きらいなん、椅子取りゲーム
すごくネガティブなところがいま花開いているよう
なので、すぐになにかに甘えたくなって。
誰かに、何かをそれはちがうとたしなめられて、
すぐ縮んでしまう。
縮んだ後、溶けてしまう。
蛞蝓に塩。みたいに。
椅子取りゲームの最後の椅子にも、座れなかった幼稚園
時代を、思いだしているかのようなこの頃だけれど。
あの頃思っていたのは、どうしてみんなの数だけ椅子を
用意しないんだろうってことで。
ひとり、<あぶれるだれか>をうみだすなんて
おかしいって、
強く思っていたけれど言えなくて。
たぶん、わたしはふまんげな表情していたと思う。
幼稚園の年長組の担任だったしのはらたえこ先生は、
いつもわたしが椅子にあぶれるので、
ピアノで曲を弾きながら、その曲が終わる寸前にわたしの
名を呼んで「そこ空いてるよ」って教えてくれた。
なのに、その声を聞きつけた座れなかった最後から2人目の
誰かが座ってしまうしまつで。
ついに、先生は椅子取りゲーム用の曲が終わるや否や、
というか、早々に切り上げて。
猛スピードで曲を中断し、立ち上がり、わたしの手を
ひっぱって、ほら、いっしょに座りましょって、
いってくれて。
最後のひとつの椅子に、誘ってくれた。
ひとつの椅子に先生とふたりで、腰掛けた。
あの時の先生のなんていうか、座れたじゃないよかったね!
みたいな笑顔は結構、記憶の中に残っている。
たしかにいつもあぶれているのは、わたしひとりで。
いわゆるあぶれている常連さんだったわけだけれど。
今思えば、そのままスルーするでもなく、座ってる子と
座れない子をわけるでもなく。座れないわたしを座れるって
こういう景色だよと教えてくれた、しのはらたえこ先生。
うぅ。ありがとうしのはらたえこ先生って気持ちが、
今頃、そこかしこに、あふれそうになっている。
とにかく、幼稚園でもマイペースであることを
ゆるしてくれたたえこ先生は、今思うと毎日ほんとうに
忙しすぎたかもしれないのに、こころゆたかな人
だったんだなって。
あの時一緒に座った、先生の左側のほんのり温かな
体温はいまもなんとなく憶えている。
もし、もういちど、生まれ変わって幼稚園に通うことが
あったなら、なんども言ってしまいますが、
しのはらたえこ先生がいいな。
🎹 🎹 🎹
2020年がはじまって間もなくの頃、ポーチに入れて
持ち歩きたいぐらい、しんしんと染みてゆく言葉に出逢った。
いつかわたしも着てみたいと思う洋服
<ミナペルホネン>の皆川明さんについて。
<彼のやさしさは、倒れかかった時に、受け止められる強さ>
たとえば、古い布が古くなって使えなくなったとしても、
それがまだ使える場所がどこかにあるんじゃないかと、想像
する。ぼろぼろになっていても布ならその布が生きてゆける
場所を探す。そういう<ちょっとでも現実を作ろうとする>
ところが彼のすばらしさだねって。
<ほんとうにやさしいってそこまで見ること>
そう語っていらっしゃる彼の言葉を耳にしながら、
やさしいって、そうかもしれないって、こころの底がここに
あったのかと思うぐらい、そこに言葉が着地していた。
ここまで、やさしいということについて、思いめぐらした
ことは、今まで一度もなくて。
やさしさは、年月を積み重ねることでしか見えないもの
なのかもしれないと。
その場しのぎのやさしさは、やさしくないし。
もっと遠くに視線を放って、はじいめてやさしくなるんだって。
そして、うまくいえないけれど、やさしさの奥の方には、
ひっそりとゆたかさが、膝を抱えているようなそんな
イメージを抱いた。
やさしいって、ゆたかかもしれない。
今年の初めにその言葉を初めて聞いた日よりも、
こういう日々だからなおさら、言葉にハグされている
気持ちになっていた。
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