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短編小説『不思議な店のアリス』


 給食を食べ終わったら、昼休みだ。今日の献立、大人気のカレーのにおいは、各教室で余韻を残している。ほとんどの生徒はボールを持って体育館に行ったり、グラウンドに出て走り回ったりしている。大人しい子であっても本を読んだり、気の合う友達と話して過ごしている。
 休むことなくかき混ぜられる空気の中で、真希は職員室の前にいた。

「失礼します」

 ドアを開けると、職員室の中にもカレーのにおいがたちこめていた。担任クラスを持たない先生は、ここでご飯を食べるのだろう。なんとなく、カレーは子供のための食べ物だと感じていたけれど、大人になっても美味しく食べるのだろうか。真希は母がカレーを作ったり食べたりしているところを見たことがなかったのだ。
 真希は職員室内を一瞥し、担任である森の位置を確認した。場所を知らないわけじゃない。これまでなんども、森の席に赴いた。タイミングが悪く森はいない、そんな偶然を真希は心のどこかで期待していた。でも、赤く淵の太い眼鏡が目に入って、すぐに視線を外した。
 席までは、一分もかからない距離なのに、真希の中では五分ほどかけて森の前に立った。他の先生が、気にする様子はほんの少しも見られなかった。

「あぁ、きたか。まぁ、座れよ」

 無理が指さしたパイプ椅子に、腰を下ろした。いつ覚えたのかもわからないけれど、スカートをお尻の下で整える。

「心当たりは、あるよな?」

 片目だけをこちらに向けた森は、楽しそうにすら見える。自分たちよりも圧倒的に力が強いと知っているから、出る表情だ。
 真希は頷く。

「そうだな。そうでないと困る」

 森は真希とは反対を向いて、空咳をした。そしてじっと、真希の目を見た。引き出しの中から出してきた、三枚の紙を渡す。

「これまで溜めてきた、宿題。それと提出物。黒板に貼ってある、名前も真希のだけ足りないんだよ」

 宿題や提出物を忘れた人は、黒板の角に名前の書かれた磁石が張り出されるようになっていた。真希の名前は既に五つ以上あり、挙句の果てにチョークで名前が書かれている。
 真希は出された紙を眺める。めくることはせずとも、夏休み並みの宿題が溜まっていることは確かだった。

「なんでやらないんだ? 時間がないのか? ゲームでもしてるのか?」

 真希は何も言わない、言うことがない。
 森のため息が真希の髪を揺らし、鳥肌が立つ。

「昨日は何してた? 学校に帰ってからしたこと、時間も全部、言ってみろ」
「えっと……、昨日は家についたのが、四時前で手を洗ってから、おやつを食べました。それから、テレビを見たり、音楽を聴いたりしていました」

 いったん考えるために間を開けると、森は「それで?」と催促する。

「それで、えっと。お母さんが返ってくるまで、宿題してました。お母さんが返ってきたのは、七時過ぎだったと思います。ご飯を食べてお風呂に入って、宿題の続きをしたけれど、終わらなくて、寝てしまいました」

 真希の目に涙が浮かんでいた。悲しい? 怖い? わからない。自分が自分を理解できない。

「しっかりしないと、ロクな大人にならないぞ? 最後のチャンスだ。いつまでに、この宿題を全部出せる。いま決めて、しっかり守れ。もし守れなかったら、もう知らん。俺はお前を見捨てる」

 そう言われ真希が口にした期限は、夏休みまでの期間、残り二十日だった。

 真希がもう学校には行きたくないと母に伝えたとき、母は「あっ、そう」としか言わなかった。ろくな大人、真希は自分がその道から外れ始めているのだと自覚した。でも、自分のまわりにろくな大人がいないという環境からか、それほど抵抗はない。わかっていたことだ、私という人間は失敗作なんだと。


 初めてだった。暑さを感じずに、夏が終わろうとしているのは。
 自分はバカなのかもしれない、そう感じ始めたのは小学校二年生のころだ。何度も練習して覚えていく九九が、全く頭に入ってこなかった。漢字ドリルのマスが埋まらない。どれだけ同じ字を書いても、お手本を見て書かないと、正しく書けなかった。百ます計算を埋めたことも、漢字テストや計算テストで合格点を取ったこともない。そんな学校生活でも自動的に学年はあがる。教室が変わっても、クラスメイトが変わっても、真希に学校の居場所がないことは変わらなった。
 八月が終わると、窓のそとから聞こえる蝉の声は、幾分静かになったようだ。
 母の帰ってくる音がする。玄関が閉まり、数歩歩いて、真希の部屋の戸を開けた。
 光のない目と視線が重なる。蒸し暑い日が戻ったような気まずい空気が一瞬流れ、どうでもいいというふうに、母が言った。

