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空白のページ 〜短編〜

第一章 〜この村の駅〜

この村には、駅がひとつしかない。

線路はまっすぐに伸びているのに、
その先がどこにつながっているのか、誰も知らない。

電車は一日に数本だけ。

朝と夕方、それから夜に少し。

それ以外の時間は、
ただ風が通り過ぎるだけの場所になる。

小さい頃、こんな話を聞いたことがあった。

「あの駅には、行ってはいけない時間がある」

理由は、誰も教えてくれなかった。

大人は「危ないから」で済ませて、
行ってはいけない時間も教えてくれない。

「そのうち分かるから」

その言葉ばかり繰り返す。

でも、さすがに中学生になったら分かってくる。

夕方でも、夜でもない、
“少しだけ時間がズレたみたいなとき”。

その時間に、あそこへ行ってはいけない。

私は、その話を思い出すことがある。

特に、
教室の空気が、少しだけおかしくなるとき。

一年、A組。

この村には中学校がひとつしかない。

クラスもひとつだけ。

クラスメイトは全部で三十人。

三年間、同じメンバーで過ごす。

逃げ場なんてどこにもない。

「ねえ陽菜、それ取って」

「うん」

私は笑って、後ろの席に消しゴムを渡した。

こういうのは、この歳になると考えなくてもパッとできる。

空気に合わせること。

笑うこと。

誰かに合わせて、少しだけ自分をずらすこと。

それだけで、うまくやっていける。

教室は、いつも通りだった。

明るくて、にぎやかで、
どこにでもある普通のクラス。

ただ、一ヶ所を除いて。

教室の隅。

窓際の、一番後ろの席。

そこは、少しだけ空気が違う。

紬がいた。

黒い髪を下ろして、
静かにノートに何かを書いている。

周りの音なんて、届いていないみたいに。

「あいつ、自分の消しゴム、ないことに気づいてないんじゃね?」

誰かが小さく笑う。

「感じ悪くない?」

「ね」

軽い声。

でも、その軽さが、そのまま教室内へ広がる。

紬の机に、クシャクシャになった紙が転がった。

笑い声。

紬は何も言わない。

ただその紙を取って、そっと机の端に置いた。

その様子を見て、また誰かが笑う。

「反応うす」

「つまんな」

私も、
少しだけ、笑った。

そのとき、ふと目が合った。

紬と。

責めるような目じゃなかった。

怒っているわけでもない。

ただ、
静かに、分かっているみたいな目だった。

胸の奥が、少しだけ重くなる。

でも、私は目を逸らした。

何も言わない。

何もしない。

それでいい。

それで、ここではうまくやれる。

昼休み。

教室のざわめきの中で、友達が身を乗り出してきた。

「ねえ陽菜、聞いた?」

「なに?」

「神社の話」

少しだけ、背筋が冷えた。

「森の奥にあるやつ」

「願いが叶うんだって」

私は、軽く笑った。

「なにそれ、怖」

「でもさ、ほんとっぽくない?」

「誰が言ってたの?」

「先輩」

くだらないと、そう思った。

思ったはずなのに。

なぜか、その会話が心に引っかかって離れなかった。

窓の外を見る。

変な空気が村中に漂い始める。

クラスメイトの顔が強張り始めた。

遠くに、線路が見える。

駅の方へ続いている。

風が吹いて、カーテンが揺れた。

その向こうで、一瞬だけ。

