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石上郷と日向石神社(石上神社)考 (瀬戸内市長船町磯上)

瀬戸内市へ新しい観光コースの提案

第一部 「磯上の古道を歩く」 安木義忠氏(いそのかみ里山倶楽部)
第二部「石上郷(磯上)と日向石神社(石上神社)」丸谷憲二氏(黄蕨の会)

日向石神社(石上神社)の巨大磐座


長船町磯上は『かぐや姫』の五番目の公家・中納言石上麻呂足の故郷か
長船町磯上(石上郷)は『かぐや姫』へ求婚した五番目の公家 
中納言石上麻呂足の故郷か ??? 
布勢神社で三番目の公家の右大臣阿倍御主人(みうし)発見???

4 月せとうちキラリ☆市民文化講座
開催日時 令和 1 年 4 月 18 日(木)18 時 30 分~20 時
開催場所   瀬戸内市中央公民館多目的ホール

長船歴史研究会 7 月度例会講演
開催日時 令和 1 年 7 月 17 日(水)13 時 30 分~15 時 30 分
開催場所   瀬戸内市長船公民館 2 階

1   はじめに
 瀬戸内市長船町磯上は『和名抄』の石上郷(いそのかみごう)の比定地です。石上郷の 油杉集落に巨大な磐座で知られる日向石神社跡(石上神社跡)があり、油杉山には前方後 円墳、大塚集落近くに横穴式古墳群があります。奈良時代には日光寺も創建されました。 石上郷と日向石神社を地名学で考察します。

『瀬戸内市の地名と人々の営み』浦上宏 2015 年 吉備人出版 P23~24

『磯上の古道を歩く』平成 27 年 4 月 2 日  いそのかみ里山倶楽部  安木義忠氏作製


2  石上郷の地名の由来
 『長船町史 通史編』の、「長船と牛窓の首長墳」に、亀田修一氏(岡山理科大学教 授)は、吉備海部直(きびのあまべのあたい)一族を紹介し、「そして名前はわからない が、別グループの豪族層がいたことを示していると考えておきたい。」と報告しています。
 『世界大百科事典』に、「吉備は大和政権に早くから服属し,積極的に朝鮮経営に参 加した。吉備海部直(きびのあまべのあたい)は,友ヶ島水道を中心とした紀氏ととも に,水軍を率いて朝鮮半島に派遣された。古代の漁労,塩生産,海上交通にたずさわった 海人(あま)は大和政権によって海部(あまべ)として編成されたが,この海部が内海地 域にも分布していた。」と。しかし、その後、考古学、歴史学による研究報告はありませ ん。

『長船町史 通史編』平成 13 年 長船町 P157~162
『改訂新版 世界大百科事典』2007 年 平凡社

2.1   現在の「いそのかみ」地名
 郵便番号検索では、現在の(いそのかみ)地名は、天理市と岸和田市です。

瀬戸内市長船町も(いそかみ)に変更されています。

 福島県南会津郡下郷町磯上(いそがみ)
 兵庫県神戸市中央区磯上通(いそがみとおり)
 岡山県瀬戸内市長船町磯上(いそかみ)
 奈良県天理市石上町(いそのかみ)
 大阪府岸和田市磯上町(いそのかみ)
 茨城県大子町上野宮に、磯神(いそがみ)のバス停があります。
 栃木県大田原市黒羽向町に磯上(いそがみ)の山桜があります。
『新日本地名牽引 1』1994 アボック出版局 P113 よりネット検索

日向石神社(石上神社)の巨大磐座
日向石神社(石上神社)の巨大磐座

日向石神社跡の岩座
緯度(数値) : 34 ゚ 4240.8 [DMS]  経度(数値) : 134 ゚ 827.9 [DMS]

『第 220 回 瀬戸内市(邑久・長船)の磐座・社寺を訪ねて』星と太陽の会
https://blogs.yahoo.co.jp/kibi_iwakura/22752078.html

2.2  地名学による石上郷
 柳田國男氏の民俗学では「地名が先です。石上地区に住んでいたから石上氏」です。石上 郷は部民(べみん)に由来する地名です。部民とは大化改新以前に,朝廷あるいは天皇・后 妃・皇子・豪族などに隷属し,労役を提供し,また生産物を貢納した人々の集団です。
 具体 的には第 24 代仁賢(にんけん)天皇または石上神宮に調達物を用意する居住地であった ことから石上郷の名前がつきました。日向石神社(石上神社)の磐座が地名の由来です。 古代史には重要な石上氏が記録されています。

2.3 『和名類聚抄』の石上郷

『和名類聚抄』


 『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、平安時 代中期(931 年~938 年)、勤子内親王の求めに応じて源 順(みなもとのしたごう)が編纂した辞書です。『和名類 聚抄』の伊曽乃加美は、山城国山邉郡と備前国邑久郡のみ です。938 年には石上郷は成立していました。
 菅原道真の 編纂により 892 年成立の『類聚国史(るいじゅうこくし)』は編年体である六国史の記載を中国の類書にならい 分類再編集したもので、『和名類聚抄』より古い記録で す。
 平賀元義(1800~1866)の『吉備之国地理之聞書』は 『類聚国史』で報告しています。892 年以前の記録です。永山卯三郎も「今、国府村大字磯上存す。」と報告してい ます。