「今度の日曜に会わないかって」

 数秒、何のことかわからなくて、混乱する。でも母がこう言うのは、ひとつしかない。

「お父さん?」
「会うなら、そう言っとくけど」
「少し……、考える」
「いま言って!」

 母の声が急に大きくなり、母以外の声を最近聞いていない真希の体は、びくりと跳ねた。

「いく」

 反射的に、口を突いて出てしまっていた。母は返事を聞くと、何も言わず戸をしめた。
 本当は行きたくない。父が嫌いだとか、会いたくないだとか、そんな理由ではない。ただ、外に出たくないだけだ。
 真希の両親が離婚したのは、真希が小学一年生の頃だった。原因はよく知らない。特別好きな父でも母でもなかったから、片方がいなくなろうとそれほど関心がなかった。それでも当時は、学校の友達と仲良くなっていくことで、どうしても仲の良い両親が羨ましく見えてしまう時間もあった。時間の経過と共に真希の精神年齢が上がっていくと共に、何も思わなくなっていったのだが。
 今の自分を知ったら、父は何を思うのだろう。会ってしまったら必ず訊かれる学校のこと。真希は日曜まで、父に言うセリフを考えた。
 父に会うのはどれだけぶりだろうか。去年は会っていない。一昨年は……、覚えていない。

「暑い」

 校長先生なら、長い話の前に残暑をお見舞いする頃だろう。真希にとって、今年初めて、夏を肌で感じる日だった。日曜日のため人は多かった。自宅マンションから、徒歩でバス停に。大げさに揺られて二十分ほどで駅につき、電車で四駅を移動した。たったそれだけの移動なのに、クラクラしてくるのは気のせいではない思う。肌着が背中に張り付いて、気持ちが悪い。

「真希」

 集合場所で声をかけられる。真意のわからないアート作品の前で、真希は踵を返す。

「お父さん」

 父は仕事の服だった。今日は作業着だから、外の仕事だったのだろう。汗だくでドロドロの父が来てしまったら即帰ろうと思っていたが、実際そうではなく安心した。もしかしたら真希との面会の後に、仕事に向かうのかもしれなかった。

「元気にしてたか」

 真希は頷く。お父さんは?と訊こうとして、やめる。
 真希も覚えのある父の髭はもうなかった。髪も薄くなっているようだ。数センチしかない髪には白い物が混じり、疲れ切った様子の顔には深いしわが溝を作っている。

「行きたいところとか、食べたいものはある?」

 父の話し方は、とてつもなくぎこちない。親子だと言っても、信じてもらうことは難しそうだ。真希は思案したけれど、行きたい場所は思いつかない。

「じゃあ、ハンバーガーでも良いか?」

 駅の中には、マクドナルドもモスバーガーもある。けれども父は、駅から離れるようにして進んでいく。
 工事の音も、駅の雑踏も消え去った場所だった。歩いている人もほとんどいない。裏路地とまではいわないのかもしれないが、車は入ってこられないような細い道だ。父の少し後ろを付いて歩くと、急に足を止めた父が、地下へと続く階段を指さした。

「ここのハンバーガーが美味いんだ」

 真希は店の名前を探した。目立つところに看板のような物はなかった。真希は躊躇した。これまでは入ったことがないような、大人のお店のように見えたのだ。ひとりだったら足も止めず、見向きもしない。早足で通り過ぎているだろう。そんな気持ちを置いてきぼりに、父は階段を降りていった。

「お父さん」

 父が振り返った。

「ん?」
「いいの、ここ、入って」

 父は何度か周りに目配せした。なんとなく状況を理解し、真希が感じている不安も受け取った。だからなのか父は、真希が始めて見るような穏やかな表情をして言った。

「この店に、入ってはいけない人なんていないんだ」

 父の言っていることはよくわからなかったが、真希の心は幾分落ち着きを取り戻していた。
 階段を下まで降りると、分厚い扉が出迎えた。そこには、小学生が図工の時間で作ったような小さな看板が垂れ下がっていた。Haven。真希には何と読むのか、見当もつかなかった。
 父が扉を開けると、慎みのあるベルが入店を知らせた。
 バーだった。真希もこのような店に入るのは初めてだったが、バーだとわかった。
 カウンター席が八つ。六人は掛けられそうな、テーブル席が、四つ。真希たちの他に客は二人いた。

