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八塔寺の皇位継承地名「三種の神器」の由来調査報告(備前市吉永町)

1      はじめに
 八塔寺ふるさと村の「加賀美、都留岐、多摩」地名は、角川日本地名大辞典に「三種の神器にちなんで名付けられた」とあり、京都の鈴木超世志氏(串呂哲学研究会主宰)より調査依頼があり町名の由来を調査しました。※    『角川日本地名大辞典33岡山県』 1989年 角川書店

2 「三種の神器」地名「加賀美(鏡)・都留岐(剣)・多麻(玉)」の地名の成立年
 「三種の神器」とは、八咫鏡(やたのかがみ)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。

2.1 多麻(たま)、加賀美(かがみ)、都留岐(つるぎ)村の成立は、明治8年(1875)の村統合。

都留岐村 ← 大藤村、大股村

加賀美村 ← 八塔寺村、下畑村

多麻村  ← 滝谷村、東畑村

笹目村   ← 牛中村、飯掛村

明治22年(1889年)の町村制施行で、三種の神器の村を集めて三国村が成立。

三国村   ← 加賀美村、多麻村、都留岐村、笹目村

※    『岡山の街角から』・・・TOP備前県民局エリアの地名の由来>備前市吉永町多麻、加賀美、都留岐
※    『岡山県の地名』1988 平凡社 p352~p353 
※    【290】滝谷神社 吉永町多麻 ① : 京極の酔生夢死日・・・2016年12月22日

3  八塔寺は、古儀真言宗から元和年間(1615~1624)天台宗に改宗・・・「加賀美村誌」

3.1 恵日山高顕寺(備前市吉永町加賀美1220−1) 

神亀5年(728) 聖武帝勅願にて弓削道鏡建立・・古儀真言宗
天平年中(729~749) 鑑真和尚開基。
本尊 不動明王(伝定朝作)。
毎年1月15日境内前広場の大護摩供養は有名
火渡りの荒行も行われる。
※ 『高野山真言宗 備前お寺めぐり』 昭和63年 高野山真言宗備前宗務支所 p13~p14

3.2 照鏡山八塔寺(備前市吉永町加賀美1212)

神亀5年(728)聖武帝勅願にて弓削道鏡建立
天平年中(729~749) 鑑真和尚開基。
元和年間(1615~1624)天台宗に改宗
本尊 十一面観音(伝行基作)
境内裏の首なし地蔵は乳の出に霊験があり、
池田光政(岡山藩初代藩主)が梵鐘鐘楼を寄進(現存す)。
※    照鏡山八塔寺|観光スポット | 岡山観光WEB【公式】- 岡山県の観光・旅行情報ならココ!
※    『吉永町史 資料編』 昭和59年 吉永町 p1084~p1087

 3.2.1 照鏡山八塔寺と日吉神社

 祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神です。
大山咋神は大きな山の所有者の神を意味し山の地主神です。
 照鏡山八塔寺が元和年間(1615~1624)に天台宗改宗後の鎮守で山王権現です。日吉大社滋賀県大津市坂本)が総本宮です。
もう一つの日吉神社の祭神は大山咋神のみです。
※    https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1606114.html
※    『千次神社と中世の地主山王権現』 丸谷憲二 令和6年10月8日
※    「加賀美村誌」『吉永町史 資料編』 昭和59年 吉永町 p1084~p1887

 4 岩戸神社と天石門別神社

「加賀美村誌」に岩戸神社が収録されていますが、岡山県神社庁にはありません。
岩戸神社の祭神に注目し、思金神、手刀雄神、天児屋根命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命を國學院大學 古典文化学事業にて確認しました。

 思金神 おもひかねのかみ おもいかねのかみ ○
 高御産巣日神の子。天の石屋の段で、八百神が天安河原に集まって天照大御神を石屋からおびき出す計画をした際に、思慮の役割を担った。
 葦原中国の平定の段では、高御産巣日神・天照大御神の諮問に応じて、葦原中国に派遣すべき神を諸神とともに協議し、意見を進言した。
 天孫降臨の段では、邇々芸命の天降りに際して、八尺の勾璁・鏡・草那芸剣や手力男神・天石門別神とともに付き従い、また、天照大御神の命によって政事を請け負って、伊須受能宮(後の伊勢の内宮)を拝祭した。