平賀元義説
 「『類聚国史』に備前国の殻を石上内親王に賜ふといふ事 あれども、石上郷は、かの内親王より以前の郷名なれば、 内親王によれる名にあらず。」

『岡山県通史上編』永山卯三郎 昭和 5 年 岡山県 P45 ~46
『吉備之国地理之聞書』平賀元義「吉備群書集成(二)」 昭和 45 年 歴史図書社 P487~489


2.4  石上内親王と備前国
 『類聚国史 巻七十八 賞賜(桓武-嵯峨)』に平安時代前期の第 51 代平城(へいぜい)天 皇の皇女、石上内親王(いそのかみ・?~846)の大同 5 年(810 年)の記録があります。
 「近江国穀三百斛,播磨国三百斛,備前国二百斛(こく)を賜る。」とあり、斛(こく)とは容 量の単位。「石(こく)に同じ〕分量がはかりきれないほど多いことをいう語です。
 備前国との関係を確認できた石上氏は石上内親王のみです。備前国へは大原内親王も備 前国二百斛、叡努(えぬ)内親王も備前国一百斛とあります。大原内親王所縁の地名が美 作市大原町か。県北東部で兵庫県と接する町です。桓武天皇の第 1 皇子である第 51 代平 城天皇の在位は、806~809 年です。母は皇后・藤原乙牟漏、同母弟が嵯峨天皇です。
 平城天皇は備前国に所縁がありそうです。

新訂増補 国史大系第五巻『類聚国史』前編 黒坂勝美 昭和 40 年 吉川廣文館 P410

2.5  石上皇子・石上部皇子

『日本書 紀』巻第十九


 飛鳥時代の第 29 代欽明(きんめい)天皇皇子の 石上皇子(いそのかみのみこ・542 年?~?)と石 上部皇子(いそのかみべのみこ)の記録が『先代 旧事本紀』巻九 帝室本紀 欽明天皇と『日本書 紀』巻第十九にあります。
 石上皇子の母は第 28 代宣化天皇皇女の稚綾姫皇女(わかあやひめ)で す。第 30 代敏達(びだつ)天皇の母です。 石上部皇子はの母は、『日本書紀』では蘇我大 臣稲目宿祢の娘の堅塩媛(きたしひめ)です。第 31 代用明天皇・第 33 代推古天皇の同母弟です。 事績・経歴はまったく不明です。
第 29 代欽明天皇の在位は 539~571 年です。百 済より仏教が公伝し任那が滅亡しました。

『日本書紀下』昭和 40 年 岩波書店 P64~69

2.6  石上朝臣麻呂(物部連麻呂)


 物部守屋(?~587 年)の時代の崇・廃仏闘争により物部一族は滅亡しましたが、物部 一族は石上氏として存続します。
 飛鳥末期・奈良初期の公卿(くぎょう)の物部連(ものの べのむらじ)麻呂(640~717 年)は 684 年(天武 13)八色の姓で居住地の石上郷に因み石 上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜わり「石上朝臣麻呂」と改名しました。
 壬申の乱(672 年)では近江方の大友皇子側にあり敗戦すれど も生き残りました。第 40 代天武(てんむ)天皇 5 年(676 年) に、遣新羅大使に任命され翌年帰国。686 年(朱鳥元)には天 武天皇の崩御に際し殯宮(もがりのみや)で法官(のりのつかさ) の代表として哀悼の意を表わし、690 年(持統天皇 4)即位式 に当たり大盾(おおたて)を立て、696 年には直広壱(じきこうい ち)となり資人(しじん)50 人を与えられました。701 年(大宝 元)には、中納言直大壱であったが大宝令の施行により正三位 に叙せられ大納言に。704 年(慶雲 1)右大臣、708 年(和銅 元)正二位左大臣。717 年(養老 1)に没し従一位(じゅいち い)に。万葉集に歌 1 首を残し、『竹取物語』でかぐや姫に求 婚する 5 人の貴族の一人「石上麻呂足」のモデルです。

『石上麻呂と石上郷(長船町磯上)』平成 28 年 1 月 5 日 丸 谷憲二
『藤原鎌足』梅原猛他 1992 思索社 P186~191
『律令貴族と政争 藤原氏と石上氏をめぐって』木本好信 2001 塙書房 P7~21
新訂増補 国史大系七『先代旧事本紀』昭和 40 年 吉川廣文 館 P72
『日本古代中世人名辞典』2006 吉川廣文館 P76

2.6.1  万葉集の石上麻呂

 吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも
いとしい妻を いざ見ようとするが いざみ山が高いからか 大和は見えない 国が遠いから 吾妹子は見えない

[原文] 吾妹子乎 去来見乃山乎 高三香裳 日本能不所見 國遠見可聞
[仮名] わぎもこを,いざみのやまを,たかみかも,やまとのみえぬ,くにとほみかも

『万葉集 44.雑歌,作者:石上麻呂,伊勢』https://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/34106163.html

