徳年間(995~999年)なのは史料上明確なので、それ以降の風習ということになります。
 時代が下って平安時代の末期から鎌倉時代にかけては武士の世の中となります。内宮と外宮も、収入源である荘園(御厨、御園)が武士に押領されて、次第に財政が窮乏していく時代を迎えます。その頃には、ともすると古御船代の処分も疎かになったり、曖昧になったりしたことがあったのかもしれません。しかも、当時は神仏の習合が貴賤を問わず日本人のごく普通の宗教観だったので、役割を終えた御船代に仏式での供養を行うために、田宮寺へ奉遷されるようになったのではないでしょうか。

田宮寺の観音堂 内部には重文の十一面観音像二体を祀る

 田宮寺は、今では観音堂などがわずかに残るのみですが、最盛期には広大な境内地と多くの伽藍を有する度会地域の有力寺院でした。御船殿があったのは、現在の境内の西、今は「田宮寺神社」になっているところで、跡地には石碑が立っています。

田宮寺資料 明治2年(廃仏毀釈以前)の伽藍 オレンジの丸が御船殿

 しかし、戦国時代の混乱期には田宮寺も疲弊し、江戸時代には寺勢が相当に衰えていました。さらに徳川幕府が強く推奨した儒教が普及してくると、伊勢神宮の神職の間でも、神道の儒教的な解釈が勢力を持つようになってきます。儒教の基本思想は社会秩序の維持と現世の肯定と言ってよく、来世を説く仏教は次第に力を失って、葬式仏教へと変質していきます。
 古御船代をお寺で供養することは神道の純粋性を冒涜するものだとの批判は大きくなり、田宮寺への古御船代の新たな奉遷は、ついに江戸時代の寛延2年(1749年)、内宮と徳川幕府の山田奉行によって禁止されてしまったのでした。



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