恋のいのちと、眼なき魚と、あなたの言葉。
今日はちゃんと、ストーリーのあるものを
書きたかった。
noteを書こうと思う時、無性にそういう
時がある。
エッセイじゃない創作をしたかった。
アイデアだけは昨夜書き留めてあった。
でも、育ってくれない気がしてそのまま
寝かせることにした。
創作日和にならないで今、エッセイを
書いている。
もっと余裕が欲しいのだけど。
余裕ってないものねだりみたいな
ものだなって思う。
先月、窓を開けるとロウバイのつぼみが
ほころんでいた。

枝がのびすぎですね_(._.)_
去年の台風みたいな嵐のような風で
塩害にあってしまって、葉っぱが白っぽく
なっていたけれど。
ハサミを入れるのも怖くて。
そのままそのままにしてあった。
そしたら去年のことなんてなんにも
なかったことのように、ちゃんと例年の如く、
黄色く透き通りながら咲いていた。
自分の身になにかが起きていても
何事もなかったかのようにふるまえる
というのは人でも生き物でもほんとうに、
仰ぎたくなる。
だから去年、齟齬を憶えたあれこれについて
今年になってああじゃないこうじゃないと
逡巡するのはやめようと、ロウバイを
目にしたときいっしゅん反省した。
今年に入ってからも、仕事でどうしても腑に
落ちないことがあった。
その時、昔から知っていたあのひとが、わたしにも
何も言わずにわたしをかばってくれていたことを
知って。
そのことを今知ったのだから、いまわたしが
担っている仕事をおろそかにしては、いけないって
つよく思わされた。
もしかすると、それはいわゆる多生の縁だったのね
的な出来事が重なって、腑に落ちるという経験だった。
そんなとき若山牧水の
<海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり>
という歌を目にした。
なにかとても悲しいことがむきだしのまま
じぶんに向かってきているとき、
眼をつむってしまいたくなることは
よくあるし、そういうときの対処法としては、
それがいちばんのこともあるなって思いながら、
その歌を読んでいた。
牧水が恋人との別れから逃れられないことを
知った「あてのない悔恨」を詠んだものらしい。
いま、わたしは眼の無き魚が恋しいわけじゃ
ないけれど、何かを失った時って、
自分の心をのぞきこみながらも、透明な眼差しで
ものを書けるものなのだと、想った。
そして、すこしうらやましくもあった。
それは痛みを代償にしたからなのか
いい歌だなって。
いつだったかYouTubeで、ある人の言葉をみつけた。
お祝いのメッセージを語っていらした
役者さんがいた。
好きな人だった。
そしてそのことばのむすびに、
<ライフイズショート>と屈託なく声にして
自分の名前をその後に重ねて、数分のメッセージは
終わった。
その方は今はもうこの世にいらっしゃらない。
数年前の在りし日の彼だった。
わたしが悩んでいた時、よく耳にした言葉。
人生は短いんだから、悩んでいる時間が
もったいないよって。
でも、って心の中でふてくされていた。
今は思う。
うずくまることも、人生の一部であるから
そうしかできないときは、それでいいんじゃ
ないかって思う。
ひとしきり悩んだら顔をあげたらいい。
それはわたしがnoteで悩んでいた時に
大好きな年下の友人がわたしに言ってくれた
言葉だった。
その思いを抱えたまま、ふたたび夕暮れの
ロウバイをみる。
なにごともなかったかのようにふるまえるって、
やっぱりタダゴトではないと思いつつ、
外のシャッターを下ろしながら、もう一度、
牧水の歌
<眼の無き魚の恋しけり>を焦がれるように
思い出していた。
あの歌に焦がれるほど、わたしは恋をしていない
ことにも気づかされたけれど。
冬の庭 黄色いつぼみ 透きとおらせて
恋しいと 思う刹那に 病葉ふわり
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