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「マクロスシリーズ」と「反戦」の関係


はじめに

まず「マクロスシリーズ」とは、
「超時空要塞マクロス」という1982年に放送が開始された河森正治監督のSFアニメーション作品を中心としたアニメ、その他の関連メディアミックスを含んだ作品群のことである。

また同作品群内における代表作として、
「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」
「マクロスプラス」
「マクロス7」
「マクロスF」
「マクロスΔ」
などが挙げられる。

マクロスがSF界でパイオニアたる何かを生み出したか?
と訊かれれば、それはまさに「宇宙戦争と美少女」の組み合わせだろう。
だがこれは昨今のSFアニメーションに於ける「美少女」性とは、特に初期作品でかなり性質が異なっている。
それはマクロスが宇宙戦争モノでありながら、
メインストリームが「ラブロマンス」にあるという点でだ。
河森監督はしばしば「三角」という概念を作品内外に散りばめる。
そしてマクロスシリーズで重要な「三角」は、

「三角関係」

「三段変形」
の2要素と、

「宇宙戦争」&「美少女」&「歌」
のトライアングルなコンセプトのマリアージュだ。

今回はその中でも、

「歌」

に注目して、主題の「反戦」との関係を語っていく。


「歌」の意味

ドラマや小説、アニメなど様々な創作物の中で登場してきた「歌」は、
そのもの、またそれを歌うことへの「意味」というのが取り沙汰されることが多い。
それは現実空間でもそうで、
特に海外では「歌」、ないしは「歌詞」が持つ意味合いというのはかなり重要視される。
(ex.ボブ・マーリー、「天使にラブ・ソングを…」etc)

ではマクロスの根幹とも言える「歌」は、
マクロスの中でどのような意味を持つのか。

私の見解としては、

「意味がない」

というのが意味だ。

初代の劇場版作品である「愛・おぼえていますか」(以降愛おぼ)でも、
ゼントラーディとの戦争を終わらせたのは
プロトカルチャー時代(アトランティス的な、人類やゼントラーディ文明が発達する以前から存在した文明であり、彼らの祖先に当たる存在が居た時代)の、
単なる流行歌
だった。

その歌は反戦を歌うものでも、ゼントラーディを特別感銘させるものでもなく、
単にゼントラーディが戦闘種族としてプロトカルチャーにデザインされた「文化」を持たない存在であり、
初めて触れた文化の一端である「歌」に驚き、また感動したからだった。

のちに「ミンメイ・アタック」と呼ばれることになるこの出来事は、その後の作品に登場する様々なシンガー、マクロスに於ける「歌姫」を残酷にも傷つけていく。

そう、その言葉が「歌」に意味を見出してしまったのだ。
歌は人類の持つ他種族に対して有効な「武器」であるという意味を。

作品内では「シャロン・アップル」、「サウンドフォース」、「ジャミングバード」、「ランカ・リー」、「ワルキューレ」や「ヴァールシンドローム」など、その意味によって「歌」を利用され、時には傷つけられた者達が数々登場する。

特に代表的なのは熱気バサラとランカ・リーだろう。
2人に共通するのは、「ただ歌いたい」という想いだ。
つまり彼ら(に限らずマクロスでの歌)にとって
歌うことに意味は「無い」のだ。

逆説的には「歌うこと」そのものが意味であって、それ以上でも以下でもない。

マクロスシリーズ内に共通するものとして、
「歌」という聖域を戦乱から守る
というイデオロギーがあるのではないかと私は考える。

もっと砕いて言えば、
自由に歌える世界を守る
ということだ。

それこそがマクロスシリーズが持つ
「歌」に対する思いなのではないだろうか。

「歌」は「平和」のため?


よくマクロスシリーズの歌、特に熱気バサラに関しては、「反戦」の旗印となりやすい。
(私個人としては別にそれを否定はしない)
では、歌姫達やバサラは「平和」のために歌ったか?

答えは「否」だ。

彼らは歌いたいから歌っていた、歌を聴いてほしいから人前で歌っていただけに過ぎない。

ではなぜマクロスの歌は反戦と結びつけられやすいのか。

それは、マクロスシリーズ自体が明確に
「反戦」作品
だからだ。

恥ずかしながら私がマクロスシリーズに触れたのはごく最近で、2025年2月に行われた
「愛おぼ」の4Kリマスター上映で初めてマクロスの映像を観た。
当時の視聴後の感想としては、

「美味しいのにアクが強い」

だった。
具体的に言えば、当時流行っていたであろうガンダムとは真逆を向いていて、
エンタメとはこうだ!!という要素がこれでもかと詰め込まれている。
(当時基準の)トレンディな歌、最高峰の戦闘作画、
重厚なラブロマンス、そしてなにより、
分かりやすい二項対立
だ。

