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さびしくならないサラダを探して<最終話>

潮の匂いが重たくなってくる夏の真ん中を少し過ぎたぐらいだった。じっとしていてもカーテンをそよがせる風が本のページをいたづらにめくっていく。夏の終わりに気が付くのはどういう時なのか、そんな言葉が綴られた詩を書く人の一冊のエッセイを本棚から何気なく手に取っていた。それは透が誕生日に贈ってくれた本だった。
「砂浜で裸足の片足をあげてその足裏に感じる風が冷たければ、それはもう夏の終りなのだと思う」と書かれていた。なぜかその時作者であるその女の人とまだ若かった四葉さんを重ねて感じていた。たぶん四葉さんなら砂浜でけんけんしながらでも、どこまでも歩いて海まで歩を進めそうな気がしたから。

 本棚にその本をしまおうとしたら、ページにぷかっと何かが挟まっている感じがして確かめたら、<葵茶屋>の紙袋がでてきた。そっと中を見ると、いくつもの包装紙がその紙袋の中にしまってあった。
 
<京湯葉の湯菜><どら焼きの蓮華><おまんじゅうの箱根うさぎ><くずきりの伯関><羊羹の夜梅><ゼリーのおれんじれおん><紫蘇巻のあんずあんず><コーヒー豆のバニラヘーゼル>

 切りがないほどだった。とくにコーヒー豆のバニラヘーゼルのゴールドの包み紙は封の切られたところから、甘くてあたたかい香りがまだ生きていた。

 封を切るのがもったいないと感じるわたしはそのことを四葉さんに話したことがあった。
 しおちゃん、封を切るってねある意味その封とはお別れなのよ。でもね封を切った後はまたあたらしい封切をすればいいの。そうやって人は出会いも別れも重ねてゆくの。だから封を切ることをおそれないで。こわがらないで。また次の封を待ってたらいいんだから。ね。

 それはわたしと透のことのようにも感じたし、大きな意味での人生のたとえ話にも思えた。わたしも新しい封を切る時がきているのかもしれない。

 よく見ると包装紙のどれもに透の不器用そうな字で日付が書かれていた。透は家に来て何かを食べた時はその包装紙をとっておく癖があった。わたしがほんの短い間に人の前でものが食べられなかった時からはじまった透の習慣だった。これは捨てられへんやろ。当たり前やろうみたいに言い張った。それは今思うと記録だったけど。透が死んでしまってからみるその包み紙はわたしの棺にでも入れてほしいぐらいの宝物だと気づいた。

 透って声を天井に放つ。もうわたしの中にいなくてもいい。あんたはなんかいつもずるいってちいさく叫ぶ。

 わたしずっと人前でものが食べられなくなっていたこと忘れてたよ。なんでかわかる?
 こんなに美味しい時間を過ごしていた時のほうがずっと多かったから。わたしは確かに透と食べている時幸せだった。食べている時に幸せを感じるじぶんを育んでくれたのはもしかしたら、透だったのかもしれないと。泣きそうになるのをがまんしていた。

 仕事が終わって関係者通用口を出る。館内には「雨に唄えば」が響いていた。扉のところを出てコンクリートの地面を見ると、ちいさな雨粒が今そこに落ちようとしてまるくにじんでいた。

 あって思った。

 青い傘を開いた。傘の表面に落ちるどぼっていう雨音の合間を縫うように、カバンの中で何かがこすれ合う音がしている。
 レインスティック。アボリジニの人たちが雨乞いのために儀式のときに使う楽器に似たものらしい。薄茶色の筒状の形をしている。七生が旅した時に手に入れたもの。この間夜マックした時にお土産としてもらった。四葉さんとお揃いだ。さまざまな植物の種達が筒の中で触れながら音を奏でていた。

 さっき思いがけずカバンの中でレインスティックが鳴った。

 その時わたしはあの日の透が残してくれた美味しいものたちの包み紙のことがずっと忘れられなくて。あの時の感情を少し置き去りにしていたことに気づいた。もう今なのかもしれない。

そう思った時だった。
あめのたねがわたしのなかにひびいてきて、あしもとからそれはやってきてひかがみを通ってうなじを通過してひとみのなかに着地した。そしてぼとぼとというほんとうの雨音の傘の中で、わたしはひとりぬれそぼった犬みたいに泣いていた。

明日もわたしは<ベジルド>のお店に立つ。食べることが少しでも幸せなものになるように、その手を繋げるように。

<おわり> 

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ゼロの紙 /歌人 いつも、笑える方向を目指しています! 面白いもの書いてゆきますね😊