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【別冊】「ブルータスのアイドル論 2025」は何を語り、何を見逃したのか?

雑誌『BRUTUS』がアイドル特集号を刊行した。その名も「ブルータスのアイドル論 2025」。混沌を極める現在のアイドルシーンを、ある種真正面から総括しようとする野心的な試みとして、見逃せない一冊である。

 その表紙を飾るのは、FRUITS ZIPPER・松本かれんのピンクの衣装。特筆すべきは、アイドルの「顔」ではなく「衣装」にフィーチャーしていること。現代のアイドルが避けては通れない「ルッキズム」という問題に対するスタンスを表明しているのと同時に、つい最近までピンクとは「女の子らしさ」や「可愛さ」のステレオタイプとして脱構築の対象にされていたのが、今やなんの臆面もなく再肯定されていること。その意味を考察しようとする機運すら感じさせる。このように、表紙のデザインを見るだけでも、本書を人気者たちを集合させただけのただのカタログに終わらせることなく、きちんとした「論」として仕上げようとする心意気が伝わってくる。(ちなみに2014年に『anan』から刊行されたアイドル特集号の表紙に起用されたのは、当時世間に見つかったばかりの橋本環奈。そこから10年経ち、橋本環奈→松本かれんという変移は実に興味深い。)

 だがしかし、表紙での問題提起と実際の誌面内容との間には、大きな隔たりが存在した。

 端的に言おう。現在のアイドル語りが直面している最も根本的な問題は、批評家やそれを支える語りのフレームワークそのものが10年以上前からほとんど更新されていないという点である。コロナ以降のアイドルシーンを的確に語るどころか、シーンの全体図を把握し、そのどこに中心があり、そこからどのように枝葉が分かれているのかを理解できている人がまず皆無に等しい。この停滞が致命的である。本来、シーンの地殻変動を捉えるべき語りの言葉が、過去の栄光や慣れ親しんだ価値観に囚われ、希望的観測を唱えることはできても、現実に起きている想像を遥かに超えたカオスやバグを前にして対処することができない。それをするためには、より豊かな想像力と柔軟な発想性、幅広いメディアを横断して観測を繰り広げる体力が求められる。2010年代のアイドル戦国時代の体験記とその残り香の記憶だけでものを語れる期限など、とっくのとうに過ぎている。

 その問題を象徴するのが、音楽ライター・南波一海と『BUBKA』編集長・森田秀一による「アイドルソングについて語りたい!」と題された対談。ここでは「コロナ以降、アイドル現場に女性のお客さんが増えたこと」や「XGの観客の9割は女性でおじさんは肩身が狭い」といった中年男性のケア話に始まり、カワラボやHANAのライブでの口パク禁止ルールをもとにハロプロの話をしていたり、XGやME:Iなどメジャーのグループに多少触れはするものの、結局は私立恵比寿中学やlyrical school、フィロソフィーのダンスやNegiccoなどの曲の良さ、活動の安定性について語って終わるという、とても2025年のアイドル楽曲の中心を議論する内容ではなかった。
 また、坂道シリーズについての語りがCDジャケットやアートワークの「クリエイティビティ」に固定化されつつある現状についても問題がある。本書の「坂道シリーズのクリエイティビティ。」という特集では、坂道シリーズのCDジャケットや個人PV(メンバー1人1人を主演にしたショートフィルム)の独自の美意識や実験精神を取り上げているのだが、ここで特殊な製作手法として紹介されている水中撮影やAI処理、セルフタイマー撮影などは、確かに少し前だったら珍しかったかもしれないが、2025年の製作環境においてはごく一般的なフローであり、坂道シリーズの独自な取組の説明にはならない。なにより、この書き手は、今日までほぼスタイルを変えず続いている坂道シリーズのクリエイティブにある種の「職人的な美学」を見出しているように伺えるが、その結果として、近年は時代の要請をロストした作品が目立つようになった。もう誰も洗濯板を使わないように。ここに坂道シリーズのアイデンティティを過剰に見出すのは、些か物悲しい。

 もちろん、時代と離れた場所で、人々の注目から埋もれたアイドルを発見する意義だってあるだろう。だがそれよりも、どんな観念が現在のアイドルシーンを取り巻いていて、その中心で何が起きているのか、そしてこの先どのような未来が待ち受けているのか。まず、それを解き明かすのがアイドル語りの役割ではなかったのか。坂道シリーズがAKBのアンチテーゼだった時代はとうに過ぎ、TIFの目玉はカワラボやイコノイジョイとなり(つまりは文化的運動の役目を終え)、あの頃のアナーキズムは全て保守本流に翻った。そのことを分かっている語り手がどれだけいるだろうか。そして今、それぞれの語り手が語りをやめない存在が、彼らの思想やスタンスを弁護するためのただの手札になってはいないだろうか。2025年のアイドルシーンにおいて、まず私たちが解明すべきは、KAWAII LAB.という本当のアナーキズムの正体に他ならない。「ブルータスのアイドル論 2025」はこの論点から逃避し、2010年代のアイドル語りの延長としての「TIF史観」や「ハロプロ史観」、ひいては「アイドルのケアと労働」を基にした論調へとやや傾倒している印象を受けた。もちろんそれら語り自体にもシーンに対する補助線としての役割はあるし、マガジンハウスの思想性を考えると納得できなくはないのだが、近年の推し活の加速に加え、横槍メンゴや頂き女子、初の女性総理誕生や参政党…様々なトピックの暴走によって、社会を考えることとアイドルを考えることがほぼ同義となった現在、より多元的な語りと想像力が必要とされるはずだ。

 秋元康やつんく♂、SKY-HIと違い、木村ミサは多くを語ることはない。「NEW KAWAII」というステートメントの意味を真正面から説明してはくれない。この沈黙は戦略であり、作品(=アイドルグループ)そのものがすべてを語るべきだ、という美学すら感じ取れる。そしてそれを前にし、論者は機能不全に陥る。結果として「なぜKAWAII LAB.はこれほどまでにシーンを席巻しているのか?」という重要な問いに未だ誰も答えることができていない。つまり、最もいち早くその答えに辿り着けた者こそが、次のアイドル語りの旗取となることだろう。


さて、こちらの【別冊】「ブルータスのアイドル論 2025」は何を語り、何を見逃したのか?(音声70分)では…

・日本の女性アイドルシーンとは、AKB48が生み出した概念の繰り返しと変奏そのものである。

・現在のアイドルシーンの中心はKAWAII LAB.であり、その心臓部はFRUITS ZIIPERで、その象徴に君臨する松本かれんという「暴力装置」。

・2010年代の楽曲派アイドルの亡霊を追い続ける皆さん、KISS OF LIFEを聴こう

などなど…どうぞお聴きください!

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