【巻頭言】なぜ過剰に考察するだけでなく、接続するべきなのか?〜“批評”という語の欠陥的構造〜(コンテンツ過剰接続#0編集後記)
#0で「なぜ過剰接続か?」をどう話すか考え
収録時にはまったく違うことを話していた
”コンテンツを山から山へ
尾根を伝い歩くように摂取する
それがコンテンツ過剰接続です”
分かりやすくていいと思う
誰にでも理解できるよう平易に語ることこそ大切だ
(と思われている)
ただ#0の編集後記を書くならば
このポッドキャストに至るまでの
『コンテンツ過剰接続』のタイトル付けまでの
思考の変遷、その思想性を、残したいと思った
このポッドキャスト名が思い浮かんだのは
令和ロマン・高比良くるま
『漫才過剰考察』が勿論関係している
彼はM-1が松本人志攻略恋愛ゲーであると
見抜き、攻略し、
そして、本人不在のM-1という箱自体にも
この方法論が効力を持つことを
2連覇し実証してしまった
ネタバラシは痛快で、しかし、
そのせいで同ゲームの価値は低下する
自分がゲームの対象だったのだと知らされたとき
自分への愛がホンモノか人は信用しきれなくなる
M-1をただの作業ゲーにする
そのシラケの本こそが
『漫才過剰考察』という呪物だ
呪物は人を一旦は不幸にする
M-1が作りだした”漫才”ブーム
『あなたの番です』が作り出した”考察”ブーム
松本人志と秋元康
その周りを回る小惑星(TVマン)
”漫才”と”考察”という概念の間に挟まれた
過剰という形容は
専門性の看板を信奉する現代を
象徴する修飾語に違いない
専門性は変なメガネの経済学者だって東大王だって
毎日ラーメン健康生活だってなんだっていい
ただ、過剰考察はそれ自体にしか役に立たない
過剰な考察は対象をしゃぶり尽くす
ドラマが終わればその考察は役目を終え、
物事は並列的に、交わることなく受容され、
その結果、島宇宙ができ、文脈は編まれず、
恐ろしい速さでインターネットのデブリと化す
投稿するとコンテンツが貯金として積み重なる
とYoutuberは言う。とても面白いジョークだ。
積み重なっていくのは文字通り貯金だけだ。
ルールはもはや倫理観なしに改定される
生が積み木崩し的に根元から破壊される
そんなカオスが隣りにいる生活に
私たちは慣れてしまった
蓄積のない、その刹那性が、
私たちの生活を既に覆っている
「tiktokを無限にスワイプした
その先に体系が獲得されるのだろうか?」
「いや、体系を獲得して何になるというのか?」
このループから抜け出せない
3カ月経てば、次のゲームが供給され、
始まり、終わり、また1から考察する
刹那には刹那を、
人は積み木くずしを恐れなくなった
いや、積み木を重ねること、
それ自体を恐れるようになった
でないと世界中の全てのものが目に飛び込み
それらと比較されることの痛みに耐えられない
君はこの世界をどのように見ているのか?
そして、その世界の見方で
どんな風に積み木を積み上げるのか?
皆がこの世界で競争をし躍起になるキャリアとは
体系獲得のための積み木だ
僕たちはどうしてもこの積み木と向き合うこと
そのことから逃れられない
どの時代であっても『君たちはどう生きるか』
結局はただそれだけが問われてきた
考察ブームに乗ったイースターエッグ
ゲーム性を高めることを前提としたモノ作り
アテンションのためのリバースエンジニアリング
その過剰さにより考察合戦は更に加熱していった
過剰な考察の先には陰謀論があり
人を動員し国を操る力すらも得てしまう
その過剰さに、”考察”自体に、
忌避感を示す人も増えてきた
ただ間違って捉えてはいけないのは
考察は体系獲得のための卵で
君を救う確かな武器であるということだ
思考のレッスン、筋トレをやるに越したことはない
まず半自動的に考察身体を作ることから始まる
そして、その筋トレの先が確かにある
ただ、今、筋トレをすること
それ自体がQOLと結びついている
独自の視点と跳躍を可能にする
『批評』と『創造』には繋がらず
考察、筋トレこそが終着地点となっている
考察は必要であるが終着点でも勿論ない
この端的な事実を知る賢しらな人々は
正しく物事を捉える力を持つべきとこう訴えかける
「君も批評という武器を手に入れよう」
しかし、これには欠陥がある
考察があり、それを元に批評を構築する
その上部・下部構造の意識こそが
最も忌避すべき考え方となっているからだ
そして、これをまた軽視している
”批評”という語には”批”という字が使用されている
その決して逃れることのできない事実を
コレの上にアレがある。アレはコレより偉い。
結局は創造もせず”批”判がしたいだけ
”評”価をする。”評”定をする。
つまりは上からジャッジをしている。
不機嫌そうにしか見えないそんな営みを
なぜ僕らが理解する必要があるのだろうか?
なぜ理解してもらおうとするのだろうか?
”本質的にあれよりこれが偉いわけがない”
この端的かつ美しい形をした理想に
人はより縋りたがっている
この国の壱万円札は長らく福澤諭吉であったし
これからは渋沢栄一がその任を担う
天は考察の上に批評を造らず
批評の下に考察を造らず
ならばどうするか?
批評を捨てよ(続けよう)
考察の先に批評があるのだという端的な事実
その上下の意識から人を追い出す事はできない
”批”という語に染み付いて離れない
このネガティブさを打ち崩すことは難しい
批評という空(主観、人文科学的、テキトー)
”と”
考察という重力(客観、自然科学的、エビデンス)
批評を考察として偽装することなく
自己啓発的な文体に偽装し批評を食わす事もせず
何かと何かがつながり新たな物語が生まれる
その初期衝動にのみ忠実であろう
批評という語そのものや
その概念の定義などは特に大切でなく
その運動のみがほんとうのはずだ
”と”(et) が生み出す接続、その創造の運動を
過剰な接続は考察の運動であり
過剰な接続は批評の運動でもある
考察=過剰接続=批評
今必要なのはご機嫌さ(©三宅香帆)だ!
ご機嫌な過剰接続を共に楽しもう!
Podcast、私はこーへとキムラの
『コンテンツ過剰接続』
はじまります
written by 私はこーへ
