【フォーミュラ1】 #054 - ストップウォッチから毎秒110万データポイントへ――F1データ分析76年の進化と「数字が勝つ」時代の到来
F1マシンが時速300kmで駆け抜ける姿に目を奪われるのは当然である。だがその裏側では、1秒間に110万のデータポイントが飛び交い、レースの勝敗を決定づけている。ストップウォッチとドライバーの感覚だけが頼りだった1950年代から、300個以上のセンサーとAI予測が支配する現代まで、F1のデータ分析は76年かけて別物に変貌した。本記事では、その進化の軌跡をたどる。
本記事は、エンジニア&コンサルタントの著者が選んだF1技術の最新動向をわかりやすく3,000〜5,000字で発信しています。もし記事がためになったと思った方は、高評価とフォローをお願いします。
ドライバーの「感覚」が全てだった時代
1950年にF1世界選手権が始まったとき、テレメトリという概念は存在しなかった。マシンの状態はドライバーがエンジニアに口頭で伝え、両者が共同でセッティングを調整する以外に方法がなかった。
この時代、マシンの挙動を自分の身体で感じ取り、改善策を指示できるエンジニアリング能力を持つドライバーが圧倒的に有利だった。自ら設計したマシンで3度のワールドチャンピオンに輝いたジャック・ブラバム卿はその代表例である。レースには出場しなかったものの、1930年代から1950年代のメルセデスでチーフエンジニアを務めたルドルフ・ウーレンハウトは、スターリング・モスやファンジオに匹敵するタイムを自ら叩き出した。データではなく、人間の五感がマシンの状態を読み取る唯一の手段だった時代である。
ピットストレートを通過する一瞬のバースト送信
1980年代半ばに転機が訪れた。マシンがピットストレートを通過するわずかな瞬間に、車載データをバースト送信する技術が導入されたのである。
1988年のフランスGPではこの技術が実戦で威力を発揮した。マクラーレンの燃料読み取り値が、ホンダのテレメトリが示す数値よりも少ない消費量を示していた。当時のチーム代表ロン・デニスは、たとえ燃料切れの懸念があってもアイルトン・セナらに全開で走ることを許可した。将来の保守的なレースマネジメントを学ばせるための判断だった。
1990年代初頭になると、ほぼ全てのサーキットでピットへの継続的なデータ送信が可能になった。モナコのように電波が途切れる場所では、車載システムがデータを一時保存し、通信回復後に再送信する技術も導入された。ピットのエンジニアは走行中のマシンのエンジンマップやディファレンシャル設定を遠隔で調整するようになった。
1993年、ニール・オートレイが設計したマクラーレンMP4/8は、TAGとの共同開発による双方向テレメトリ、アクティブサスペンション、トラクションコントロールを搭載した。アイルトン・セナ、マイケル・アンドレッティ、ミカ・ハッキネンがドライブしたこのマシンは、データ技術の到達点を象徴する存在だった。
FIAが双方向テレメトリを禁じた理由
しかし、ピットからの遠隔操作がレースに干渉しすぎることを懸念したFIAは、2003年シーズンに向けて双方向テレメトリを禁止した。ピットからマシンへ送信できるのは無線の音声のみとなり、マシンの設定変更は全てドライバー自身の手で行う必要が生じた。
この規制変更がステアリングホイールの進化を加速させた。1970年代にはオン/オフの緊急スイッチしかなかったステアリングに、1989年フェラーリがパドルシフトを追加した。2014年のターボハイブリッド時代にはディスプレイが搭載され、現在では20以上のダイヤルとボタンを備えた「走るコンピュータ」へと変貌を遂げている。双方向通信が禁止されたことで、データの操作権限がエンジニアからドライバーの指先に移ったのである。
2009年にはシーズン中の実車テストが全面禁止となり、チームはマシン開発の大部分をバーチャルテストとシミュレーションに移行させた。2010年のレース中給油禁止は、最大110kgの搭載燃料の消費によるタイム変動を正確に予測するデータモデリングを不可欠にした。
300個のセンサーと毎秒110万データポイント
現代のF1マシンには250個から300個以上のセンサーが搭載されている。コントロール、計器、モニタリングの全てがデジタル化され、車内には17の独立したCANバスが張り巡らされている。
レース中に生成されるテレメトリデータは毎秒110万ポイントに達する。走行中のライブデータは1ラップあたり約30メガバイト、レース週末全体ではビデオデータを含めて1台あたり1テラバイト以上のデータが生み出される。メキシコGPの週末には、サーキットとファクトリー間で約11テラバイトものデータが転送された。
通信速度も驚異的である。欧州のレースではデータがわずか10ミリ秒でファクトリーに届く。オーストラリアや日本といった遠方のフライアウェイ戦でも約300ミリ秒という低遅延で通信される。メルセデスはブラックリーとブリックスワースにあるレースサポートルームで、本国のエンジニアがリアルタイムでトラックサイドを支援する体制を構築している。データが嘘を暴いた瞬間
データの客観性がドライバーの主観や錯覚を補正した象徴的なエピソードがある。ナイジェル・マンセルはあるレース後に「後半はギアボックスの故障と必死に闘いながら完走した」と語った。しかしエンジニアのパトリック・ヘッドがテレメトリデータを確認すると、ギアの入りが悪かったのは一度だけで、残りは完璧に作動していたことが判明した。
ルイス・ハミルトンがジェンソン・バトンとの予選ラップ比較テレメトリを誤ってツイートしてしまい、チームの機密データが露呈した事件もある。ニコ・ロズベルグは中国GPでテレメトリ故障のまま走行を強いられ苦戦した。データへのアクセス能力の有無がそのまま競争力の差となる時代が到来したのである。
10,000回のシミュレーションが戦略を決める
レース前の戦略立案では、モンテカルロ法を用いて10,000回ものシミュレーションが実行される。タイヤの劣化は二次回帰モデルで評価され、最大110kgの搭載燃料の減少によるタイム短縮、セーフティカーやバーチャルセーフティカー導入によるタイムロス変動が確率的に予測される。
チームはAmazon SageMakerで予測モデルを開発し、ライブテレメトリからピットストップのウィンドウ、タイヤ戦略、オーバーテイクの成功確率をミリ秒単位で推論する。マクラーレン・アプライド社が開発したデータ分析ソフトウェアATLASは業界標準として広く使用され、アストンマーティンのデータエンジニアであるピッパ・トレイシーはPythonとTypeScriptでインタラクティブなダッシュボードを構築している。
2023年イタリアGPでは、データ戦略の違いが結果を大きく左右した。最後尾からスタートしたローガン・サージェントは「ハード→ミディアム→ハード」という代替戦略を採用し、14位まで挽回した。2019年スペインGPのデータでは、通常のピットストップによるタイムロスが19.04秒であるのに対し、VSC導入時は10.03秒、SC導入時はわずか7.88秒にまで減少することが確認されている。
まとめ
F1のデータ分析は、ジャック・ブラバム卿が自らの感覚でマシンを調整した1950年代から、毎秒110万データポイントをAIが処理する2020年代まで、76年間で根本的に変質した。ストップウォッチが計測していたのはラップタイムだけだったが、現代の300個のセンサーはマシンの全てを数値化している。双方向テレメトリの禁止という規制が逆にステアリングの「コンピュータ化」を促し、10,000回のモンテカルロシミュレーションがピットストップのタイミングを決める時代になった。データを制する者がレースを制する。この原則は、F1が存在する限り変わらないだろう。
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