さびしくならないサラダを探して<第七話>
明日は土曜日だから、たぶん親子連れが増えるんだろうな。なんか苦手オーラ放ちそうって思いながら、警備の柴田さんに入出許可証を渡して、社員出入り口から出ると山根君の妹が、バイクのエンジンを止めて所在なげに待っていた。
もうすぐしたらお兄さん降りてくるよって言ってあげようかなって思ったけれど。なんかそれを言うだけでもちょっとウザがられるよねって思ってるうちに緊張してきそうなので止めた。
それにわたしのことを同僚だと知らなかったらぜったいいぶかしげに見られるに決まってる。こんなに言うか言うまいか迷ってる自分に戸惑いながら。この心というか感情の不可思議さが居座りながら芽生えているのは。あの「さびしいおばさん」の出来事のせいかもしれないと、「彼女」のせいにしてしまいたくなっていた。
その場所を後にして歩き出した時。わたしの背にバイク音と渋谷さんお疲れ!って声が風に乗って通り過ぎて行った。
渋谷さんお疲れ!って声に振り返ると。
わたしの横をバイクにまたがった山根君の背中が見えて、そのまま左手を振り上げてバイバイの形を作っていた。釣られてってのも妙だけど。おつかれってできる限りの声で答えていた。
その刹那。酔っ払いのおじさんがわたしをまじまじとみて「若いっていいね」って<一口餃子みんちゃん>の暖簾の前で冷やかした。
いつもなら気分によっては、おじさんウザいよって激しくスルーするのだけど。なぜかその時は心の中で恥ずかしさをオブラートに思いっきり包みながら。「そうだよ、若いっていいんだよ」って酔ったおじさんを軽く憎むこともせずにやさしく笑顔でいなしてみた。
山根君だっていつもならはにかんで、わたしに気づいていても目線だけ寄越すようなところがあるのに。今日は挨拶してくれた。きっと山根君もあのさびしいおばさんに、なんか感化されていたのかもしれない。
わたしら、完全に取り囲まれていた。
そうだこの話を透にしなきゃって思って、うっかりその日は昔みたいにカバンからスマホを取り出そうとしてハッとした。
あ、透はもうこの世にいないんだなって思って少し萎んだ。
おそろしい。すきだったひとがこの世からいなくなるってほんとうにおそろしい。面白かったことの報告さえできない。
透がいないことの証明がいまここにあることに耐えられない気分で繁華街を抜けた。
<ノーマーク>の下にあるお花屋さんは、まだ若い主婦や微かに涼しい匂いがしてくるような、こぎれいなおばさまらしき人達が花を選んでるのが見えた。
そのお花屋さんは入る度にクーラーの効いている中で冷蔵庫を開けた時の冷気を感じるぐらい、ひんやりとした肌感覚があった。
透とも二度だけ訪れた。
店のエントランスは外と同じなので平気なのだけど、自動ドアを開けると一気に冷蔵庫の中に居る感じがして、しぜんと腕のあたりを摩ってしまう。
それを見た透が寒いんかって尋ねてくる。
頷くと花選んでくるからあっち行っときって言うので<ノーマーク>のフロアをぶらぶらすることになる。
そのせいで、それほど欲しくもなかったカーディガンやストールやカラータイツやオーバーブラウスなどが、いくつかワードローブを飾っている。それもこれもみな透のフラワーショッピングのついでの副産物だった。
今ではあんなに好きじゃなかったのに、こよなく好きだったような気持がして捨てられない。
ふとみるとパキラの鉢植えを2本持ってる。
なんで同じもんふたつも買うん? スペアなん?
