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剣神社縁起(越前国二の宮)と備前国

1   はじめに

 越前国二の宮 剣(つるぎ)神社縁起に「備前国」との関係が推定される記録があります。

剣(つるぎ)神社(福井県丹生郡越前町織田)の備前国関連記録、
① 伊部臣(いんべのおみ)・伊部郷、
② 忍熊王、
③ 備前国武煬氏 です。
 剣神社と備前国との関係について調査結果を報告します。

2  剣神社縁起の備前国関連記録
 越前国二の宮 劒神社の祭神は、素盞嗚大神、(配祀)氣比大神・忍熊王です。

剣神社
劔大明神略縁起(鎌倉時代後期)

2.1   伊部臣・忌部氏
 劔神社の創祀については、第七代孝霊天皇の御代に、伊部郷の北に聳える座ヶ岳の峰に 素盞嗚大神を祀り、その後、第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣が鳥取川上宮で造られた 千口の劔の一口を戴き御霊代として祀り、「劔の大神」と称えられてきたとあります。
 劔大明神略縁起の「天利剣尊の御供申忌部宿祢」、縁起を記述された嘉暦三年(1328)神主 忌部正統、永禄六年(1563)神主 忌部正長に注目しました。

2.2   忍熊王
 神功皇后摂政のころ、第十四代仲哀天皇の第二皇子・忍熊王が素盞嗚大神を現在の織田 の杜に遷されたことを、座ヶ岳の故事として伝えています。
 忍熊王は瀬田川の戦いに敗れて越前国に入られ、敦賀から海を渡って梅浦に到着されました。 そこで良民が賊に苦しめられていることを大変哀れみ、その賊の討伐に立ち上がられました。 悪戦苦闘することたびたび、ついに疲れのために大木の洞穴で身を休めていると、霊夢が あって「皇子努力せよ。我今なんじに霊剣を授くべし。我はこれ素盞嗚神なり」と。
 ほど なく座ヶ岳で伊部臣という者から神剣を受けられ、この地を無事治める事ができました。忍熊 王は織田の地に社殿を営み、この神剣を素盞嗚神の御霊代として祀り、民を導き地方開発 に力を注がれました。しかるに惜しくも若くしてお隠れになられたので、郷民はその恩に報い るために神として祀ることとなりました。すなわち忍熊王を素盞嗚神の再来と敬い、お二方を 一座の大神と拝することとなりました。

2.3  備前国 武煬氏の記録

劔大明神縁起
 往古人皇十六代応神天皇(在位 270~310)の御宇に、異国の兵船西海に襲来す、勇士あり武煬と号す、時に皇子の中に勇武にして力抜萃なる先立の剣尊が、八百 萬 神 等を率い武煬の館に向い軍兵と戦い給う、其の時剣命の御手鉾虚空を飛行し敵煬の心に中(あた)り 忽(たちまち) 死す、其の時帝叡感(えいかん)在り劔大明神と号し給へり已上。

織田劔大明神記録
 人皇第七孝霊天皇治世(在位 紀元前 290~紀元前 215)の御宇に当り、備前国に勇士あり、名は武煬、王命に叛(さむ)き天下を奪わんと欲す、即ち勅して笥飯大神に征罰せしむ、劔の大神先そむ駆して八百萬の神を率い、煬の館を囲む、煬も亦矛(ほこ)を横たえて出戦す、其の時劔大神の手鋒自ら飛びて煬の心(しん)を串し、煬立所に死す、其の時帝勅して劔大明神を以て、北陸道守護 神と崇め奉り宣旨を給う、

織田劔大明神記録
 ときに又異拝の鬼霊怒を残し村人を悩ます、王子是を哀み鬼主武煬の天心を祠れば、即ち伽は永く 性 を下す、之れに依り鬼衰えて止む云云、

劔大明神略縁起
 武煬と云勇士有りて天下を奪と諸賊蜂起し則足仲彦尊征罰し給ふ、先陣立天利剣尊一百八 十一神を率し武煬が館を囲む、煬は亦才横得て出て相戦時に、天利劔尊御手鉾自飛て忽武 煬が心を串く、煬立所に死す云、

