15分の雨宿り
雨の日の夕方、渋谷スクランブル交差点を見下ろす
カフェの窓際カウンター席。
そこが私たちの定位置だった。
名前は知っている。
彼は「ハセガワ」、私は「ミナミ」。
それだけだ。
連絡先は知らない。
どこに住み、何の仕事をしているかも知らない。
ただ、雨が降ると驚くほどの確率でここで出くわした。
「あ、どうぞ」
彼がノートPCを少しだけ横にずらす。
私は「ありがとうございます」と会釈して、一つだけ空いていた隣の席に腰を下ろした。
これが何度目かも、もう数えていない。
「今日もよく降りますね」
「本当に。この季節の雨は冷えます」
私たちはごく自然に言葉を交わす。
何年も前からの友人のようでもあり、今日初めて言葉を交わした赤の他人のようでもある。
お互いの輪郭はいつも曖昧で、次に会う保証はどこにもなかった。
……
四度目か五度目の雨の日のことだった。
会話の最中、私は胸の奥に奇妙な違和感を覚えた。
ハセガワがノートPCを閉じるタイミング。
私が、読みかけの文庫本をバッグに収めるタイミング。
すべてが、前回と全く同じタイムラインで行われている気がした。
「……じゃあ、私はそろそろ」
彼が立ち上がる。
その瞬間、私は自分の奇妙な記憶の欠落に気づいた。
前回、私たちはどうやって別れたのだろう。
その前は?
私たちはいつも、どちらからともなく席を立ち、どちらかが先に雨の中へ消えていく。
そして次に会うとき、私は彼が「前回何を話していたか」を思い出せない。
覚えているのは「ハセガワという男と、ここで話した」という事実だけ。
会話の内容、彼の表情のディテール、そのすべてが綺麗に消えている。
「ハセガワさん」
私は思わず呼び止めた。
「私たち、前はなんの話をしましたっけ」
ハセガワは傘を握ったまま、少しだけ困ったように眉を下げた。
「さあ……。何でしたかね。でも、楽しかったことだけは覚えていますよ」
彼は柔らかく微笑み、自動ドアの向こうへと去っていった。
偶然にしては、揃いすぎている。
彼が去ったあとの座席には、彼がいたという温もりすら残っていないように感じられた。
……
次の雨の日。
私たちは、また同じカウンターの端にいた。
「あ、どうぞ」
彼がノートPCを少しだけ横にずらす。
「ありがとうございます」
私は席に着く。
ハセガワが画面から目を離し、「今日もよく降りますね」と言った。
心臓が冷たく脈打った。
デジャブではない。
私たちは、完全に同じことを繰り返している。
時計を見ると、会話が始まってからちょうど十五分が経とうとしていた。
このあと、彼はいつも通りに席を立つのだろうか。
「ハセガワさん」
私は彼の言葉を遮るように言った。
「私たち、いつも十五分くらいで話を終えて、どちらからともなく別れていますよね。前回の話も、その前の話も、次に来たときには何も残っていない」
ハセガワの動きがぴたりと止まった。
彼はPCの画面を見つめたまま、小さく息を吐き出した。
その表情には、すべてを見抜いたような鋭さはなく、どこか当惑したような揺らぎがあった。
「……僕も、時々わからなくなるんです」
彼はPCをパタンと閉じた。
「忘れたふりをしているのか、本当に忘れてしまっているのか。ただ、この場所であなたに会うと、これ以上は踏み込んではいけないような気がして、いつも同じところで言葉が途切れてしまう。まるで、最初からそう決まっていたみたいに」
ハセガワ自身も、この奇妙な距離感の正体を図りかねているようだった。
ここが、私たちの関所のようなものなのかもしれない。
行く人も帰る人も、知る人も知らない人も、ただすれ違い続けるための場所。
私たちはそれをどこかで察しながらも、なぜかいつも十五分で幕を閉じる奇妙な習慣に従い合っている。
「私たち、会うたびに初めて会ってるふりをしているだけなのかもしれませんね」
私の言葉に、ハセガワは曖昧に微笑んだ。
そして、自分の腕時計に視線を落とす。
ちょうど、いつもの時間が満ちようとしていた。
「……じゃあ、私はそろそろ」
彼はいつもの動きで立ち上がった。
それが彼の意志なのか、この場所に流れる習慣なのかは、やはり分からないままだった。
……
次の雨の日。
私は再び、あのカフェにいた。
カウンターの端には、ノートPCを開いた彼が座っている。
私は彼の隣に歩み寄り、声をかける。
私の胸には、これまでのすべての記憶が残っている。
彼と積み重ねなかった時間が、痛いほどに詰まっている。
でも、彼は私を見上げて、完全にリセットされた他人の目を向けた。
今度は彼が、あの曖昧な境界線の向こう側にいる番なのだ。
「あの、ここ、空いていますか?」
ハセガワは優しく微笑み、ノートPCを少しだけ横にずらした。
「あ、どうぞ」
「ありがとうございます」
私は席に着く。
私たちは、また一から会話を始める。
これが何度目の最初の一歩かも分からないまま、新しく、けれど完全に決まった大人の距離感を保って、言葉を交わす。
数分後、彼はまた時計を見るだろう。
そして、私を残して去っていくだろう。
私たちはどれだけ惹かれ合っても、一歩も前に進めない。
それでも、私は彼に微笑みかける。
冷たい雨の降る交差点の片隅で、積み重ならない時間を愛おしみながら。
その日も私たちは、はじめて別れた。
これやこの
行くも帰るも
別れては
知るも知らぬも
逢坂の関