誰もいないはずの駅に、
人影が立っている気がした。

瞬きをしたら、その人影はいなくなっていて、
かわりに、電車が過ぎ去る音だけが聞こえた。

「陽菜?どうしたの?」

友達の声に、我に返る。

「……何でもない」

私は笑った。

いつも通りに。

教室の中は、変わらずにぎやかで、
変わらず普通で、
変わらず

何かが、少しずつズレていることに、
まだ気づかないふりをしていた。

第二章 〜声にならないもの〜

紬と話したことは、ほとんどない。

同じクラスで、毎日顔を合わせているのに、
ちゃんと会話をした記憶は、ほとんどなかった。

でも、
何もなかったわけじゃない。

放課後の教室は、静かだった。

部活に行く人、帰る人、
少しずついなくなって、
気づけば私と、もう一人だけになることがある。

その日も、そうだった。

私はカバンの中を探していた。

「……あれ」

消しゴムがない。

机の中にも、ポケットにもない。

小さくため息をついたとき、

「これ」

声がした。

顔を上げると、紬が立っていた。

手のひらに、私の消しゴム。

「あ……ありがとう」

受け取る。

紬は、少しだけうなずいた。

でも、そのとき。

少しだけ、視線が動いた。

教室の隅。

昼間の出来事が、そこに残っているみたいだった。

紬は、ほんの一瞬だけ、目を伏せて。

「……大変だね」

小さく、そう言った。

その言葉が、何に向けられているのか、分からなかった。

クラスのことか。

それとも——私か。

何も言えなかった。

「……ごめん」

気づいたら、そう言っていた。

紬は、少しだけ首を振った。

「ううん」

それ以上、何も言わない。

責めない。

ただ、分かっているみたいに、静かにそこにいる。

その距離が、苦しかった。

「……無理しなくていいよ」

その一言で、胸の奥が揺れた。

この子は、知ってる。

私が、どういうふうに笑っているのか。

どういうふうに、何もしていないのか。

全部、知ってる。

なのに、何も言わない。

「……じゃあね」

紬はそう言って、教室を出ていった。

残された教室で、私はしばらく動けなかった。

次の日。

教室は、いつも通りだった。

「ねえ、見た?」

「なにが?」

「紬のノート、誰か取ってたよ」

一瞬、空気が変わる。

「え、なにそれ」

「うける」

笑い声が広がる。

軽い声。

私も軽く笑う、
だって逃げ場がないから。

紬は、自分の席に座っていた。

机の上には、何もない。

「ノートどこいったの?」

誰かが、わざとらしく紬に言う。

紬は下を向き黙り込む。

笑い声。

「ねえ陽菜」

隣の子が、小さく言った。

「これ、持っといて」

手渡されたのは、紬のノートだった。

心臓が、強く鳴る。

返せばいい。

返せばいい、んだけど。

でも。

「……うん」

私は、それを受け取った。

机の中に入れる。

笑い声が、少しだけ大きくなる。

その中に、自分も混ざっている気がして。

顔を上げたとき、紬と目が合った。

昨日と同じ目。

でも、
ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

「……ごめん」

心の中で、何度も繰り返す。

でも、声には出せない。

その日の帰り道。

私はひとりで歩いていた。

今日、隣の子から、受け取った紬のノートを見る。