2.6.2   竹取物語[かぐや姫]の中納言石上麻呂足
 竹取物語は平安初期に著された仮名による日本最古の物語です。
作者・成立年は未詳。

 竹取の翁によって竹の中から見つけられた「かぐや姫」が、貴公子たちの求婚を次々 と退け、帝の招聘も拒絶し、最後は月に帰ってしまう話です。
 石上麻呂足は、「かぐや姫に求婚する五人目の公家」です。
 竹取物語は、平安時代以降の物語に様々な影響を与えた作品です。 子供から大人まで幅広く読み継がれた日本を代表する昔話の一つです。 

燕の子安貝‐中納言石上麻呂足のあらすじ
 かぐや姫は、中納言石上麻呂足に燕の子安貝(こやすがひ)が欲しいと要望した。中 納言は、家来の情報から、大炊寮(おおいりょう)の屋根に、燕の巣が多数存在するこ とを知る。足場を組んで家来を配置し、子安貝を取ろうとしたが、吉報は届かない。そ こに大炊寮の役人、倉津麻呂が訪れ、足場を壊して燕の警戒を解くとともに、家来を籠 に乗せて吊り上げ、燕が子を産む瞬間に子安貝を奪うという策を進言した。日没後、燕 が子を産む際の動作があったため、巣の中を探らせたが、何もないという。業を煮やし た中納言は、籠に乗って巣のある所まで上がった。巣の中で何かを掴んだと感じた中納 言は、籠を下すよう命じる。命令に慌てた家来は、綱を引き過ぎてしまう。綱は切れ、 中納言は鼎の上に落下。その事故が原因で、中納言は絶命した。かぐや姫は、中納言の ことを、少し気の毒に思った。

【燕の子安貝】とは、
 無理難題への苦労話しと、その顛末が物語のメインです。
燕の子安貝は、仏の御石の鉢 石作皇子、蓬莱の玉の枝 車持皇子、火鼠の皮衣 "今一 人"とかかれたが、右大臣阿倍御主人(あへのみあらじ)、龍の首の玉 大伴大納言 ときて、最後の五番目「石上中納言」への課題です。
子安貝はタカラガイ科の巻き貝の異名です。形が卵形で色が美しく妊婦のお守りとさ れ、また、古代には貨幣としても用いられました。燕の子安貝は意味不明です。

竹取物語[かぐや姫](原文・現代語訳)
http://www.manabu-oshieru.com/daigakujuken/kobun/taketori.html
燕の子安貝とは、
https://plaza.rakuten.co.jp/kd2006/diary/200805250000/

2.6.3  布勢神社(大多羅)と阿倍御主人(あべの みうし)
 布勢神社(岡山市東区大多羅町 541)は宝亀 2 年(771)8 月創立。寛文 6 年(1666)池 田光政の寺院淘汰により神宮寺であった薬神寺が廃寺とされました。

大多羅の地名の由来

大多羅とは
 多羅とは 4 世紀頃日本に服属した任那(みまな)国の国名です。現在の韓国慶尚南道陝 川です。任那国の多羅から渡来した人達がつくった町が大多羅です。多羅は 6 世紀には 新羅に帰属しました。
『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』

『日本書紀』の任那と多羅
 『日本書紀』(720 年)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が登場します。 崇神天皇 65 年と垂仁天皇 2 年の条は、任那と日本の初見です。
欽明天皇からは、ほぼ毎年任那の記録があります。
 欽明 2 年(541 年)4 月の条に「任那日本府」があります。
欽明天皇 23 年(562 年)の条に、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しに き)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半 下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ) の十国の総称を任那と言うとあります。
この 10 国は 562 年の任那滅亡に近い最末期の地名です。

陜川(합천:ハプチョン)と多羅国
 陜川(합천:ハプチョン)の城山里にあり、洛東江と黄江の分岐しこの川の流れを利用 して発展したのが多羅国です。
伽耶地域と新羅地域との結節点にあたります。
ここには伽耶時代の古墳、土塁などが残り、近くに「多羅里」があり日本書紀に出てく る「多羅国」であると比定されます。多羅国の記録は、日本書紀のみです。

吉備国内の布勢地名と布勢神社

① 布施神社岡山県苫田郡鏡野町富西谷 220)
布施神社(三塚(みつか)の壇の山頂から享永年間(1429~1440 年)に現在地に移転。

② 福田神社(岡山県真庭市蒜山中福田 392)一帯を布勢郷(庄)と称し布勢大宮か。

③ 布勢神社(赤磐市仁堀西 1027・旧は布施谷)延喜式式内社
 元文四年(1739)成立の『備陽国誌』に「祭神は布勢氏神祖大彦命」と。
竜天山山頂に布勢巨神社

④ 雨垂布勢神社(アマタレ 岡山市東区瀬戸町肩脊 2203)
 備陽国誌に、「孝謙天皇の御宇、宮城県黒川郡の延喜式式内社の鹿嶋天足別神社 (かしまあまたらしわけ)を勧請す。此社の氏子は故あって伯州大山への参詣しない由伝う」とある。

⑤ 天降布勢神社(アマタレ 岡山市北区建部町大田 1025)
 後陽成天皇の御代に現在地に奉遷し天降布勢神社と改称。祭神は医薬神で、特に癩 患に霊験顕著。

 布施一族のルーツは、富山県氷見市布施の布施神社です。大伴家持は布施水海をこよ なく愛し、美しい風景を数多くの歌に残しています。氷見市指定文化財(名勝)に『布 施の円山』があります。祭神は四道将軍の一人で北陸に派遣された大彦命(おおひこの みこと)です。急な石階段を登った頂上には布勢朝臣の租・大彦命を祀る延喜式内社 布勢神社や「大伴家持」を祀る御影社(みかげしゃ)があります。