ちゃうわって透は答えながら、わたしを指さした。
いっこは俺ので、もいっこは栞ちゃんのやん。
栞ちゃんって、ちゃんづけで大きい声で呼ぶな。恥ずかしい。
でも彼の死のせいで結局ふたつは業者さんがわたしの部屋まで運んでくれることになったけど。そしてその後、悲しみに暮れていたせいでそのパキラを枯らしてしまった。
透がどうして観葉植物を好きになったのかはたぶんレオンのせいだ。映画のレオン。家族を殺されてひとり生き残ったちいさな女の子マチルダとふたりで暮らしを共にしながら、女の子が復讐に燃える気持ちに無垢に答えていく殺し屋をジャン・レノが演じていた。
彼らはひとつの観葉植物を大切に育てていた。逃げる時も一緒だった。道を歩く時女の子が大人の彼についていくのに必死になって足早に歩きながら、マチルダの小脇にはちいさな観葉植物がゆれていたことを思い出す。
レオンはあの植物をマチルダだと思って育てていたのかもしれない。もしマチルダを失うことがあったら、その代わりにあの植物を愛そうと。
わたしはレオンが好きな透が好きだった。
その映画の話をしていた時ふいに透がおまじないみたいな言葉を囁いた。
「アグラオネマ ニティドゥームカーティシー」
なん? いまのなん? って尋ねた時の透はちょっと得意げだった。
レオンでふたりが大事に育てていた観葉植物の名前だったことをその時知った。
あの日、透は今の会社を辞めたらいつかお花屋さんをやりたいってぽつりと言っていた。花買ってる人の顔みんな笑ってるやん。<グリーンサム>のお客さんなんかみんな笑ってるやん。そんな仕事が死ぬほどしたいなって思うんや。
レオンにでてくる植物の名前はいまだに覚えられないので。わたしはお財布の中のもうだれもふれることない内側のカードケースに四つ折りにした紙にその名を書いてしまってある。
「アグラオネマニティドゥームカーティシー」
マンションに戻ってベランダの窓を開けると、ライティングビューローの前に置いてあるアジアンタムの葉が揺れた。いままで、無口で過ごしていた時間をいっせいに解き放つみたいに葉っぱの群れがとたんに饒舌になる感じがする。
ただ風に揺れているだけなのに。
ちいさなベランダに出て、高速を走るテールランプを眺めていた。
尾のような光の川がどこかに、にじみながら流れてゆく。ふとあの光の川の流れのどこかに透もいるような気がしてゆっくりとさびしくなる。
カーステレオからの曲が、大音量で聞こえてきてふいに途切れて過ぎ去っていくのと同時に部屋に戻った。
グレーの冷蔵庫とバスの座席みたいな黄色い二人掛けのソファの間に小さなコーヒーテーブルが置いてある。そこには2枚の写真。
1枚はわたしを育ててくれていた、大好きだった祖父母たち。
いつだったか何回目かの法事が終わった後、祖父はわたしの頭をくしゃくしゃになるぐらい撫でてくれた。少しかさついた指がわたしの髪の毛を撫でてゆく時、なんだかわからない熱い線状のものが、うなじを通って背骨を通過して尾骨で止まったような感覚に陥った。すこし泣きそうな気分に似ていた。
透がこの部屋に遊びに来た時、彼らの写真を見ながらやさしそうで温かそうやなって言ってくれた。
そこにある写真なのに、あんまり遠い目をして透が眺めているから不安になった。
それをみて凪のようにわたしは黙り込んでいた。
「どしたん? しおり」
しなないでね、わたしよりさきに。
声にしなかったけどそんな思いでいっぱいだった。
しなないでよ。ぜったいわたしよりさきに。
そう思いたい気持ちでいっぱいだった。
その言葉をわたしはいつまでも抱えたまま、透の横顔を見ていた。
今日、四葉さんが言ってくれた言葉を思い出しながら祖父母の隣を見る。
無断で撮るなよって顔したちょっと不機嫌そうな透ひとりの写真。
透の為に泣かない。一生泣かないよ。そう独り言ちた。
背景には<グリーン・サム>の看板がうっすらと遠くに写っていた。
透が死んだとき、透は色濃くわたしのなかにいてくれた。
居ることで安心できた。
最近は何度も振られてる。
いないのか。そうかいないんだ。
最近薄々感じてる。透の存在がじぶんの中でどんどん遠くなっていることを。
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