紬という字が何度も何度も書き直されている。

頭の中に、紬の言葉が残っている。

「無理しなくていいよ」

やさしい声。

やさしすぎる声。

私は、思ってしまった。

もし。

あの教室から。

あの空気から。

いじめが、なくなればいいのに。

第三章 〜森の奥の神社〜

その日の帰り道、私はまっすぐ家に帰らなかった。

理由は、うまく言えない。

ただ、
あの教室の空気が、ずっと心に残っていた。

笑い声。

軽い言葉。

紬の、何も言わない目。

歩きながら、何度も思い出す。

ノートを受け取ったとき。

返せたはずなのに、返さなかった。

「……なんで」

小さくつぶやく。

分かっている。

怖かったからだ。

あの教室の中で、自分一人が空気に逆らうのが。

自分が紬と同じ場所に立つことが。

足が止まる。

気づけば、見慣れた道から外れていた。

森へ続く細い道。

神社の話。

「願いが叶うんだって」

あの言葉が、頭の奥に残っている。

そんなわけない。

そう思うのに。

それでも、
足は、そのまま奥へ進んでいた。

木が増えていく。

光が、少しずつ薄くなる。

音が、変わる。

さっきまで聞こえていたはずの、車の音も、人の声もない。

風の音だけが、やけに大きく響く。

その中に、かすかに、
鈴の音が混ざっていた。

「チリン」

風とは、少しだけズレた音。

私は、立ち止まる。

前を見る。

古い鳥居があった。

色あせて、ところどころ剥げている。

誰も手入れしていないみたいに、静かにそこに立っている。

その向こうは、少し暗い。

胸の奥が、ざわつく。

帰ろうと思えば、帰れる。

でも、
「……いじめが、なくなればいいのに」

気づいたら、そうつぶやいていた。

その言葉が、やけに重く感じる。

「チリン」

また、鈴の音がした。

私は、一歩、鳥居をくぐった。

空気が変わる。

温度が、少しだけ下がる。

息が、白くなった気がした。

石の階段を、ゆっくり上がる。

足音がやけに響く。

ひとつ、ひとつ。

そのたびに、自分のいた世界に戻れなくなっていく気がした。

やがて、小さな社が見えてきた。

誰もいないはずなのに。

「来たんだ」

声がした。

びくっとして、振り向く。

そこに、女の子が立っていた。

白い服。

短い髪。

年は、同じくらいに見える。

でも、どこか違う。

「願いがあるんでしょ?」

やさしい声だった。

言葉が、出ない。

そのとき。

「やめた方がいい」

もうひとつの声。

反対側に、もう一人立っていた。

さっきの子と同じ顔。

でも、表情が違う。

冷たい声。

「ここは、そういう場所じゃない」

私は、言葉を失う。

どっちを見ればいいのか、分からない。

「大丈夫だよ」

やさしそうな方が言う。

「ちゃんと叶うから」

「その代わりに、失う」

冷たそうな方が言う。

「……え?」

「気にしなくていいよ」

やさしい声。

「大したことじゃない」

「大したことだよ」

その言葉が、重く落ちる。

心臓が、少しだけ速くなる。

でも、
頭の中には、あの教室が浮かんでいた。

笑い声。

紬の目。

「……お願い」

気づいたら、口にしていた。

「いじめが、なくなればいい」

言いたいことはたくさんある。

あなたたちは誰?
私の気持ちを知っているの?
願いを叶えてくれるの?