 大彦命(おおひこのみこと)は、第 8 代孝元天皇と皇后鬱色謎命(うつしこめのみこ と)との間の第 1 皇子です。第 11 代垂仁天皇の外祖父です。また、阿倍臣を始めとす る諸氏族の祖。四道将軍の 1 人で北陸に派遣されました。
 同母兄弟に第 9 代開化天皇、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこ と)。子に、御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第 10 代崇神天皇皇后)、御間城 姫は垂仁天皇(第 11 代)の生母であり、大彦命はその外祖父です。

 阿倍御主人(あべの みうし)は、飛鳥時代の人物。氏は布勢・普勢(ふせ)、阿倍 普勢(あべのふせ)とも。左大臣・阿倍内麻呂の子です。
 672 年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)方の功臣です。天武天皇の時代から政治に 携わり、持統・文武朝の代に高い地位にあり、晩年には右大臣として太政官の頂点の座 にありました。官位は従二位・右大臣。初見は『続日本紀』大宝元年(701 年)7 月 21 日条。

 平安時代初期の『竹取物語』の三番目の公家「右大臣 あべのみうし」のモデルです。

2.6.4  竹取物語と讃岐神社
 「竹取物語」ゆかりの神社が讃岐神社(奈良県北葛城郡広陵町に)です。竹取物語(平安時代)は、讃岐神社の讃岐造(さぬきのみやつこ)をモデルにして書かれました。香川県讃岐の一族が大和朝廷に仕えるため、竹の豊富な地に移り住んで竹取物語が誕生しました。
 かぐや姫への求婚者は壬申の乱で活躍した実在の人物です。竹取物語の舞台は、讃岐 神社周辺とされています。讃岐神社は延喜式神名帳に記載のある古社です。

 「今は昔、竹取の翁といふものありけり・・・」で始まる竹取物語(平安時代、作者不 詳)に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統ー文武朝廷に竹細工を献上する ため、讃岐国(香川県)の氏族斎部(いんべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移 り住んだものとしている。翁の讃岐姓は、「和名抄」の大和国広瀬郡に散吉郷があり 「大和志」では、「散吉郷廃存済恩寺(はいそんさいおんじ)村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉(みつよし)の斉音寺集落付近に比定している。
 竹取物語の舞台が大和国であったことはかぐや姫の求婚者であった五人の貴公子の名 が、持統期末期から文武朝初期にかけて朝廷の中心にいた五人の実在の人物に比定され ることも符合する。

3  日向石神社と石上神社
 『磯上の古道を歩く』の日向石神社(石上神社)の説明に、「この土地は天王といわ れ」とあり、天王とは天皇の古称です。磯上油杉に天皇地名があります。天皇名の解読が 日向石神社が石上神社であることを解明しました。

3.1  長船町磯上の天皇地名

『池田家文書神社明細帳』


 天王は日向石神社(石上の社)鎮座地の地名です。池田 家文書の『神社明細帳』に日向石神社が式下社湯次神社の 末社に記録され、祭神は崇神天皇と須佐之男神です。
 岡崎春樹氏は「石上神社は明治時代の政策で強制破壊さ れた。と私の妻の父親は石上神社の氏子で大変嘆き話して いた。」と報告しています。つまり地元では石上神社とし て伝承されてきました。永山卯三郎氏も備前地名考云とし て「或は此地をいふか。」と有ります。
 赤磐市の布都美神社を石上布都魂神社と池田綱政公が決 定したのは寛永七年(1630)です。岡山藩主による正式決 定ですが、江戸時代以前の記録はありません。地名の石上 村も「いそのかみ」ではなくて郵便番号検索では「イシカ ミ」です。地元民が「いそのかみ」とは読んでくれません
でした。
 『日本地名語源事典』には、祇園神社のある地を『天王』と言うとあり、疫病が流行し た時に祇園石天王様として祀ったものです。祇園石天王は池田家神社明細帳や大正 3 年の 湯次神社の境外末社には記録されておりません。

『吉備に邪馬台国 瀬戸内市の歴史』岡崎春樹 平成 25 年 12 月 P69~73
『岡山県通史上編』永山卯三郎 昭和 5 年 岡山県 P46
『日本地名語源事典』吉田茂樹 昭和 56 年 新人物往来社 P320~321
『新日本地名牽引-1』1993 年 アポック社出版局 P1192~1193
『 油杉郷土史の発見』手書資料 2016 年 3 月 23 日 中西厚氏より入手
『改訂邑久郡史 下巻』昭和 29 年 邑久郡史刊行会 P320~325
『布都美神社と石上布都魂神社』 平成 28 年 1 月 19 日 丸谷憲二