「いらっしゃいませ」
「テーブル、使っていい?」
「はい、お好きな席にどうぞ」

 二人を迎え、メニュー表を持ってきたのは、銀縁の丸眼鏡をかけた、細い男性スタッフだった。ブラウンの生地の厚いスーツを着こなしている。髪はワックスで丁寧に整えられていて、清潔感があった。真希は一瞬、雰囲気がキリンに似ているように感じ、顔が引きつってしまうのを必死でこらえる。

「真希も、ハンバーガーで良い?」

 頷くと、真希の目の前にメニュー表が開かれた。フードの名前は少なく、
その下のドリンクの欄に、数多くのカタカナが並んでいた。

「飲み物、何がいい?」

 そういわれても、と真希は目を落とす。コーラとか、カルピスとか、そういう単純なものが見当たらない。長ったらしい名前を口ずさんでみても、それが何を指すのか、理解できなかった。
 決めあぐねていると、キリンのお兄さんが声をかけてきた。

「甘いのは、お好きですか?」

 真希は、飲み物のことを訊かれているのだと理解していたが、好きですか、という単語にドキリとしてしまう。それで「はい」の返事が裏返ってしまった。

「では、こちらはどうでしょうか」

 キリンのお兄さんは至って自然だ。細くしなやかな指を目で追うと、アリスという文字をなぞっていた。これは飲み物なのだろうか。他に選択する案はなく、真希は小さな声で「それで」と言った。
 キリンのお兄さんは小さな会釈をしてからカウンターに戻り、作業を始めたようだった。
 真希は、こっそりとキリンのお兄さんを目で追いかけていた。目が疲れないほどの薄暗い店内で、音がしない動きは映えている。時おり、カウンター席にいる男女のカップルの会話に入ったり、背中にずらりと並べられた瓶へと目をやり、目的のものを取り出したりしている。
 あれはお酒なのだろうか。まさか、自分の注文したアリスがお酒であることはないだろうけれども。

「お母さん、最近どうだ?」

 突然、父から母のことを訊かれ、現実へと戻されるような感覚になった。なぜかこの場所に、居心地の良さを感じていたようだ。真希は「え、うん」と曖昧に答える。
 少しの間があり、父は空咳をした。真希にも、父が何かを話そうとしていることがわかった。良いことなのか、悪いことなのか。真希には知りえないけれど、聞きたくない気持ちのほうが強い。父は肩をすくめて、店の雰囲気を壊さない声量で話し出した。

「三人で、一緒に暮らしたいと、お父さんまだ思ってる。お母さんがどう思うかは別にして、真希はどうだ?」
「どうって……」

 机の下で、指を絡めた。

「嫌か? 一緒に住んでも良いと思ってるか?」
「わかんないよ、そんなの。いきなり言われても」

 父は困ったように、眉を八の字に曲げた。もっと、もっと困らせてやろうか。私はどちらの味方もしようとは思わない。学校にも母にも父にも、振り回されるのはうんざりだ。真希は父を睨みつけた。

「最近、よく男の人が家にくる。部屋に籠っているから、どんな人かは知らないけど」

 父の顔に表情が見てとれたとき、真希の心は痛んだ。体中をイガグリが暴れるように痛い。仕事の合間を縫って会いに来てくれた父。母に連絡するのも難しいのに、会いに来てくれた父。娘の言葉を聞けて、嬉しそうに笑っている父。母はこうやって、質問してくれたことがあったか。心を察そうとしてくれたか。
 意地悪を言った。困らそうとした。そんな自分が、母に似てきている、何よりの証拠だ。「最低だ」と心の中で言った。もうろくな大人の道には、戻れないのかもしれない。
 父は真希の前で、氷が浸かっている水を一口飲んだ。冷たい息を吐いて、真希をまっすぐに見る。その目には、はっきりと真希の姿が映っていた。

「真希、これだけは覚えておいてほしい。真希が望めば、お父さんはなんだ
ってする。ずっと、真希のことを想ってるから。真希の味方で居たいんだ」

 それだけ言うと、父はまた水を飲んだ。
 タイミングを見計らったように、キリンのお兄さんが両手に料理を持ってやってきた。親子が挟むテーブルに置かれたのは、これまで食べたことがないようなハンバーガーだった。
 パンがふっくらしているのが見ただけでわかる。挟んであるお肉やチーズが、野菜の緑に隠れていて見えないほどだ。真希が思いきり大きな口を開けても、入りきらない高さがある。その隣には主張しすぎず、それでいてメインもはれそうな細めのフライドポテトが白い湯気を上げていた。キリンのお兄さんは、足早にカウンターに戻りグラスを持ってきた。