劔大明神略縁起
 異国鬼旲残怒村民を悩天利尊是を哀て鬼主武煬祠りて果性を下し依て鬼魂哀止、

 織田劔大明神記録のみに「備前国に勇士あり、名は武煬」と備前国との記録があります。 劔大明神縁起は応神天皇(在位 270~310 年)の御宇、織田劔大明神記録は孝霊天皇治世(在 位 紀元前 290~紀元前 215 年)の御宇とあり、年代が異なります。

3  備前国の記録
3.1   伊部・忌部
 インベという地名は、『和名抄』に 4 箇所あります。
① 出雲国意宇郡忌部、
② 紀伊国名草 郡忌部、
③ 阿波国麻殖郡忌部、
④ 越前国敦賀郡伊部です。
 忌部氏は中臣氏と共に古 代の皇室祭祀に奉仕してきた氏族です。忌部氏は祭祀に必要な物資を貢納する部民とし て各地に忌部を持っていました。しかし、中臣氏のような政治力がなく中臣氏の支配を受ける ようになりました。 現存する「インベ」地名は、4 箇所です。
① 岡山県備前市伊部、
② 島 根県松江市忌部、
③ 奈良県柳原市忌部町、
④ 徳島県麻殖郡山川町忌部です。

3.2   忍熊王
 和気神社(岡山県和気郡和気町藤野)の和気氏由緒『日本後紀』に、忍熊王(おしくまおう)の記録があります。第 11 代垂仁天皇の皇子で和気氏の始祖。鐸石 別 命(ぬ で しわけのみこと) の曾孫である弟彦王(おとひこおう)は、神功皇后に反逆した忍熊王を和気関に滅ぼした功により、藤 原 県(ふじわらあがた・岡山県和気郡)を与えられ土着しました。
 その弟彦王を祖先とする和気氏は備前・美作両国に栄え、その 12 代後裔が和気清麻呂 公・和気広虫姫です。和気由加神社(岡山県和気郡和気町大田原)に「忍熊王」の石碑が昭和 14 年に建立されました。藤原郡の役所跡(岡山県和気郡和気町太田原字藤原)と推定されている王子社(由加神社境外末社)に弟彦王(おとひこおう)と忍熊王(おしくまおう)の石碑があります。
 和気関(岡山県備前市 三石)に弟彦王が忍熊王の叛乱を防いだ地として「史跡 和気之関跡」の碑が昭和 61 年に 建立されています。

3.3  武煬氏と武用氏
 備前市の電話帳による調査結果は、備前市香登に武用氏がおられます。
備前市香登本に武 用氏は 17 軒・備前市大内に 1 軒です。これまでの武用氏関連調査では、越前国との関連 は発見できませんでした。

4  考察
4.1   伊部(備前)焼と忌部神社
 福井県では伊部(いべ)と読むが、岡山県の地名は伊部(いんべ)と読みます。越前焼発祥地の越前町(旧織田町)に伊部氏が居られ、備前焼(伊部焼)発祥の地が備前市伊部です。
 鎌倉、室町時代に、熊山・伊部・浦伊部の山中にあった多くの窯が、室町時代の後半に なると平野近くに降りてきて、少数の大形の窯を共同で使用するようになり、室町時代~ 桃山時代ごろに南・北・西の三大窯が成立しました。北大窯跡は不老山山麓に位置し、4基の 窯跡が認められます。
1基は天津神社(備前市伊部)から忌部神社(備前市伊部 629)への上り 道の途中にあり、他の3基は忌部神社北西の雑木林斜面に、ほぼ並行して築かれています。

4.1   忍熊王
 忍熊王伝承について剣神社縁起の内容は『古事記』、『日本書紀』とは異なっています。『古事記』『日本書紀』の記録を確認します。麛坂皇子(香坂王、麛坂王)が猪に襲われて薨去し の猪とは和気氏の比喩です。