2  日向石神社の日向とは
 「日向石神社の日向は、日の出づる方に向ける石上の社」であり、日向石神社が古代か らの石上(いそのかみ)神社です。
 この磐座は緯度:34 ゚ 4240.8、経度:134 ゚ 827.9[DMS] です。DMS とは緯度・経度 Degree Minute Second(度分秒)の略です。
 1980 年 2 月 11 日に NHK で放映された『知られざる古代』を受け、古代祭祀遺跡が中 国の嵩山から伊勢斎王宮遺跡(三重県多気郡明和町)迄、北緯 34 度 32 分に並らび、こ のルートに大和の三輪山(奈良県桜井市三輪)と箸墓古墳(奈良県桜井市箸中)も並ん でいることを発見したのは星宮恵一氏(晃華学園)です。
 1981 年 6 月 11 日の朝日新聞 夕刊に、山田安彦氏(千葉大学教授・地域科学)が「古代の方位信仰」として「古代の 方位信仰とは、冬至の太陽の昇る方向に当たる」、「夏至の日没方向は祖先の霊を祭る 方位。冬至の日の出方向は生産回復の方位。」という説を発表されました。
 黒住秀夫氏が朝日新聞に「太陽の国吉備 古代のロマンを求めて」を発表したのは 1981 年(昭和 56)10 月 1 日からです。岡山では北緯 34 度 39 分と報告し、盾築遺跡か ら夏至の日没方向、つまり西北西 30 度方向に造山古墳が位置しています。と。
 『日本書紀』の「日向」の語源は、景行天皇と日本武尊の征西説話です。「是の国は 直く日の出づる方に向けり」と言い「日向国」と名づけたとあります。「日向石神社の 日向も、日の出づる方に向ける石上の社」です。日の出づる方に備前市日生町がありま す。備前市日生町寒河中日生の緯度経度は、34.736833, 134.273417 です。

『第 220 回 瀬戸内市(邑久・長船)の磐座・社寺を訪ねて』星と太陽の会 https://blogs.yahoo.co.jp/kibi_iwakura/22752078.htm
『日向石神社と日生の考察』丸谷憲二 平成 28 年 2 月 12 日
「日生の地名考」『日生町誌』昭和 47 年 日生町役場 P26~29
『続知られざる古代 龍王のきた道』水谷慶一 1981 年 日本放送出版協会 P2~30
「太陽の国吉備 古代のロマンを求めて」昭和 56 年 10 月 1 日~朝日新聞

3.3 『長船鍛冶由緒書上』

鉾剣


 『改訂 邑久郡史上巻』に、『長船鍛冶由緒書上』が収録 されています。『長船鍛冶由緒書上』の重要性は、備前長船 刀のルーツを鉾(ほこ)剣としており、崇神天皇が近くに居 られたから鉾剣を献上できたとの記録だからです。
 鉾は、槍や薙刀の前身の長柄武器、幅広両刃です。 国産み神話で大地をかき混ぜるのに天沼鉾(あめのぬぼこ)が用いられ、材質は青銅製の銅鉾です。
 崇神天皇六年は、石上大神が崇神天皇7年に石上神宮に祀られる前年です。
「一、遠祖は天目一神の後裔にして、世々鉾(ほこ)剣鍛冶を業となす。崇神天皇の六 己丑二月由介比の郷に於て鉾剣を鍛ひ以て天皇に献ず、天皇感賞し給ふに爵を以てす。 同年八月鉾剣を鍛冶せしむ。此時に当り更に爵一階を進む。其後世々鉾剣鍛冶となり、 吉備国由介比の郷板屋に住す。
一、仁徳天皇御宇に当り家祖以為く、崇神天皇は我祖神なりと、因て由介比の郷板屋 に、崇神天皇及天神宮、祭神天目一神天麻喜麻呂を勧請す。・・・」と。
「崇神天皇御宇六巳丑歳於二日本一初テ宝剣ヲ鋳、春二月奉二崇神天皇一叡感不レ斜、 賜二五位之位一、同八月勅定有二宝剣鋳一、其時三位之位ニ昇ル、其後代々宝剣鍛冶ト 成、住所者備前国湯桂郷今之長船也、・・・」

『改訂 邑久郡史 上巻』昭和 28 年 邑久郡史刊行会 P404~407
『邑久郡誌 第一遍』昭和 48 年 名著出版 P38~41

3.4  油杉坑道 銅山

油杉坑道 銅山


 油杉の古道脇に坑道跡が3ケ所有ります。坑道近くで拾った鉱石を石で割ってみまし た。事務用磁石がつくほどの磁性を持った鉱物を含む岩石であり、鉄の鉱石であることが 確認されました。しかし、鉱石の一部分のみの反応です。磁性鉱物の含有は部分的であり 倉敷自然史博物館へ調査を依頼しました。『長船鍛冶由緒書上』の銅山と推定されます。
 
 鉱石の分析結果 倉敷市立自然史博物館 武智泰史先生の所見
坑道近くより採掘した鉱石について調べた所,弱く磁石に付く程度のものでした。 内部を割って見たところ,一つは,泥岩が熱変成してできたホルンフェルスで,磁鉄鉱 は肉眼で見えるほど含まれていませんでした。もうひとつは,ホルンフェルス中に閃亜 鉛鉱,方鉛鉱,黄鉄鉱,黄銅鉱,微量の磁硫鉄鉱,磁鉄鉱が見られ,磁性は微量の磁硫 鉄鉱,磁鉄鉱によるものと思われます。この鉱石は明らかに銅・鉛・亜鉛鉱石で,鉄鉱 石より鉄含有率が低く,硫黄分が非常に多く(硫黄は少量でも鉄精錬の妨げになる), 古代で鉄鉱石として用いることができるほどのものではないと思います。したがって, 長船町磯上油杉の坑道は,銅・鉛・亜鉛を目的に採掘した跡であると思います。