「こちら、アリスです」

 家には絶対にないグラスだ。その中に納まる薄いピンク色の液体。不思議な優しい香りが、鼻を通り喉の奥を冷やした。
 「ごゆっくりどうぞ」と低めの声で言って、踵を返すキリンのお兄さんを真希は呼び止めた。

「あ、あの。お酒じゃ、ないのですか?」

 ひとりで来ようとしてもたどり着けそうにない場所。薄暗い店内。タイトルのわからないBGM。悪いお店と言われても、仕方がない雰囲気がする。そんな店で、未成年にお酒を提供していても、不思議ではないのかもしれないと、真希は思ってしまった。
 学校にも行っていない。勉強もしていない。法律で守られるような存在ではないけれど、この歳でお酒を飲むのは、良心が痛んでしまう。
 キリンのお兄さんは、ニコッと両頬を持ち上げた。そして、その場でしゃがみこみ、真希と目線を合わす。

「こちらは、モクテルと言われる、ノンアルコールの飲み物です。材料も、パイナップルジュースや、生クリームなどの、アルコールが含まれていないものだけを使用しています。お嬢さんでも、安心して飲んでいただけますよ」

 真希は目を丸くした。お酒ではないのだ。
 ふと、父の前に置かれたグラスにも目をやった。

「お父さんのも?」
「はい。このHavenで提供させていただいているドリンクすべてが、モクテルです。夜もモクテル専門のバーとして、営業させていただいています」

 キリンのお兄さんが説明してくれているとき、父はしっぽを振っている犬のようだった。なにがそんなに嬉しいのか、真希にはよくわからない。
 新たな注文があったようだ。カウンターに戻ったお兄さんは、銀色の水筒のような物に氷を入れてキャップを閉めた。瞬間、目つきが変わりリズムよく氷のぶつかる音を奏で始めた。

「いただきます」

 父が言ってから、真希もハンバーガーにかぶりつく。
 こんなにみずみずしい野菜を食べたのは久しぶりだ。野菜独特のにおいはするけれど、お肉やチーズの邪魔はしていない。別々ではだめ、このメンバーがパンにはさまれることによって、生まれる味がここにあった。

「おいしい」

 自然にそう口にしてから、真希は頬を赤らめた。美味しいなんて、言ったのはいつぶりだろう。学校に行っていたとき、給食は嫌な思い出のひとつだ。
 食べるのが遅いこともひとつの原因だけれど、必ず白いご飯が残ってしまっていた。高確率でお腹が痛くなる牛乳で、ご飯を流し込むのは苦痛でしかない。昼休みになっても食べていることが多く、職員室に呼び出されている日には、もう何で怒られているのかもわからなくなるほどだった。
 だからこうして、食事の相手が会話の弾まない父であったとしても、落ち着いてゆっくり食べられる。その上、その辺で食べられるより何倍も美味しいハンバーガーだ。家から出るのには、かなりの気力を使ったけれど、その分の報酬は得られた。
 両手で持っていたハンバーガーを置いて、口の中のものを飲みこむ。視界の隅に映っていた、アリスに手を伸ばす。お酒ではないとわかったものの、なんだか心がざわめいた。大人の階段を登るのような気がしたのだ。真希はテレビや雑誌で見る、モデルのクビレみたいなグラスを丁寧に持ち上げた。高そうなグラス、割ってしまったら大変だ。それなのに、簡単に折れそうにも見える。
 真希は両の手でグラスを持って、薄いピンク色のモクテルを口に含んだ。

「なに……これ……」

 吐息が混じる声を出す。誰もいない温泉で、全身の力を抜いていくみたいだ。美味しいとか、美味しくないとかそんな次元じゃない。喉が潤うとか、そんなのでもない。柔らかくて、優しい、気球に乗って真っ赤に染まる景色が頭に浮かんだ。なんでだろう。気球になど乗ったこともないのに。旅行にすら言ったこともないのに。
 真希はおかしくなって笑ってしまう。そんな姿を父が見て笑っている。もしかしたら、キリンのお兄さんも笑っているかもしれない。それでもいい。だって、美味しくて笑うって普通のことだと思うから。
 気付けば真希は、椅子の背もたれに体重を預け、時間も忘れてアリスを眺めていた。このお店には、こんな飲み物がもっとたくさんあるのだろうか。キリンのお兄さんの後ろにある瓶の数だけ、景色を見せてくれるメニューがあるのだろうか。
 カウンターに向かって目を光らせていた真希は、キリンのお兄さんと目が合った。気付いてすぐに逸らしたけれど、お兄さんの顔はとっても幸せそうだった。