拝殿前の狛亥
和気神社

 忍熊王(都留伎日古命・おしくまのみこ)(第 14 代仲哀天皇第二皇子)。
 新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后が筑紫で誉田 別 尊 (後の応神天皇・ほ む た わけのみこ)を出産としたとの報に接した忍熊王は、次の皇位が幼い誉田別尊に決まることを恐れ、兄の麛坂皇子と共謀して、筑紫から凱旋する神功皇后軍を迎撃しようとしました。
 忍熊王は仲哀天皇の御陵造営のためと偽り、播磨赤石(明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅かごさかのみこ宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰)を将軍として東国兵を興させました。ところが、菟餓野(兵庫県神戸市灘区の都賀川流域)で反乱の成否を占う狩を行った際、麛坂皇子が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退しました。
 神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸しました。こうきょ皇子軍は更に退いて菟道に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后 軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢坂にて敗れました(『書 紀』。『古事記』のこの戦闘場面に武内宿禰は登場せず、全て武振熊の功績としています)。逃げ場 を失った忍熊王は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身しました。その遺体は数日後に菟道河 から発見されました。

4.3  武煬氏の煬
 煬という特殊な文字を使用しています。「煬」という文字の使用例は極端に少ないです。「逸周うじ書・謚法解」に「礼を去り、衆を遠ざけるを煬という」とあります。煬は隋の煬帝(569~618)に代表されます。12 世紀に成立した高麗の正史『三国史記・高句麗本紀』に隋の煬帝(ようだい)の記録があります。北方に強盛を誇った突厥や西方の吐谷渾を討ち、また突厥(とっけつ)と結ぶおそれのあった 高句麗に三度遠征しています。聖徳太子の遣隋使は煬帝のもとへ派遣されました。

4.4  不老山
 福井県丹生郡越前町織田に不老山公園があります。越前町織田地区は、北方には越知山、南西 に城山、東には不老山などの連峰が周囲を かこみ織田盆地を形成しています。
 備前市の JR 赤穂線、伊部駅の東に田井山、南に龍王山、北に不老山、北東に高山があり、 さらに駅北の不老山の西方に医王山、宮山があります。
 越前町織田には不老山があり、岡山県 備前市伊部にも不老山があります。

5   まとめ
5.1  越前国と備前国
 劒神社に氣比大神と忍熊王が並祀されています。備前国の和気氏にも忍熊王伝承があります。 これは、応神天皇の新王権擁立に備前国和気氏が関与した記録と考えます。

5.2  鳥取川上宮と備前国赤坂郡鳥取郷  石上布都魂神社
 劒神社縁起に、「神功皇后 13 年(213)2月、忍熊王は都を去り越の国に入り、角鹿(敦賀)の海を渡って梅浦に着き、当地を害する梟賊を討伐せんとして霊夢を見、五十瓊敷入 彦 命(い に し き の いりびこのみこと・第 11 代垂仁天皇の第一皇子)が鳥取川上 宮(ととりがわかみのみ)で作った剣を、伊部臣(やいべのおみ)が座ヶ嶽の山頂に祀っていたものを得て、賊を平定。忍熊王は、神剣を素戔嗚尊の御霊代(みたましろ・御身体)として奉斎し、この地に社を設けた。後、郷民が忍熊王の偉業を称え都留伎日古 命 (つ る ぎ ひ こ の みこと)として慕い奉り、父神 の気比大神と共に配祀した。」とあります。鳥取之川上宮とは、備前国赤坂郡鳥取郷(岡山県赤磐市赤坂町)にある石上布都魂神社(いそのかみふつみたま・岡山県赤磐市石上字風呂谷)と考えます。鳥取(ととり)とは、古代、白鳥を捕らえて朝廷に献上する「鳥取部」の居住地です。石上布都魂神社の現在の祭神は素盞嗚尊です。
 明治時代までは素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った「布都御魂」でした。この剣は、古事記では「十拳剣」、日本書紀には「十握剣」「蛇の麁正」「韓鋤の剣」「天蠅斫」とあります。「布都御魂(ふつみたま)」は物を切断する「フツ」という音。「十拳剣」「十握剣」は、その長さを表わし長剣でした。「麁正」 「韓鋤」は半島からもたらされた剣。「天蠅斫」は蛇を斬った剣の意味です。その剣で八岐大蛇を斬った時、その尾から叢雲剣が現われ、三種の神器となりました。崇神天皇の御代に、 その剣は大和国石上神宮(奈良県天理市布留町 384)へ移されました。