『長船町磯上油杉 調査報告書』 丸谷憲二 平成24年1月25日

http://b.okareki.net/wp-content/uploads/2012/02/osafunemachiisonokamiusugi.pdf

3.5  天皇原
 宝永六年(1709)の『和気絹』に天皇原が記録され、崇神天皇所縁の地名天皇原です。 日向石神社鎮座地が天皇であり、長船村の崇神天皇社鎮座地が天皇原です。

崇神天皇社。長船村に在り。此辺を天皇原といふ。天皇は人皇十代開化天皇の太子也。

『和気絹』高木太亮軒 1709 年「吉備群書集成」P39

3.6  崇神天皇社鎮座地と靭負神社

靭負神社


 池田家文書の『神社明細帳』に崇神天皇社が記録されています。靭負(ゆきえ)神社が寛 文九年(1669)に崇神天皇社・社地に遷座とあり、1669 年に崇神天皇の名前が消され天 皇社とされ、靭負神社(瀬戸内市長船町長船 1151)に変えられました。祭神も天忍日命
(あめのおしひのみこと)です。高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子で大伴氏の祖先 神です。
 寛文九年(1669)は、池田綱政公が布都美神社を石上布都魂神社と決めた延宝二年 (1674)の 5 年前です。藩主の池田光政公が、石上神社を日向石神社と名称変更し、吉備国における崇神天皇の記録を抹消しました。

『池田家文書神社明細帳』
『池田家文書神社明細帳』



4  崇神天皇
 崇神(すじん)天皇は、第 10 代天皇で学術上実在可 能性のある初めての天皇です。3~4 世紀初めにかけて 実在した大王であり、258 年没説では崇神天皇の治世 は、邪馬台国時代の後半となり、水野正好氏(奈良大学 名誉教授)の「崇神天皇は卑弥呼の後継女王である台与 の摂政」説と西川寿勝氏(大阪府教育委員会)の「崇神 天皇は卑弥呼の男弟」説が知られています。『日本書 紀』では、崇神天皇が四道将軍を派遣しています。
三輪山を中心とする政治勢力を三輪王朝(三輪王権)
と呼び、河内を基盤とする新たな政治勢力を河内王朝(河内王権)とする説があります。 北方大陸系の騎馬民族が征服王朝を樹立したとする騎馬民族征服王朝説では、騎馬民族
の後裔である崇神天皇に象徴される勢力が北九州に入って第一回の建国をなし、北九州か ら畿内に進出した応神天皇によって第二回の建国がなされたと解釈しています。

『国史大辞典 8』昭和 62 年 吉川弘文館 P99~100

4.1  崇神天皇と石上神宮
 石上神宮祭神の石上大神は、第 10 代崇神天皇7年に現在地、石上布留(ふる)の高庭 (たかにわ)に祀られました。西暦年号は書かれておりません。
 石上神宮は、龍王山の西の麓、布留山(ふるやま・標高 266m)の北西麓の高台に鎮座 しています。北方に布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。
 古代には本殿がなく、拝殿後方の禁足地を御本地とし、古典には「石上神宮」「石上振 神宮(いそのかみふるじんぐう)」「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみた まじんじゃ)」等と記され、「石上社」「布留社」とも呼ばれていました。
 明治 7 年菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘され、御神体が出御し、大正 2 年本殿が造営されました。禁足地は現在も「布留社」と刻まれた剣先状石瑞垣で囲ま れ、昔の佇まいを残しています。

『石上神宮』 http://www.isonokami.jp/about/

4.2   七支刀の銘文
 

七支刀

 七支刀は、石上神宮に古代から伝来している神宝です。長さ約 75cm の鍛造両刃つくり で、身の両側に互い違いに小枝を三本派生させた特異な形をしています。
 この両面に金象嵌(きんぞうがん)の銘文が刻まれています。
 星野恒(ひさし)氏は、この刀が『日本書紀』の神功皇后五十二年条の百済肖古王からの 貢納品の一つ、七枝刀に違いないと指摘しました。
福山敏男氏が次のように判読されました。

(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王::::作

 泰和四年正(或は四か五か)月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を 作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これ を作る。
(裏)先世以未有此刀百滋:世:奇生聖音故為倭王造伝不:世
 先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが 故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。
 七支刀の表には、製作年代とその干支、品名、吉祥句、作者の名が、裏には、これが誰か ら誰へどういった目的で与えたかを記しています。
大きな論点の一つは、泰和四年の解釈です。
 福山氏は、中国東晋の太和四年(369 年)あるいは三国魏の太和四年(230 年)を候補にあ げました。その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代 371 年)と近似値を示 すことから東晋太和四年(369 年)が通説となりました。

表「百錬の鉄で七支刀を造る。これによって世は兵事の不祥を避け、もろもろの侯王に幸 いする」。

裏「先世以来、まだこの刀あらず。百済王の世子、奇しくも生まれながらにして聖徳あ り。それ故百済は倭王のために造った。後世まで示し伝えなさい」と。

『七支刀の銘文』
https://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/wanogoonozidai/ 1387511105239.html