でも、何も言えなかった。

静寂。

風が止まる。

二人の影が、重なる。

「いいよ」

やさしい声。

「叶った」

冷たい声。

その瞬間。

鈴の音が、大きく鳴った。

「チリン」

視界が、少し揺れる。

何かが、空気が、変わった気がした

「帰りな」

冷たい声が言う。

「もう、戻れないから」

意味が、分からなかった。

でも、体は勝手に動いた。

来た道を、戻る。

森を抜けるころには、もう日が落ちていた。

振り返る。

鳥居は、暗闇に溶けて見えなくなっていた。

まるで、最初からなかったみたいに。

第四章 〜いないはずのない人〜

朝、目が覚めたとき。

少しだけ、体が重かった。

学校へ向かう道は、いつもと同じだった。

風の匂いも、空の色も、
何も変わっていないはずなのに。

どこか、少しだけ静かだった。

教室に入る。

「おはよー」

「おはよ」

いつも通りの声。

いつも通りの空気。

席に座る。

ふと、気づく。

……静かだ。

あの笑い声が、ない。

誰も、悪口を言っていない。

誰も、誰かを見ていない。

ただ、普通に話しているだけ。

「ねえ陽菜」

隣の子が話しかけてくる。

「今日さ、先生来るの遅くない?」

「……うん」

返事をしながら、周りを見る。

本当に、何も起きていない。

あの空気が、消えている。

いじめが、ない。

胸の奥が、少しだけ軽くなる。

よかった。

そう、思った。

その瞬間。

違和感が、もうひとつ浮かぶ。

私は、ゆっくりと後ろを見る。

窓際の、一番後ろの席。

そこに、
誰もいない。

「……紬ちゃんは?」

声が、震える。

「え?」

隣の子が、不思議そうな顔をする。

「紬って……誰?」

その一言で、息が止まった。

「……なに言ってるの?」

「え、だって……そんな子いた?」

軽く笑う声。

でも、誰も否定しない。

私は、もう一度後ろを見る。

机も、椅子もある。

でも、
そこに座っていたはずの人が、いない。

最初から、いなかったみたいに。

授業が始まる。

先生の声が遠くに聞こえる。

黒板の文字も、ノートも、何も頭に入らない。

何度も、後ろの席を見る。

でも、やっぱり誰もいない。

違う。

おかしい。

胸の奥が、ざわざわする。

私は、知っている。

あの子は、いた。

ここに、いた。

でも、
誰も、覚えていない。

私だけが、覚えている。

その事実が、ゆっくりと、重くのしかかってくる。

昼休み。

教室は、いつも通りだった。

笑い声。

会話。

普通の空気。

でも、そこに紬はいない。

最初から、いなかったみたいに。

私は、立ち上がった。

椅子が、小さく音を立てる。

「陽菜?」

呼ばれる。

でも、止まらなかった。

教室を出る。

廊下を走る。

向かう先は、決まっていた。

森の奥。

あの神社。

息が切れる。

足がもつれそうになる。

それでも、止まれなかった。

「……なんで」

言葉が、こぼれる。

「紬!」

鳥居が見える。

あの場所。

あの二人。

全部、思い出す。

「……やだ」

階段を駆け上がる。

「やだよ!」

一段、また一段。

息が苦しい。

「お願い……」

声と足が震える。

「夢であって……」

胸が締めつけられる。

「こんなの……夢であってよ……」

でも、
神社に進む足は止まらない。

紬は、今日は、たまたま休みだったのかもしれない、
いや、
もしかしたら、みんなが私にドッキリでもしてたのかもしれない。

違う、
違う気がする。

私は、そのまま階段を駆け上がった。

社の前。

二人は、そこにいた。

最初から、待っていたみたいに。

「ねえ」

やさしい声が、静かに響く。

「これは、夢じゃないよ?」

その言葉が、やけにやさしくて。

だからこそ、逃げられなかった。

この場所から。

第五章 〜願いの代償〜

「……なんで」

声が、うまく出なかった。

「なんで紬が!」

静かな境内に、響く。

二人は、変わらずそこに立っていた。

「お願いしたでしょ」

やさしい声。

「いじめが、なくなればいいって」

「……違う」

首を振る。

「そうじゃなくて……!」

「叶ったよ」

言葉を、遮られる。

「ちゃんと、いじめはなくなった」

胸がざわつく。

「……だからって」

「紬がいなくなったからだよ」

その一言で、息が止まる。

「紬がいなければ、いじめはなくなる」

冷たい声が、続ける。

「いじめをなくしても、そのあと、また、紬がいじめられる可能性がある」
「人っていうのは、それが日常になると、当分やめられなくなる生き物なんだよ」
「だから、いじめの原因である紬を、それに」