「学校、行ってないの」

 父との別れ際、真希は打ち明けていた。誰にも言ってこなかった現状。母にすら、相談のひとつもしていないのに、今日の父なら話すことができそうだった。実際、口に出してから話したかったのかもしれないと思った。どういう反応をされるのかは知らないけれど、今日はよく眠れそうだ。
 だからといって、次の日から学校に行けるわけでもない。父と会ってから数日、真希の時間はいまだ動かない。
 真希がいつものように、母の帰りに耳を澄ませていると、異変に気が付いた。今日は金曜日のはずだった。それなのに、母の帰りとともに男がこない。男が来ていたらすぐにわかる。足音もうるさいし、家に入るとすぐに真希の名を呼ぶからだ。今日はそれがない。ここ最近、金曜日は確定で男がきていた。真希は布団に潜り、膝を抱えた。嫌な予感がする、心からの鳥肌が全身へと広がる。寒くない、むしろ暑いはずなのに、体が震えた。
 母は真希の部屋の前に、乱暴な足取りでやってきた。当たってほしくない予想ばかり当たってしまう。予感していたので、余計に鼓動が激しい。

「真希!」

 母が部屋に入ってきた。ノックなんてものは存在しない。
 布団の中で体が浮いた。掛け布団が真希の体から剥がされる。
 母の顔は鬼の形相そのものだった。眉間に深いしわを作り、真希を睨みつけている。真希に心当たりはない。学校には行っていないけれど、母に関わらず迷惑をかけることもなかったはずだ。
 真希の目には、すでに涙が浮かんでいた。小さな窓から逃げ出したい気持ちにかられるが、体は石のようにこわばり動かない。

「あんた、アイツになに言われたか知らないけどね、自分勝手もほどほどにしなさいよ。勉強もしない? 学校も行きたくない? 許してるあたしの身にもなってよ」

 母は何かしらのことを父と話したようだ。父がなにを言ったのかはわからない。真希はこれでもかというほど、体を小さくするしかなかった。

「あんたね、不満を言える立場じゃないのわかってる? あたしが働いて、嫌な上司に何言われても、あんたに飯を食わすために働いてるの。財布から金抜いてるのも知ってるから。昼夜逆転して、夜中に台所あさってるのも知ってる。いい加減にしてよ」

 母は一息に言って、また息を吸う。なにか続きの言葉があったようだが、喉が動くだけだった。
 母の拳が握られている。真希が口を開こうものなら、飛んでくるに違いない。黙っていると、崩れるように過去を後悔するように、母は声を絞り出す。

「結婚なんかしなければよかった。あんたなんか、産まなければよかった」

 学校に行っていたときの記憶が蘇った。人生は後悔の連続なのだという。けれど、それにはとても価値があって、前に進む燃料にもなると。真希の経験だが、後悔はいずれ消えてなくなる。忘れてしまったり後悔していた時間が馬鹿らしくなるほど楽しい時間になったりもする。でも母はどうだろう。後悔しているものが、ずっと残っている。真希という後悔の原因が、重りとなって母の足を重くしている。
 真希は静かに立ち上がった。それは自分でも驚くほど自然に体が動いた。母とすれ違い、部屋を出るとき、真希は小さな声で言った。

「ごめんなさい、生まれてきて」

 行く当てはなかった。当たり前だ。予定もないのに、外へ出るのは初めてだ。大人だったらこういうとき、どうするのだろう。お金があるから、ホテルやネットカフェなんかに入るのだろうか。友達や同僚の家へお世話になったりもできそうだ。
 外は暗闇に覆われていた。均等に並ぶ街灯のライトがひとつ切れていたけれど、足元は問題なく見えた。
 狭い歩幅で歩いていると、ひときわ明るい建物があった。それを見て真希は、駅に向かっていたことを思い出す。真希は足を止めた。駅の周りを歩く人はみんな大人だ。子供だけで歩いている人はいない。もし、警察や警備員に見つかったらどうなるのだろう。迎えを呼ばれるとなれば、連絡がいくのは母しかいない。
 真希は進路を変えて、駅から離れた。
 闇は深くなっていった。通る車は減っていき、心なしか町が静かになっていく。星は一個も見えないけれど、自分には必要がない物だから寂しくもなんともなかった。
 何人かとすれ違った。最初は緊張して顔を見られないように地面を見て歩いた。でも、よく考えれば犯罪者みたいでそっちの方が怪しいのではないか。そう気が付いてから、誰かとすれ違うときでもいつも通り歩いた。幸いといっていいのか、真希は誰かに通報されることも、捕まることも、連れ戻されることもなく歩き続けることができた。