15 4.3  石上神宮の造立

『類聚国史』
『類聚国史』

 『類聚国史』の桓武天皇延暦廿四年(805)の造石上神宮の正五位下石川朝臣吉備人に 注目しました。『日本後紀』に「延暦 24 年(805)京都の兵庫に運ばれていた神宮旧蔵の 兵器を返却する労力として造石上神宮使は単攻 15 万 7 千余人を計上」とあります。
 石川朝臣吉備人とは、壬申の乱の功臣石川王(吉備大宰)所縁の石川氏と考えます。蘇 我氏の末裔です。 石上神社も記録されています。

『岡山県史第三巻 古代Ⅱ』門脇禎二 平成 2 年 岡山県 P168~172
新訂増補 国史大系第五巻『類聚国史』前編 昭和 40 年 吉川廣文館 P219~221
『古代地名大辞典 本編』平成 11 年 角川書店 P172~173
『律令貴族と政争 藤原氏と石上氏をめぐって』木本好信 2001 塙書房 P7~15 『日向石神社と石上神社』 平成 28 年 1 月 20 日 丸谷憲二

4.4  禁足地御本地と石上(いわがみ)神社磐座
 石上神宮は古代には本殿がなく、拝殿後方 の禁足地を御本地と説明しています。

石上(いわがみ)神社磐座


 兵庫県津名郡北淡町舟木に石上神社磐座が あります。
 昭和 55 年のNHK「知られざる 古代~謎の北緯三十四度三十二分を行く」で 太陽の道として取り扱われました。中心石の 上部に 6 ㎡ほどの平坦部があり岩上祭祀の可 能性ありとされ、太陽崇拝の古代祭祀遺跡で す。現在は荒神が祭られています。
 「石上(いわがみ)神社」であり、石上(いそのかみ)神宮とは関係がありません。

石上神社(いわがみ) 磐座 http://veeten.cool.coocan.jp/iwakura/iwagami2.html

5   油杉の湯次神社と弓月君説
 油杉の湯次(ゆつぎ)神社は、備前国古社百二十八社の中に数えられています。『神社 明細帳』には祭神は不詳と記録されています。『長船町歴史の散歩道』に、弓月=湯次= 油杉説が紹介されています。

秦氏の故郷、弓月国(クン ユエ)


 弓月君(ゆつぎのきみ)とは秦氏の祖の名前です。『邑久郡 誌第一編』には、「湯次大神 帰化種弓月(融通君)」とあります。
 720年成立の『日本書紀』巻10の応神天皇14年に「弓月君を祖とし、百済より百二十県 の人を率いて渡来したと記録されています。重要なのは秦氏との記録が無いことです。あ くまでも弓月からの渡来です。弓月君は朝鮮半島を経由して渡来しています。
 
 秦氏の故郷、弓月国(クン ユエ)は中央アジアのカザフ スタン内にあり、東の一部が シンチャンウイグル自治区に かかっています。天山山脈の すぐ北側に位置し、南にはキ ルギスタンが接する。弓月国 はシルクロードの北方ルート 上にあります。バルハシ湖の南、イリ川付近です。弓月国の人々も、万里の長城の苦役に耐え切れず日本へ渡来しまし た。弓月君は120県の大集団を率いての渡来でした。弓月国を発見されたのは言語学の佐 伯好郎氏(早稲田大学名誉博士)です。

『長船町歴史の散歩道』昭和 61 年 長船町教育委員会 P34~38
『邑久郡誌第一編』昭和 48 年 名著出版 P18~21
『秦王国の所在地と秦氏の祖・弓月君の故郷弓月国の考察』丸谷憲二 平成 27 年 6 月

6   まとめ
① 日向石神社が先代旧事本紀に記録されている石上神社です。

② 靭負(ゆきえ)神社祭神の天忍日命(あめのおしひのみこと)は、高皇産霊尊(たか みむすびのみこと)の子で大伴氏の祖先神です。古くから軍事面を担当し皇室につかえ、 大連(おおむらじ)として物部氏と共に朝廷の最高軍司令官を務めました。その下には久 米部、靭負部(ゆげいべ)、佐伯部などの軍事集団がいました。

③ 吉備の諸首長は、壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)に協力して活躍しまし た。壬申の乱とは、672 年(弘文天皇 1)壬申の年 6 月、天智天皇(てんじ)の弟の大海人 皇子(おおあまのおうじ)(後の天武天皇)が、天智の子である大友皇子(弘文(こうぶん) 天皇)を首長とする近江(おうみ)朝廷に対して起こした古代最大の内乱です。

④ 門脇禎二氏(岡山大学教授)は平成 2 年の『岡山県史第三巻 古代Ⅱ』で、「日本古 代史で最大の動乱に拡がった壬申の乱であったが、その波動はほとんど吉備には及ばなか ったらしい。それどころか、この乱に勝利した大海人皇子は即位すると、吉備を国家的重 要地域とする判断をもったらしく、壬申の乱の功臣石川王を吉備大宰に任じた。」と纏め ています。

⑤ 『続日本紀』巻五 第 43 代元明天皇(和銅 3 年(710)4 月~4 年 4 月)に、備前国 関連の名前が地名に残っています。710 年とは平城遷都です。