手刀雄神 あめのたぢからをのかみ
 天の石屋・天孫降臨段に登場する神。天石屋戸に隠る天照大御神の御手を取って引き出し、邇々芸命の降臨に随伴した。

天児屋根命 あめのこやねのみこと あめのこやのみこと
 中臣連等の祖。天の石屋・天孫降臨段に登場。天の石屋段には天照大御神を天石屋戸から招き出すために布刀詔戸言を申した神。天孫降臨では五伴緒として番能邇々芸命に随行する。

布刀玉命 ふとたまのみこと
 天照大御神が石屋に籠り、災いが起こった時に、八百万神が天安河原に集まり、石屋から招き出す計画をした。その際、布刀玉命は、占いと祭具の製作を天児屋命とともに行い、また、天照大御神を招き出すのに、その祭具をふと御幣として取り持つ役割を負った。
 天照大御神を天石屋戸から引き出す際には、尻くめ縄を背後に引き渡して、戸の内に還るのを防いだ。
 天孫降臨の段では、五伴緒(天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命)の一柱として邇々芸命の降臨に従った。忌部首らの祖。

天宇受売命 あめのうずめのみこと
 天の石屋段では石屋にこもった天照大御神を外に招き出すため神がかりをし、諸神の笑いを誘う。また天孫降臨段では天の八衢にいた猿田毘古神の名を顕すとともに邇々芸命の随伴神の一人として登場する。さらに猿女の君段では天降りの先導をした猿田毘古神を送るとともに、その名を負って奉仕するよう命じられたため猿女君と呼ぶことになる。また同段では諸々の魚たちに天つ神御子への奉仕を誓わせ、答えなかった海鼠の口を裂いたともある。

伊斯許理度売命 いしこりどめのみこと ○
 天岩戸開きの祭具製作にあたって鏡を製作。天孫降臨に際しては五伴緒として他の四神と共に日子番能邇々芸命に従って天降りする。作鏡連等の祖と伝える。

玉祖命 たまのおやのみこと ○
 天照大御神が石屋に籠り、災いが起こった時に、八百万神が天安河原に集まり、石屋から招き出す計画をした。その際、玉祖命は、祭具の一つ、八尺の勾璁(やさかのまがたま)の五百津の御すまるの珠の製作を担った。
 天孫降臨の段では、五伴緒(天児屋命・布刀玉命・天宇受売命・伊斯許理度売命・玉祖命)の一柱として邇々芸命の降臨に従った。玉祖連らの祖。

説明 正勝吾勝々速日天之忍穂耳命 まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと
 天照大御神と須佐之男命とのうけい(誓約)において、須佐之男命によって天照大御神の身につけた珠を物実として生み出され、天照大御神の子となった五柱の男神の第一。天照大御神の左のみづらに巻いた八尺の勾璁の五百津のみすまるの珠を、須佐之男命が受け取り、音を立てて天之真名井でふりすすぎ、咀嚼して吐き出した息の霧に成った。
 天孫降臨の段では、葦原中国を統治すべき子として天照大御神の命によって天降りし、天浮橋に立って葦原中国が騒がしく乱れていることを告げ、奏上した。
 高木神の娘の万幡豊秋津師比売命との間に、天火明命と天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命との二神を生んだ。葦原中国が平定されて後、天照大御神・高木神に再び統治の命を受けた際には、代わりに邇々芸命にその任を委ねた。

※    國學院大學 古典文化学事業

 和気町岩戸に天石門別神社があり、地名から摂社と推定します。

天石門別神社(アメノイワトワケ) 和気郡和気町岩戸655

由緒  本神社の創建は不詳であるが、往古天神山嶺上に鎮座していた。天津社と称し、本村岩戸、田土、龍ヶ鼻等の産土神で備前国神名帳(総社本)に天石門別神社とある。山本氏本に正五位下天石門別明神とある。当国百二十八社の一である。天文二年領主浦上遠江守宗景が、この地に城を築くため、神社を山麓即ち現在の所に遷座した。村社、祭神不明
※    天石門別神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