 無意識の内に、見覚えのある場所に来ていた。昼間に来たときよりも、今夜は存在感があるようにみえるお店だ。
 
 どうしてここに来たのか。来てどうするのか。真希にはお金もない。でもここまで来てしまったら、キリンのお兄さんに会いたくなった。
 地下に降りる階段には、オレンジ色のライトがくすみつつも光っていた。それだけなのに、なぜか真希は安心できた。
 店内に入る前、ドアノブを握ってから真希の動きがとまった。この扉の向こう側を想像すると、怖くなってしまった。握る手にグッと力を込める。怖いものなど何もない、初めて来たとき大人の階段を登ったのだ。真希は力強くドアを開ける。
 引っ付き虫のように頭の中に残っている来店を知らせるベルが、キリンのお兄さんを呼んでくれる。真希の姿を見て、優しく微笑んだようにみえた。キリンのお兄さんは手招きをして、カウンターの一番隅の席に真希を座らせる。

「あの……」

 手が伸びてきて、宝石みたいに輝く氷の入った水が置かれた。この席だと、ライトの位置が違って反射する光が見えるようだ。

「いらっしゃいませ、今日はおひとりですか?」
「えっ、えっと」

 いまの状況を、真希が説明できるほどの言葉はなかった。だから誠心誠意、頭を下げた。

「ごめんなさい。いまお金持ってなくて。でも、ここしか、これる場所がなくて」

 正直なところ、このお店もお金のない未成年の女子が来て良い場所でもないだろう。そんなことくらい真希もわかっているが、この人なら拒まず店に入れてくれると期待している自分が居る。こんな図々しさも、母譲りだと思うと、嫌気がさす。

「では、附けておきますね」

 払えるだろうか、なにもできない、しようとしない、逃げてばかりの私に。父とハンバーガーを食べに来たとき、会計の数字に驚いた。実際そのお金を払う価値はあったけれど、真希がこれまで食べてきたものの値段ではなかったのだ。
 附けてもらって支払うなんてことをしたことはないけれど、真希には今日の恩を絶対に忘れない自信があった。必ず支払いに来よう、そう心に決めた。

「なにを飲みますか?」

 キリンのお兄さんが、メニュー表を真希に差し出そうとしたとき、真希はまるで練習してきたみたいに即答していた。

「アリス、アリスをお願いします」
「かしこまりました」

 キリンのお兄さんはにこやかな顔でそう言った。
 父と来たときは、キリンのお兄さんがモクテルを作る姿が見られなかった。だから今日は、じっとお兄さんの手元を真希は見ていた。
 棚と冷蔵庫から、材料を取り出す。どこに何が入っているのか、きっとクイズのように出題しても答えてくれそうだ。
 次にキリンのお兄さんは、蝶ネクタイみたいな容器に、出してきた材料を入れては、もうひとつの水筒のような容器に入れていく。真希の視線に気づいたお兄さんはが、蝶ネクタイの容器を見せてくれる。

「これは、メジャーカップ。計量カップみたいなものです」
「計って、こっちに入れるんですか?」
「そう、こっちがシェイカー。計ったものを入れるときは、半分のところで開けて、シェイクしてからグラスに移すときは、先端の蓋をあける。ここは氷が落ちないようになっています」

 キリンのお兄さんは「ほら」とシェイカーの中を見せてくれた。真希は黙って見つめる。自分の道具について語るお兄さんは、氷みたいに眩しかった。
 材料は、オレンジジュースとパイナップルジュース。グレナデンシロップという赤い液体と生クリームだった。自分だったら絶対に混ぜたりはしないもの同士なのに、どうしてあんな味が出るのだろう。
 カウンターの下から出てきたのは、氷だった。キリンのお兄さんは何粒かの氷もシェイカーの中に入れて、蓋をしめた。
 真希は目を離せなかった。CGのような滑らかな動きで、シェイカーを振る。小気味よい音が、連続して鼓膜を刺激した。ずっと聞いていたい、そう真希が思ったとき音はやみ、店が静かになった。

「え、もう終わり?」

 つい口を突いて出てしまっていた。キリンのお兄さんは小さな声を出して笑う。

「また注文してくれたら、聞かせてあげますよ」

 シェイクする回数すらも、すべて計算されているのかと思うと、お兄さんの性格が垣間見える。モクテルを作る動作、ひとつひとつも値打ちがあるのだ。
 どこからともなく、あの折れてしまいそうなグラスが出てきて、シェイクされたアリスが顔を出した。とろみのあるアリスは、ゆっくりと跡を残しながらグラスに収まっていく。
 コルクのコースターに乗せられて、アリスは真希の前に出された。自信満々で胸を張っているように見えて、見た目に反して凛々しかった。