長々と喋らないでほしい。

私の気も知らないで。

「やめて」

「願いを叶えるには」

「やめて……!」

「それなりの代償が必要なんだ!」

言葉が、突き刺さる。

「その役が、紬だった」

足が、動かない。

「いなくなったら、終わるでしょ?」

やさしい声が、静かに言う。

「いじめの原因が、消えたんだから」

「そんな!」

叫ぶ。

「紬は原因なんかじゃない!」

声が、震える。

「ただ、みんなが……!」

その先が、言えない。

分かっているから。

言ったって、無駄だってことが、
どれだけ叫んでも、紬は帰ってこない。

「うん」

やさしい声が、うなずく。

「みんなが、そうした」

「みんなが紬を原因にしたんだよ」

「そして、あなたも」

胸が、強く締めつけられる。

「……違う」

「私は……」

言葉が出ない。

笑った。

止めなかった。

見ていた。

全部、浮かぶ。

「紬がいなくなれば、いじめはなくなる」

冷たい声が、繰り返す。

「だから、代償になった」

「都合がいいでしょ」

石畳に、一つ二つと、水滴が落ちる。

何で私、泣いてるんだろう。

「……っ」

息が、詰まる。

何も、言えない。

「あなたが望んだことに、一番合ってたでしょう?」

やさしい声が言う。

「いじめがなくなること」

「クラスが普通になること」

「自分が、傷つかないこと」

「全部、叶ってる」

「……やめて」

「だから」

少しだけ、間があく。

「紬が、選ばれた」

その瞬間。

全部が、繋がる。

自分が何をしたのか。

何を選んだのか。

「……返してよ」

声が、震える。

「紬を、返してよ……!」

「もう、無理だよ」

やさしい声。

「もう、あっちにいるから」

「……あっち?」

冷たい方が、ゆっくりと指を向ける。

村の外れ。

線路の先。

「駅」

その一言で、心臓が跳ねる。

体が、勝手に動く。

「行っても、変わらないよ」

冷たい声。

「それでも!」

叫ぶ。

「それでも行く……!」

息が苦しい。

足が痛い。

それでも止まれない。

頭の中には、ひとつだけ。

紬。

「……待ってて」

小さく、こぼれる。

「今、行くから」

第六章 〜駅〜

空気が変わり始めた。

駅にってもいいのかな。

いや、行かないと。

駅は、静かだった。

誰もいない。

風だけが、ホームを通り過ぎていく。

時刻表は、見たことのない時間を指していた。

電車が来るはずのない時間。

それでも、
そこに、人影があった。

紬。

ホームの端に立って、線路の向こうを見ている。

「……紬」

声が、かすれる。

紬が、ゆっくり振り返る。

その目は、変わっていなかった。

でも、
少しだけ、遠く感じた。

「来たんだ」

静かな声。

いつもと同じなのに、どこか違う。

「どこ行くの……」

足が、うまく動かない。

それでも、近づく。

「……あっち」

紬は、線路の向こうを指した。

何もない。

ただ、続いているだけ。

「……戻ろう」

言葉が、こぼれる。

「みんな……待ってるから」

嘘だと分かっている。

でも、それしか言えなかった。

紬は、少しだけ首を振る。

「もう、戻れないよ」

その言葉が、静かに落ちる。

胸が、痛む。

「なんで……」

「……知ってるでしょ」

その一言で、何も言えなくなる。

風が、強く吹く。

遠くで、音がした。

電車の音。

ゆっくりと、近づいてくる。

「……ごめん」

やっと、言えた。

遅すぎる言葉。

「私……」

続かない。

紬は、少しだけ目を細めた。

怒っていない。

でも、やさしくもなかった。

ただ、静かだった。

「……いじめがなくなればいいって」

紬が、ぽつりと言う。

「あなたが望んだことでしょう?」

胸が、強く締めつけられる。

「……違う」

「違わないよ」

すぐに、返される。

「ちゃんと、叶った」

言葉が、刺さる。

電車の音が、近づいてくる。

「でも……!」

一歩、踏み出す。

「違う……!」

紬の腕を、掴む。

「私は……!」

何を言えばいいのか、分からない。

ただ、離したくなかった。

紬は、ゆっくりと首を振る。

「いいよ」

小さく、そう言う。

その言葉が、一番つらい。

「もう、いい」

電車が、駅に入ってくる。

音が、すべてをかき消す。

風が、強くなる。

「……なんで」

声が震える。

「なんでそんなこと言うの……」

紬は、少しだけ笑った。

悲しい笑い方だった。

「だって」

