どうも死生観が他人とは違うようです
コロナ禍の頃からだろうか?どうも多くの現代人と私は死生観においてズレが生じているように感じる。
まあ簡単に言えば、わが子にある程度の自我が生まれた時に「まあ明日死んでも後悔はないな」と考えるようになった。これはこれで無責任な考えなのかもしれない。現代的な常識で言えば、子どもが成人したり彼らの所帯を持ったりするまでは金銭その他の責任を負わなければならないのだろう。
しかしもし私が死んで何か困難にぶつかったら、それはそれで深い人生であるとも考えられる。若くして父が死ぬことでこそ学べることもある。結局どんな境遇になっても人はそれを受け止めて生きるのである。
過激な人からは「じゃあ今にでも死ねよ!」と罵倒されるかもしれない。しかしこれには反論できる。「死んでも後悔はないのだが、痛かったり苦しかったりするのは嫌だ」となる。後悔を残さないために一日一日を懸命に生きる。または自分のやりたいことをする。その結果として平均寿命よりも極端に短い人生であっても仕方が無いと受け止められるのである。源義経や坂本龍馬がこの世を駆け抜けた時間はとうの昔に過ぎ去った。もうすぐ織田信長のソレが迫ってきた。彼らとは残した業績があまりに違うとは言え、まあ愉快な時間を40年余りすごさせてもらった。繰り返しになるがだから明日死んでも構わないのである。
ここからはお叱り必至の内容であるが、そんな死生観を持った40代男の戯言だと思って聞いてほしい。
私は先日の風呂場から川に流された5歳児や、石川の施設から飛び出して滝壺で見つかった少年に親が悲しがるのは分かるのだが、一般大衆が悲しむ気持ちがよく分からない。
なぜなら彼らは人生の最後に「自らの欲求」を果たしたからである。「素っ裸で屋外に出てみたら楽しいだろうな」「こんなせまい施設にいるより、山の中を一人で探検してみたい」多くの令和っ子が去勢されて失った純粋な好奇心や冒険心を彼らは満たそうとしたのである。
私も小6の時に習い事のキャンプ中に3人で前夜に示し合わせてキャンプ場を早朝に抜け出して山の反対側まで歩いて行ったことがある。そこにあった集落では老夫婦からおいしい果物を頂き、軽バンでキャンプ場まで送り届けられた。引率者のおじさん先生からは激しく叱られたが、あの3人で藪の中で山を越えた経験は一生の宝物である。あの好奇心や冒険心が昨夏の仲間内での「深夜知多半島一周ラン」や4月の「渥美半島ネイチャーラン大会」への出場に繋がっている。
好奇心や冒険心は諸刃の剣でもある。失敗したらケガや命を失うリスクがある。ただそれは当然である。草食動物が丘を越えて肉食動物と出会ったらまあ終わりである。クマが人里に出て冷蔵庫を漁ったら射殺される。キノコやフグを食べたら死ぬのも同じである。何か事を成すことは常に命のリスクと隣り合わせだ。だから人生は楽しいのである。
現代は死がやたら遠いものになった。忌むべきものになった。それでいて引きこもったり寝そべり続けたりする行為を好む人が増えている。そんな生活は何も命を燃やしていないではないか?と思う。命を燃やさないのであれば死んでいることと変わらないと感じる。ここに死生観のズレを感じるのである。
今日も多治見、郡上八幡、豊田が40℃を超える中、岡崎レッドタイヤモンドスタジアムまで享栄と中京大中京の試合を長男の友人を連れて見に行った。多分球場周辺も40℃程度であっただろう。でも屋外で今年の愛知県のベストマッチと言える試合を堪能した。当然夏期講習中なので午前には授業を行い、夕方からもまた授業を行った。朝は早く起きてカレーライスを作り7㎞だけ走った。全部「自分がやりたい」からである。そして次男は隣の家の方の庭のプールで3時間ほど遊んだと聞いている。4家族の子どもたちが集まったようで、親がいない中で預かってもらえる関係性は本当にありがたい。

何年も今日のことを語り続けることができます

大藤監督率いる97年春のセンバツの際の主将が中京大中京の高橋監督
中京3番の荻田と享栄4番の坂本は中学時代同じチームで全国制覇
様々な伏線のある試合を31年ぶりの出場を目指す享栄が制しました!
さて、猛暑が続くようでまたマスコミや世間は「リスク回避」を連日叫ぶフェーズでしょう。適当に受け流してやりたいように過ごすようにします。それが「命を大切に」することだと私は信じているので。