え、そうだったっけ?ゼントラーディとか最後の方仲間になるし……と思ったそこのあなた。
マクロスはもっと大きなくくりで二項対立を捉えている。

それは、
「争いを生む者」と「争いを拒む者」
の対立であり、また
「文化を拒否する者」と「文化を許容する者」 の対立だ。

ガンダムもその側面は持つが、マクロスほど単純でなく、また哲学問答の多い作品で視聴者に疑問符を投げかける。
だがマクロスは違い、
あらゆる文化を愛しそれを守ることが善であり、
他者の文化を踏み躙り強奪することが悪であると
明確に描いたのだ。
ここに関して、よく富野作品は説教くさい!と言われるが、正直個人的には河森作品のほうがよっぽと説教くさいと思える。(笑)
アクの強さは明確にココ。
でもそんなトコが好き。

ここまでのことから、マクロスは明確に「反戦」を訴える作品であり、それが故にマクロスシリーズの「歌」は反戦の意味合いを視聴者から後付けされることが多いのではないだろうか。

「歌」以外の反戦要素

実はマクロスシリーズには、歌や歌姫以外にも反戦の要素を持つキャラクター、舞台装置が存在している。
代表的なものを挙げれば、
「イサム・ダイソン」、「早乙女アルト」、
「ハヤテ・インメルマン」

この3人だ。
このパイロット組は、
単なる戦闘機乗りに収まらなかったという点で
「反戦」性を持つと言えるだろう。
具体的に言えば、イサムやアルトの
「本物の青空を飛びたい」という願いは、
まさに現代的な平和の表現として、とても妙だ。

戦争兵器として生み出された可変戦闘機に乗りながら、争いを好まず自由に空を飛ぶ。
何か矛盾を孕んでいるようにも見えるが、
これぞまさに現代の反戦だ。

分かりやすく現実の例を出すならば、サッカーや射撃競技、サバゲーあたりだろうか。
討ち取った敵将や敵兵の首を蹴って遊んだところから派生したサッカーや、人を撃ち殺す兵器として生み出された銃が今や立派に世界的スポーツとして成り立ち、
また擬似的に歩兵戦闘を再現したサバゲーも、
そのどれもが

「平和でないとできない」趣味の数々だ。

ブルーインパルスのような空自による曲芸飛行もその側面を持ち始めていると言っても過言では無いだろう。
実際にそれをカメラに収めようと旅行する客も相当数存在する。

青空を永遠に飛びたいイサム、
大気のある空を舞いたいアルト、
踊るほど自由に飛びたいハヤテ。

そのどれも、一度戦争に駆り出されてしまえば叶わない。

こういった、本来戦争と切り離せないはずの
パイロットと戦闘機という存在を、
ここまで反戦的に描いたマクロスシリーズのセンスには本当に感服だ。

余談:ランカ・リーという母性、シェリル・ノームという熱狂

私はマクロスシリーズの中でも、特にマクロスFへの思い入れが深い。
中でもこの対照的な2人の歌姫、

「ランカ・リー」

「シェリル・ノーム」

は、母性と熱狂の体現、偶像としてのアイドル性が光っている。

ランカ・リーはシンデレラと作品内外で表現されることが多いが、個人的には母性に満ちた「女神」が感覚として1番近い。

「バジュラはお腹で歌うんだよ!」

バジュラは個体の脳が極端に退化(元からなのかも)しているが、それは知能が低いわけでは無い。
彼らは個で思考するのではなく、彼らの腸内にある「フォールド細菌」が思考のネットワークを構築していて、群れで一つの思考をする。

ランカとシェリル、2人の歌姫は
「バジュラ」に人生を翻弄された哀しき女性
そう見ることも出来るだろう。
また、人生に対する影響の受け方一つとっても、2人の間にはかなりの相違がある。

シェリル・ノームは、
後天的にフォールド細菌に感染する形で
V型感染症に罹患しており、
特効薬が無いため臓器移植が無ければ完治せず、
また身体のメンテナンスを怠れば症状は劇的に悪化する。
この感染症は致死率も非常に高く、原因も不明。これだけ聞くと相当悲劇的なキャラだと思えるが、このV型感染症にはある一つの特徴があった。

それは、
罹患中はバジュラのフォールドネットワークに作用できる
というものだ。

そのため、歌で強い意思を発信している状態であれば、そのメッセージをバジュラが受け取れる状態にある。
(これは私の推論だが、受け取ったはいいものの、言語が違うので上手く伝わらずフリーズする程度のもので、シェリルの歌ではスタン効果くらいしか見込めないのでは、とも思う。)

実際に作品内ではこの力を利用しようとしていたギャラクシー船団に目をつけられ、
シェリル・ノームという歌姫はランカのようなシンデレラ的でなく、
プロデュースされた「イツワリノウタヒメ」
としてマクロの宇宙にその名を轟かせた。
では、彼女には哀しさを払拭するような
強さは無いのか?