一歩、後ろに下がる。

「あなたが望んだことでしょう?」

もうそんな言葉、何回も言わないでよ。

何も、言えない。

手の力が、少しずつ抜けていく。

紬は、電車の方へ向かう。

「待って……!」

声を出す。

でも、足が動かない。

紬が、ドアの前で止まる。

振り返る。

「……陽菜」

初めて、名前を呼ばれる。

胸が、締めつけられる。

「何も、背負わなくていいから」

やさしい声。

でも、
もう、届かない。

紬は、小さく笑った。

そして、そのまま電車に乗る。

ドアが、閉まる。

音が、響く。

電車が、動き出す。

「……待って」

小さな声。

届かない。

遠ざかっていく。

紬の姿が、見えなくなる。

静寂が、戻る。

私は、その場に立ち尽くしたまま。

動けなかった。

どれくらい時間が経ったのか、分からない。

それでも、私は待った。

次の電車を。

でも、
いくら待っても、電車は来なかった。

風だけが、吹いている。

そのとき、気づく。

この村には、ルールがある。

外に、出てはいけない。

ここから先には、行けない。

さっきの電車は——

その“外”に行くものだった。

「……あ」

声が、こぼれる。

私は、行けない。

追いかけられない。

最初から。

その資格なんて、なかった。

膝から、力が抜ける。

その場に、崩れ落ちる。

何も、できなかった。

最初から、最後まで。

私は、なんてバカなんだろう。

第七章 〜残された世界〜

次の日。

私は、いつも通り学校へ向かった。

足取りは、少しだけ重かった。

でも、それ以外は何も変わらない。

空も。

風も。

通い慣れた道も。

全部、昨日と同じはずなのに。

何かが、決定的に違っていた。

教室の扉を開ける。

「おはよー」

「おはよ」

変わらない声。

変わらない空気。

私は、自分の席に座る。

ふと、後ろを見る。

窓際の、一番後ろの席。

そこには、誰もいない。

最初から、そうだったみたいに。

誰も、その席を気にしない。

誰も、何も言わない。

ただの“空いている席”。

それだけ。

「ねえ陽菜」

隣の子が話しかけてくる。

「昨日のテレビ見た?」

「……いや、見てない」

普通に返す。

普通に会話する。

何もなかったみたいに。

教室は、穏やかだった。

笑い声も、やわらかい。

誰も、誰かを傷つけていない。

あの空気は、もうどこにもない。

いじめは、なくなった。

願いは、ちゃんと叶っている。

なのに。

胸の奥が、ずっと重い。

授業が始まる。

黒板の文字を写す。

ノートを取る。

ペンを動かす手が、少しだけ震える。

ふと、気づく。

自分の鞄の中に、見慣れないノートが入っている。

「……」

そっと取り出す。

見覚えがある。

紬のノートだった。

表紙の端が、少しだけ折れている。

きれいな字で、日付と内容が書かれている。

何も変わっていない。

あのときのまま。

「……」

ページをめくる。

途中で、手が止まる。

何も、書けなかったページ。

あの日。

ノートがなくなった日。

そのまま、空白になっている。

胸が、締めつけられる。

私は、そっとノートを閉じた。

周りを見る。

誰も気にしていない。

このノートのことも。

紬のことも。

誰も、知らない。

私だけが、覚えている。

それが、現実だった。

チャイムが鳴る。

授業が終わる。

いつも通りの一日が、過ぎていく。

放課後。

私は、ひとりで教室に残っていた。

静かな空間。

あの日と、少し似ている。

でも、
決定的に違う。

もう、ここに紬はいない。

私は、ゆっくりと立ち上がる。

ノートを手に取る。

少しだけ迷ってから、鞄に入れる。

窓の外を見る。

遠くに、線路が見える。

あの駅へ続く線路。

しばらく、目を離せなかった。

もう、電車は来ない。

分かっている。

それでも。

「……もし」

小さく、つぶやく。

声は、誰にも届かない。

「もし、もう一度」

言葉が、途中で止まる。

続ける資格がない気がした。

私は、目を閉じる。

そして、思った。

次があるなら。

もし、もう一度、同じ時間に戻れるなら。

今度は、
ちゃんと、手を離さない。

目を開ける。

教室は、静かなままだった。

何も変わらない。

変わらないまま、続いていく。

それが、この世界だった。

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