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#シロクマ文芸部 青い雨 特急あずさの旅

青い雨に会いに一年に一度、私は上高地への小さな旅に出る。
六月の今にも泣き出しそうな空の中、新宿から松本行き特急あずさ25号に乗るために、中央線10番ホームに立っていた。
特急あずさは窓枠が大きく、この先の景色を楽しむために
私は左側の窓際の席に座った。

新宿のビル群の間を徐々に加速しながら都会の喧騒を逃れるように列車は八王子へと向かう。交差した線路の操車場を眺めながら東京の匂いを一枚ずつ脱ぎ捨てるように身が軽くなっていく。前方に高尾山が見える、住宅地を
抜けた辺りから、自宅でたれたコーヒーを取り出し、コップに注いだ。
コーヒーの香りと共に体が解れていった。

私は上高地に向かうようになって10年になる。きっかけは10年前に亡くなった、恋人の言葉からだった。
「この仕事を最後にするよ、帰って来たら籍を入れよう、待っていてくれ」
彼は戦場カメラマンだった。仕事の依頼を受ければどこまでも行かなければならない。勿論無事で帰ってこれる保証はない。私との結婚を控え、きっぱりと足を洗うことを約束してくれていた。
「この仕事が終わったら、六月の上高地に連れて行くよ。河童橋の近くのホテルに泊まって、朝靄に煙る大正池を一緒に見よう。新緑と池の水が合わさり全てが蒼に染まる風景を君に見せたいんだ」

それが最後の言葉だった。

事件が起きたのは、日本に帰る前日のことであった。依頼を受けた写真をカメラに収め中東の街を歩いているとき近くで銃声がした。カメラマンの悲しい性なのか咄嗟にカメラを持ち銃声の方へ駆けだしていた。突発的な暴動が起きていた。夢中で連写していると、暴動を起こしている若者の目に留まり、至近距離で撃たれたのだ。
呆気なかった、普段は危険を回避する勘のようなものが働くのに、油断していた。
依頼されたフィルムは中東戦争の臨場感を極め、それていて物悲しさも伝わってくる、彼の代表作となった。

だが、ひとり私は残された

私は車窓から家並みが消え、鬱蒼とした木々の間をくぐり、トンネルを幾度か過ぎるうち、過去の出来事が走馬灯のように後方に流され飛んでいくのを感じていた。
鉄橋を越えると前方に南アルプスの山並みが見えてきた。葡萄畑が線路沿いに広がる甲府盆地にさしかかった。人も車も時が止まったかのようにゆっくりとしている。心が豊かになるとはこの様な土地に根付いている人達の事を言うのだろう。
山深く分け入り、谷間を抜け特急あずさは時速100キロの速さで山の裾を縫うように走りやがて北アルプスと穂高連峰の山々に囲まれた空も土地も広々とした松本に着いた。
電車とバスを乗り継いで上高地に着いたのは午後5時を過ぎていた。
そのホテルは何十年も変わらず木々の中に優しく佇んでいた。重厚感もあり老舗ホテルの外観をようしているが、赤い屋根が訪れる人を笑顔にする愛らしさだ。
支配人が私を見るなり、歩み寄ってきて「お帰りなさい」と軽く会釈をした。お帰りなさいと言われるほど私はこのホテルを愛していた。
部屋に荷物を置き、レストランに向かうと、部屋の中央に薪が赤々とゆらぐラウンド型の暖炉があり天井から吊り下げられた釣り鐘状のダクトは私の悲しみを優しく包んでくれる父親のような存在になった。
夕食の席に着くと、私の向いにも同じようにカトラリーが並べられ、グラスに水が注がれた。独りで淋しくないように、彼がそこに居るように、支配人の配慮からであった。

数日前、私は彼の夢を見た
「雨はもう上がりそうだよ、朝日が昇り何もかもが新緑のきらめきで湧き立っているよ、さぁ、もう後を振りむくことはもう終わりにしないか、
前に向かって光の方へ歩き出せよ」
彼は笑顔で私に語りかけた。
私の中で何かが吹っ切れた。
もうこの旅はこれで最後にしようと、

明くる朝、私は小鳥たちの囀りで目を覚ました。朝食前に近くを散策した。
朝靄の中の新緑は葉の葉脈に水滴を付け宝石のように美しく輝いていた。
今年は青い雨とはいかなかったが、河童橋の下を流れる梓川の瀬音も優しく陽の光を集めて辺りは神々しさを放っていた。
食事も終わり、ホテルを離れる時間が迫っていた。
支配人は言った
「ゆっくりされましたか、
来年もご予約されますか」
私は晴れやかな顔で
「今年で最後にします。過去はもう振り返りません。その代わり未来の人とまたこのホテルに帰ってきます。 
必ず、約束します」

 
支配人はすべてを悟ったのか
「お待ちしております」
と和やかな顔で応えた。

青い雨は過去の人と出会え幽玄の世界に私を優しく引き込んでくれた。
悲しみも孤独も青いベールに包み込み私を癒してくれた。

でも、もう心の中にしまってしまおう。
そう誓って、私は上高地を後にした。

終わり

#シロクマ文芸部
#青い雨
#特急あずさ
#上高地






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