石上布都魂神社 奥の院
石上布都魂神社

 『記紀』に五十瓊敷入彦 命 (垂仁天皇第二皇子)が一千口の剣を作ったとある。五十瓊敷入彦命(い に し き い り び こ の みこと)が太刀を千振り作ったのは、「記」では鳥取の 河 上 宮、「紀」では茅渟の菟砥(と と り)の川上宮( かわかみのみや)とあります。鳥取も菟砥も、『和名類聚 抄 』は和泉国(大阪府阪南市)としています。この作刀に携わったのが川 上 部です。『和名類聚 抄(わみょうるいじゅしょう) 』とは承平年間(931~938)に 源 順(みなもとのしたごう) が 編纂した辞書です。

5.3  川上摩須良王

金銅装双竜環頭太刀

 『久美浜町誌』(京丹後市久美浜町)に、川上摩須良王(かわ か み ま す ら お う)系図が収録されています。王者の谷(京丹後市久美浜町須田)に住んだ川上摩須良王(かわ か み ま す ら お う)。川上摩須良女は、丹波の平定を命じられた大和王朝の王族丹波道主命と結婚し、その子比婆須比売は垂仁天皇の皇后となり景行 天皇を生みました。 昭和 56 年(1981)10 月、川上地区須田・伯耆谷古墳群の湯舟坂2号墳から、「金銅装双竜環頭太刀(かんとう た ち)」(2例目)が出土し「国の重要文化財」に指定されました。

6  謝辞
 剣神社縁起に備前国武煬氏の記録を発見したのは平成 22 年 8 月 13 日です。東京都立 中央図書館(東京都港区南麻布)で備前国と越前国との関係を文献調査しました。三井勝生 先生(前靖国神社権宮司)と靖国神社でお会いする直前です。先生に「剣神社を訪問した い」とお話したところ、「私の紹介として訪問したら」との教示を戴きました。 
 剣神社の田中範 夫宮司にご指導戴いたのは、平成 22 年 10 月 23 日です。ご説明いただいた後で村上雅紀 先生(越前町織田文化歴史館)をご紹介いただきました。越前焼については田中照久先生(福井県 陶芸館)に平成 22 年 11 月 13 日に、備前市伊部にてご教示戴いた。備前市の武用氏調査は延原勝志先生(備前焼作家)に依頼しました。

7   参考文献
①『年表で見る越前若狭の古代』小辻幸雄 1980 フェニックス出版
②『織田町史 史料編 上巻』平成 6 年 織田町
③『越前 二の宮 剣神社』http://tutuji.com/tsurugi/
④『和気神社』http://ww36.tiki.ne.jp/~wakeasomi/
⑤『越前 二の宮 剣神社の歴史』編纂 水島通夫 平成 22 年 3 月 剣神社
⑥『織田町史 史料編 上巻』平成 6 年 織田町
⑦『気比さんとつるが町衆 気比神社文書は語る』平成 20 年度特別展 敦賀市立博物館
⑧『没後 1200 年記念展示 和気清麻呂』平成 10 年度企画展展示目録解説 和気町歴史民 俗資料館
⑨『和気清麻呂』岡山県和気郡和気町
⑩『川上神社の古代文字「絵文字」の考察』丸谷憲二
⑪『日本古典文学大系 67 日本書記上』昭和 42 年 岩波書店

平成 23 年 10 月 06 日 寄稿

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