「いただきます」

 アリスが真希の喉を通る。空っぽの胃の中に、甘くて優しいアリスが流れていく。真希は吐息を漏らし「おいしい」と言った。
 感じたのは、父と来たときとは別のものだった。今回は少し甘めだ。遊園地、そう、子供から大人まではしゃいでしまう遊園地の景色が見えた。絶叫系に乗った人の叫び声。家族で乗るボート。恋人と乗る、観覧車。そんな音や匂いがした。
 不思議だった。飲み物ひとつで、いろんな景色が見られるなんて。真希は、アリスをもう一度味わって飲む。
 味に変化はない。プロフェッショナルのお兄さんが作ったのだ。毎回味が違うということはないだろう。それなら、なぜ。

「大丈夫ですか?」
「え?」

 キリンのお兄さんは、真希にハンカチを手渡した。真希が頬に触ってみると、指先が濡れた。なんで、泣いているのだろう。ハンカチを受け取り、涙をぬぐう。
 考えてみれば、さっき見た景色は昔の思い出だと思う。真希が初めて、生まれてきてよかった、この家族のひとりになれてよかった、そう思った日だった。
 家族三人で行った、最初で最後の小旅行。お金がなくて、濡れるアトラクションでカッパは買って貰えなかった。三人とベタベタになりながら、大笑いしたっけ。お昼には、父が図書館で借りてきた遊園地内のコスパ最強のレストランという本で下調べしたご飯を食べた。午後は、お母さんが濡れてイライラしていたところに、靴擦れというアクシデントが重なり、父が八つ当たりされてたな。
 懐かしい。もう、みんな忘れてしまったのだろうか。いや、自分も忘れていた。そんな楽しい過去など、自分にはないと思い込んでいた。
 みんなから、馬鹿だアホだと言われていた。自分の意見など聞いてもらえなかった。どこに行っても、何をしても、否定ばかりされた人生だ。これまで生きてきたこと、これから生きていくこと。自分自身で否定している。やめることなどできなかった。やめるべきかも、わからないから。
 真希はテーブルに置かれたアリスを喉に流す。再び広がる優しい甘さが、脳へと糖分が運ばれる。
 アリス、それは不思議の国のアリスのことなのだろうか。真希はアニメのアリスしか出てこないが、内容までは覚えていない。すごくかわいらしい服を着ていたのだけは覚えていた。
 嫌なことばかり思い出してしまうのにも嫌気がさして、真希は顔を上げた。そこには変わらずそばに居てくれているキリンのお兄さんが、グラスを拭いていた。

「このアリスって、アニメのアリスですか?」
「そのとおりです。お嬢さんは見たことありますか?」

 真希は曖昧に小首を傾げる。

「不思議の国のアリス。原作は児童書なんです。作者はルイスキャロル。数学者だったそうです」

 なんだか勉強の話しみたいだ。肘をつき、手を顎に当ててキリンのお兄さんを見上げる。

「お嬢さんは、本をお読みになりますか?」

 真希は首を振った。それだけだと思っていたのに、無意識に呟いていた。

「文字、読めないから」

 なぜ、言ってしまったのだろう。アリスはアルコールじゃないはずなのに。お店の雰囲気なのか、目の前にいるお兄さんのせいなのか。口を閉じていても、言葉がこぼれてしまう。こんなの親や友達にも感じたことはない。だからといって嫌な感じはなく、真希は言葉を繋ぐ。

「学校にももうずっと行ってなくて。自分が悪いんだけど、宿題も勉強も、給食だって食べるの遅いし。頑張って行っても、楽しいことなんか何もなくて。先生に怒られて、クラスのみんなからは笑われて」

 真希は、カウンターの向こう側にいる、キリンのお兄さんを見上げた。

「今日は、お母さんの機嫌が悪くて、飛び出してきたの」
「そうでしたか。無事にここに来られて良かったです」
「私、変なのかな。どこかおかしいのかな。みんなができること、私にはできないし」
「そんなことはないと思いますよ?」

 キリンのお兄さんが言った。

「お嬢さんには、できることがたくさんあるのを、わたしは知っています。これまで生きてこられた。ご飯を食べて、睡眠をとって、誰かの感情もよく見ています。そして、ひとりでここに来られた」
「そんなの、誰にだって!」

 つい言い返してしまう。なにも知らない、知ったかぶりのキリンのお兄さんに。でも、次の言葉を探したとき、真希ははっと思った。
 ――誰にだって……できる?