彼女の特徴の一つとして、「役者性」がある。
作品内ではやたらとアルトに役者性のフォーカスが当たりがちだが、
個人的にはシェリルの方がよっぽど役者性を持っている、というかほぼほぼ洗脳に近いと感じる。

シェリル・ノームは本来感受性が高く、また孤独故に常に愛を求めるが、特定の相手に対しては真っ向から愛を求めることのできない弱さを抱えている。
それにも関わらず、「銀河の妖精」という
用意された枠組み、他者からの印象を
強く受け取って、
自分の前にいる観客全てに向けて
「シェリル・ノーム」
をお届けするという自己犠牲の塊だ。

与えられるものが自分の中に何も無いのに、
求められるまま全てを差し出す。
シェリル・ノームとは、

中空の瓦解する女神像

だと思える。
そんなシェリルにも、強さは確実にある。
それは、
「歌」と「命」の強い結びつき。

「歌は祈命。」

彼女の生み出す熱狂は、ギャラクシー船団のシナリオやコマーシャル的な外面要素では決して生み出すことの出来ない「命の爆発」で、
いつ終わるか分からない命を精一杯歌で満たして、
歌に祈りを載せる
という、力強くみえる彼女の外面とは裏腹に
ガラスのように脆い彼女の心を、
隠すことなく歌詞に吐露すること、それ自体が
観客の熱狂、延いては
視聴している我々の熱狂をも生んでいるのだと
私は考える。

ランカ・リーはそれに対しかなり対照的で、
蝶よ花よと周りから守られている様子は
庇護下に置かれる弱い存在
として外面上は見えるかもしれないが、
その実、彼女はシェリルに比べて
信じられないほど強かだ。

彼女はシェリルと違い先天的にフォールド細菌に感染(母胎内での感染)する形でV型感染症に罹患しているが、その関係で症状が無い
健康保菌者
として、V型感染症のいいとこ取りをしている。

そしてその症状故なのか、彼女はバジュラに
仲間だと思われており、
また意思の疎通もある程度可能と見られる。
それをグレイス・ゴドゥヌワ大佐率いる面々に見抜かれ、
「アイモ O.C.」
の歌詞にも見られるように、
フロンティア船団やギャラクシー船団の凶行にもプロパガンダや兵器として利用されるという
哀しい存在としても描かれる。
だが彼女の強さは、全てを愛する「母性」ではないだろうか。

「全てを 今すぐ 抱きしめたいの」

彼女の歌う歌はシェリルとは対照的に
「私があなたを愛する」
というメッセージだ。
受ける愛を何度も確かめるように歌うシェリルに対し、
ランカは何度も何度も渡す愛を歌っている。
これがランカの強さで、
他者へ無償の愛を贈ることへの躊躇いが一切無い。
愛が否定されることを怖がらない強さは
まさにバジュラとのフォールドネットワークが為せる技で、
人よりも意思を疎通できる相手が多いというのは
彼女にとって良い方向に働いているのだろう。

またここで本題に戻るが、この彼女の「母性」は、
単なる母としてではなく世界に対する母であり、
どちらかと言えば
アガペー(無償の愛)
に近いものだ。

ガンダムが反戦アニメとして知られて久しいが、
反戦の方向性がマクロスとかなり異なっていることは
このランカの持つ無償の愛、という要素からも分かる。

ガンダムに於ける反戦とは哲学問答や無常、縁起というとても仏教的なアプローチを行っているが、
マクロスは
全てに対する無償の愛は、いずれ世界を優しく包む
というとてもキリスト教的なアプローチを行なっている。

反戦メッセージを込めた上でここまでイデオロギーを脱臭するには説法的にするよりも、
無償の愛を振り撒き続けるというランカ・リーの生き様はかなり作品において効果を発揮していると私は思う。

おわりに


マクロスは考える余地も残さぬほど徹底的に
「反戦」を描いている。
それはエンタメであるアニメとして
視聴者の食指を動かすことを
躊躇わせるには十分な
アク
であるが、それを数々の過剰とも言える
エンタメの詰め込みによって
無理矢理にアク抜きをしている作品群だというのが、私の結論だ。

とはいっても何らかソースを示した訳でもなければ、資料と睨めっこをしてこの記事を書いた訳でもない。
今回私が出した結論や意見に対し、賛同でも批判でも、
議論を生むことができれば幸いだ。

今回は自己紹介を除けば初回記事だし、
とりあえずこんなところで。

では、ヤック・デカルチャーなヲタク生活を祈って。


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