5 皇屋敷の御醍醐帝伝承
 御醍醐帝隠岐国へ遷都事の時、御仮殿を建し場所と口碑に伝ふ。

6 岡山県の三種の神器伝承
6.1 赤間神宮の八咫鏡の石碑

 赤間神宮(山口県下関市阿弥陀寺町)の八咫鏡の石碑に、「第十代崇神天皇から第八十一代安徳天皇まで1276年間歴代皇位継承の三種の神器八咫鏡奉鎮の碑」と書かれています。

 家伝の古文書に家宝が埋められている場所(岡山県英田郡作東町土井天皇谷)を記した一枚の地図を発見、昭和33年7月13日に掘ると、一枚の鏡が発掘され、この鏡は後南朝正統の皇統に代々継承されてきたものと云われています。

八咫鏡発掘並奉献者 春名義雄殿 頌徳碑

 維時昭和三十三年四月七日 赤間神宮に畏くも、天皇皇后両陛下行幸啓御参拝の事あり是より、恰かも百日目の七月十三日、岡山県英田郡作東町土居新町居住の元国鉄美作河井駅長たりし春名義雄氏は、予ねて郷土史研究家として知られ地元妹尾家文書系図等調査中三種神器の一つ八咫鏡の埋蔵文化財の存在を知るに及ぶや正規の手続を経て土地の伝説たりしを現実に発掘するに至る、春名義雄氏は此年九月十三日安徳天皇御入水の地下関市壇の浦に鎮座する赤間神宮大前に奉還を誓いしに、地元住民の一部より八咫の鏡所有権確認請求訴訟を提起される等紆余曲折すること二十有余年、即ち昭和五十三年其の一切を竟り来る昭和六十年五月、安徳天皇八百年先帝大祭を迎うるに当り斯くも生涯を賭したる春名氏の至誠一貫の精神を永代顕彰せんとして謹しみて其由来を明らかにするものなり   
                      昭和五十九年十二月吉日 赤間神宮宮司 水野久直 記

※ 赤間神宮(6)八咫鏡奉鎮の碑、薄墨の松: 源平・義経ゆかりの史跡めぐり  しずかblog
※ 『たださねばならぬ美作の歴史』 霊仁王(流王農) 美作後南朝正史研究会 温羅書房 2002 

6.2 石上布都魂神社の天叢雲剣伝承
 書紀一書に「其の蛇を断ちし剣をば、なづけて蛇之麁と日ふ。此は今石上に在す。」また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記している。
 「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らかなり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されしと見えず。」・・・大沢惟貞説
※    石上布都魂神社|岡山県神社検索|岡山県神社庁

 7 まとめ・・・地名の由来の推定
 「加賀美(鏡)・都留岐(剣)・多麻(玉)」の地名成立が明治8年(1875)です。明治時代の神仏分離令を受けて、「加賀美村誌」著者による岩戸神社の祭神からの創作地名と推定しました。
 創作には皇屋敷の御醍醐帝伝承を考慮しました。伊斯許理度売命は作鏡連等の祖であり加賀美と決め、玉祖命は玉祖連らの祖で多麻と決めました。都留岐(剣)は思金神の草那芸剣からの連想です。明治22年(1889)の町村制施行で、三種の神器の村を集めて三国村と命名しました。

 川崎弘一郎氏の所見(八日市八幡宮 宮司) 11月29日
 岩戸神社についての情報は、残念ながら私は持っておりませんでした。
神社は当時の自治体の合併等に合わせて、他の神社に吸収や合併や移転する場合も有ります。村社と言うのは無社格の神社と比べると粗略には出来ません。現在、近隣に残っている神社の方に、境内末社等で移転や合祀されているのではないでしょうか。現地の神社の境内社を調査すると、岩戸神社が残っているかもしれません。

 片山伸栄氏の所見(備前市観光ボランティア協会会長) 11月29日
 八塔寺の釣鐘は光政さんの奉納ですが、地名の由来は、近年になって当時の村長?町長?が三種神器にちなんでつけられたと聞いてますが、意味は無くだから漢字も違いユニークさを狙ったように聞いてますよ。

令和6年11月28日 寄稿

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