「お嬢さんが、言いました。みんなはできることが私にはできないと。もしお嬢さんに文字が読めて、勉強ができても、それは誰にだってできること、なのではないですか?」

 真希はごくりと唾を飲んだ。矛盾、しているのだろうか。

「不思議の国のアリスの世界には、ルールや常識はありません」

 いつ作っていたのだろう。キリンのお兄さんは、真希の前にあるアリスと同じものを右手に持っていた。黄色く暖かいライトに照らされている。それをみながら、キリンのお兄さんは続けた。

「この世界は、お嬢さんも知っての通り真逆ですね。ルールが溢れ、一旦常識から外れてしまうと、この世界に居場所なんてものは無くなってしまう、そんな場所です」

 キリンのお兄さんは「でもね」とアリスを一息に飲んで真希を見た。

「それは、大人になってからなんですよ」

 そのとき、真希の背中の方から、来客を知らせるベルの音とともに「真希」という大きな声が聞こえた。瞬時に振り返ると、真希の目が捉えたのは父の姿だった。

「お父さん!?」
「お母さまには、わたしから連絡しようがありませんので、今日はお父さまに連絡させていただきました」

 父が店内に入ってきて、キリンのお兄さんに頭を下げる。

「ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、お客さまを迷惑なんて思ったりはしませんよ。ここに、来てはいけない人は居りませんので」

 父は真希の近くにきて、グラスを見る。すぐにドロドロで汗臭い作業着のポケットから、財布を出してきた。と、父の手がとまる。キリンのお兄さんが、制止したのだ。

「お父さま、今日のお勘定は、お嬢さんの附けでございます。お支払いいただかなくて、結構ですよ」

 父は、驚いたように目をぱちくりさせた。

「えっと、それはどういう……」

 キリンのお兄さんは、真希に目配せした。
 父にその意味がわかったのかどうか真希はしらないけれど、真希にはしっかりと伝わっていた。

 店を後にして、父の車に乗り込んだ。こんなのでもまともに動くんだと不思議に思ってしまうほど、おんぼろの軽自動車だ。流れる景色は殺風景で、代わり映えはしない。アリスだったら、こんな世界つまらないだろな。どこかに飛び出していくのかな。
 父が運転する車は、見覚えのある道をたどっていく。母がいる家に向かっていることは容易に理解できた。味方で居てくれると言った父も、ルールに縛られている大人なのだ。もしいま、ここで真希が父と一緒に住みたいと言ったら父は困るだろうか。アリスだったら、言ってしまうだろうか。どこにも行けない、なにもできない私を、笑うだろうか。
 舌の奥に、店で飲んだアリスの香りが残っていた。なめとるように、舌を動かすと、鼻孔にアリスを感じる。キリンのお兄さんが言っていた、言葉が同時に蘇ってくる。

 ――大人になってから。

 真希はハンドルを握る父を見た。ときどき街灯に照らされる父の横顔が、たくましく見える。真希が知る父の性格とは、正反対だから笑ってしまう。

「どうした?」

 真希の頬が緩んだのに気が付いて、父がちらりと真希を見た。

「お父さん」
「ん?」

 真希は、十分すぎる間をあけた。しかしその間、車は少しも進まなかった。

「お父さんと一緒に住みたい」
「それは、真希が望んでいるの?」
「うん」

 父は、窓の外を少し眺め、心の中で何かを決意したかのように長く息を吸った。

「わかった」

 どんな顔で言ったのか、真希にはよく見えなかった。車が動き、車内が暗くなってしまったからだ。

 父と一緒に住むには、親権を移す必要があるそうだ。それには手続きが必要で、いますぐとはいかないと父は言った。
 それでもいい。その間の時間を、真希は有効に使おうと心に決めた。アリスみたいに、何かの扉を開けてみたい。父との生活は、一枚目の扉かもしれない。できないことはたくさんあるけれど、できることを見つけるまで、扉を開け続けたらいい。学校に行けるかどうか自信はないけれど、いつか行ってみようかな。
 父がハンドルを切ると、車は交差点を左折した。小学校のころ俯いて歩いた道だった。向かう先は母がいる家。何かを決めたところで、すぐに変わるわけではない。でも舵を切らないことには、何も変わらないのかもしれない。
 アリス、君もそうだったの? 毎日が退屈で、何かを変えたくて、不思議な世界に入り込んだのも、もしかしたらそれをアリスが望んでいたんじゃないの?
 何かを望むことは、舵を握ること。真希は、自分の人生の舵を握った。

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