平城遷都


巨勢朝臣麻呂(岡山県美作市巨勢)
牟佐村主相模(岡山県岡山市北区牟佐)
忌部宿祢(岡山県備前市伊部)
佐伯宿祢百足(岡山県和気郡和気町佐伯)

⑥ 和銅 3 年(710)3 月 10 日は「平城遷 都」の日、つまり奈良時代の幕開けです。
 『続日本紀』には「始遷都于平城。以左大臣 正二位石上朝臣麻呂爲留守。」とだけ記録されています。当時の最高権力者の左大臣・石上麻呂は留守居役として旧都(藤原京)に残 されました。時の天皇は女性の元明天皇(文武天皇・元正天皇の母)です。この遷都を主 導したのは、当時石上麻呂に次ぐ地位の右大臣・藤原不比等といわれています。 ⑦ 『日本書紀』巻第 29 天武天皇にも備前国関連の名前が地名に残っています。第 40 代 天武(てんむ)天皇在位は 673~686 年です。壬申の乱後です。

草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと 岡山県岡山市東区草ケ部)
大田皇女(おほたのひめみこ 岡山県津山市大田)
大来皇女(おほくのひめみこ 岡山県瀬戸内市邑久町)
弓削皇子(ゆげのみこ 岡山県久米郡久米南町下弓削)
新田部皇女(にひたべのひめみこ 岡山県津山市新田)
佐伯連廣足(さえきのむらじひろたり 岡山県和気郡和気町佐伯)
田井直吉麻呂(たいのあたいのよしまろ 岡山県玉野市田井)等々。

 吉備大宰石川王は天武 8 年(679)吉備で病死し所縁の地名はありません。
壬申の乱の犠牲者、当磨公広嶋(たざまのひろしま)は吉備国初代国主ですが在任中に 壬申の乱(672 年)が始まり、募兵に来た近江朝廷の使者樟ノ磐手に惨殺され所縁の地 名はありません。
伊福部連(いふくのむらじ 岡山県岡山市北区伊福町)等々です。

⑧ 昭和 54 年発行の『真備町史』は、壬申の乱での吉備の諸首長の対応を門脇禎二説の 逆説で説明しています。『真備町史』は、「吉備国国司当磨公広嶋(たざまのひろしま) が大友皇子方によって殺されたため、壬申の乱(672 年)に際しては、吉備国は大友皇子 側についたと推察される。壬申の乱は大海人皇子(おおあまのおうじ)方の勝利に終わった のである。このため、乱後、天武天皇は、壬申の乱に際して自分の敵になった吉備国に対 して重大な処置をおこなったのである。即ち、吉備国を分割して、吉備前国(のち備前 国)、吉備中国(のち備中国)、吉備後国(のち備後国)の三国となし、中央政府の統治 しやすいようにしたのである。吉備国の分割の年代は 673 年(天武天皇二年)のはじめ頃であったと推定される。」「673 年はじめて、吉備前国、吉備中国、吉備後国ができ、そ れぞれに国司が任命されたのであるが、吉備地方の重要性にかんがみ、天武天皇は吉備三 国を上から統括する吉備太宰を置いているのである。九州諸国を大宰府が統括したごと く、吉備三国を吉備太宰が支配したのである。」と。
 地名学から『岡山県史第三巻 古代Ⅱ』の門脇禎二説は間違いであり、真備町史説が正 しいと断定します。

⑨ 平成 27 年 12 月 6 日の講演「ヤマト政権の中心に立ち続けた吉備」で関裕二氏は、 「左大臣・石上(物部)麻呂は、右大臣藤原不比等の陰謀によって失脚し、こののち日本は、藤原氏だけが栄える世の中に変貌していくのである。」と話されました。

⑩ 石上(物部)麻呂(640~717)縁の地が石上郷です。676 年に 37 歳で新羅に派遣さ れるまでの経歴は不明ですが石上郷におられたと考えます。石上郷が最も栄えた時代は壬 申の乱前です。

7   参考文献
①『ヤマト政権の中心に立ち続けた吉備』関裕二 平成 27 年 12 月 6 日講演
②『古代史Ⅳ 謎解き紀行 瀬戸内編』関裕二 2007 ポプラ社 P82~85・178~247
③『もう一つの日本史 闇の修験道』関裕二 2015 KK ベストセラーズ P184~217
④『岡山県史第三巻 古代Ⅱ』門脇禎二 平成 2 年 岡山県 P168~172
⑤『歴史の旅 壬申の乱を歩く』倉本一宏 2007 吉川廣文館 P2~3
⑥『壬申の乱 増補版』直木孝次郎 2000 塙新書 P310~311
⑦『戦争の日本史 2 壬申の乱』倉本一宏 2007 吉川廣文館 P109~111
⑧『岡山市史 古代編』昭和 37 年 岡山市役所 P242~243
⑨『真備町史』昭和 54 年 真備町 P109~111
⑩『終末期古墳と大谷一号墳 被葬者は吉備太宰か』1996 北房町教育委員会
⑪『大多羅の謎』平成 31 年 4 月 8 日 丸谷憲二
⑫「讃岐神社 竹取物語」『ぶらり かつらぎ』葛城広域行政事務組合


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